ハーフターム2
目を開くと、ヘンリーの顔がすぐ傍にあった。心配そうにサラを見ている。
「サラ、気分はどう?」
ぼんやりとして、頭がうまく働かない。
「お腹空いていない?」
「ヘンリー」
「何?」
「渡すものがあるの。そこのドレッサーの上に置いてある」
サラは身体を起こそうとしたが、全身がだるく手足の節々が痛んでうまくいかなかった。
「寝てなよ」
ヘンリーは、サラを制してドレッサーに向かう。
控えめな装飾だが、猫足の柔らかい曲線でシルエットの美しいそのドレッサーを見て、ヘンリーは思わず笑ってしまった。
鏡全面に数式が書いてある! これでは鏡の役目を果たせないじゃないか……。
鏡の前に置かれたテーブルランプに、ふと目が留まった。アンティークのランプには似合わない、安っぽいビニールテープのリボンが結んである。メタリックカラーが、けばけばしく異彩を放っている。
「サラ、これかな?」
ヘンリーは、疑問に思いながらも目をそらし、置かれていた紙の束を取り上げた。
「テストと練習問題の結果から分析したの。ヘンリーの間違いのうち、89%が計算ミス。5%が問題の読み間違い。あとの6%が……」
頭がくらくらする。息が苦しくて、言葉が続かない。
「ありがとう。サラ、でも、今はいいから。ゆっくり休んで」
ヘンリーは、サラの額に手を当てる。
「昨日よりも、熱が上がっている」
「でも、すぐにヘンリーは学校に戻ってしまうのでしょう?」
「まだ時間はあるよ。薬を飲んで。ゆっくり眠るんだよ」
ヘンリーは、洗面器にタオルを浸し、固く絞って、サラの汗ばんだ顔や首すじを拭いてやった。
結局、サラが起き上がれるようになるまで、四日もかかってしまった。
「ヘンリーは七の数字に弱いの。これは、ヘンリーが計算ミスしやすい問題を十問につき七問ずつ混ぜてある」
サラは、クリーム色のソファーから身を乗り出すようにして、ローテーブルの上に、プリントを一枚一枚並べていく。
今日は、朝から雨だ。やっと動き回れるようになったのに、外には行けそうもない。部屋に籠りっきりも嫌だったので、コンサバトリ―で、お茶を飲むことにした。
「これが、統計的にテストに出されやすい公式、で、こっちが……」
サラは元気になるなり、早速、手作りの数学問題集の説明を始めたので、ヘンリーは苦笑して言った。
「サラはホワイト先生より厳しいな」
「だって、ヘンリー……」
ヘンリーが喜ぶと思ったのに……。
サラは一気に意気消沈してしまった。
「風邪が治ったばかりなのに、サラは僕の心配ばかりしている」
ヘンリーは、飲みかけのティーカップを下して言った。
「ありがとう。ちゃんとやるよ。繰り返してやればいいんだね。」
「やるんじゃなくて、覚えるの。数字の組み合わせのパターンを覚えて」
「計算するんじゃなくて、暗記するの?」
「これだけ覚えれば、リズムが見えると思うの」
ヘンリーは、目の前に座るサラから、背後のアビシニアバショウの緑の葉へ、そしてガラス張りの天井へと視線を移していった。ガラスに雨粒が当たり、流れ落ちていく。
サラは、本当にぼくと同じ世界を見ているのだろうか?
ヘンリーはサラに視線を戻して聞いてみた。
「サラはどうして数学が好きなの?」
「綺麗だから」
「リズムが見えている?」
「数字だけでも綺麗だけれど、数列になるとリズムになって、綺麗な公式は音楽なの。数字と踊るの」
そして、しばらく間を置いてぽつりと呟いた。
「ヘンリーは私が数字と遊んでいても怒らないから、嬉しい」
「怒る? なんで?」
ヘンリーはいきなり現実に引き戻され、慌てて聞き返した。数字と踊っている自分を想像して笑い出しそうになっていたのだ。
「役に立たないから。そんな暇があったらパソコンを作れって」
「好きで作っていたんじゃないの?」
「好きよ。自分のパソコンが欲しかったから、おじいちゃんの壊れたパソコンを貰って、作り直したの。そしたら、エンジニアになれって。そうすれば、わたしみたいなのでも、生きていける道が開けるからって」
珍しく、サラが自分の話をしている。インドの身内のことなど、従兄弟に算数を教えていた、くらいしか知らない。だが、それ以上に、サラの言い方が、気にかかった。
「どういう意味? 『わたしみたいなの』って」
ヘンリーは、真剣な顔で問い質した。
「アウトカースト扱いされていたから」
「…………」
ヘンリーは、困惑して眉をしかめた。
「だって、穢れた雑種の子だもの」
サラは、当たり前のように淡々と続けて言った。
暫くの間、ヘンリーは、唇を噛み押し黙っていたが、膝の上で拳を握りしめて口を開いた。
「スミスさんが、サラの家系はバラモンで、戒律が厳しいからって……」
サラはこくんと頷く。
「わたしは、穢れているから、ほかの人といっしょに食事してはいけないの。ひいおじいちゃんが亡くなって、おじいちゃんに引き取られてからは、母屋にも入れてもらえなくて、ひとりで、離れで暮らしていたの」
逆だと思っていた。サラがヘンリー以外の、人のいるところで食事をしないのは、サラが高カーストだからだと思って疑わなかった。
「ヘンリーとトーマスだけが、いっしょに食べようって、言ってくれた」
「トーマス? スミスさんと一緒に来たっていうエンジニア?」
「ファッジをくれたの。わたし、ひとつ食べて、その後、トーマスもひとつ食べたの。嬉しかった。今まで、わたしが少しでも触った食べ物は、汚らしいって捨てられていたもの」
サラは嬉しそうに笑いながら、珍しく饒舌に喋り続ける。
「それに……。覚えている? ここに来た日、ヘンリー、わたしの頭を撫でてくれたの。すごく、嬉しかった。あんな風に、わたしに触れてくれた人はいなかったもの」
ヘンリーの目から、ついに耐え切れずに涙がこぼれ落ちた。
「怒られて、殴られたりしたこともあった?」
ヘンリーは、悟られないように顔を伏せ、声を詰まらせながら問うた。
サラは静かに頷く。
「ここは、英国だ。もう誰とでも、一緒に食事できるんだよ」
「食事のとき、ヘンリーは、マーカスとも、メアリーとも同席しないわ」
はっとして、涙の一杯に溜まった目を見開いた。
「何が違うの?」
返答に、詰まった。
「それは……。マーカスも、メアリーも使用人で、給料を払っていて……。同席しないのは、それがルールだから。でも、でも、使用人でも家族と変わらない。彼らを貶めたりしないよ」
ヘンリーはもう、ボロボロと泣き出していた。
「どうしてヘンリーが泣くの? 同じよ。それが、インドのルールなの」
ヘンリーは激しく首を振る。
「違うよ、サラ。きみは悪くない! サラは穢れた子どもなんかじゃない。きみが受けてきた仕打ちは虐待で、ルールなんかじゃない! それがルールだっていうんなら、そのルールが間違っているんだ!」
大声でわめきだしてしまいそうだった。でも、そんなことをしたらサラが怯えてしまう。必死で自分を押し殺した。握り締めている拳がブルブルと震えている。
サラはそんなヘンリーを困惑して見つめていた。
「こんな形で生まれてきたのは、わたしのカルマなのよ、ヘンリー。だから、こんな世界でも生き抜けるように、ひいおじいちゃんは、わたしに生きていくための武器をくれたわ」
サラは、ヘンリーを諭すように静かに言った。
「武器?」
「神様の下さった知識と知恵を学ぶことが、お前を助けてくれるって。知恵ある者の前に、愚者は怖れひれ伏すだろう、って。わたしを教育してくれた」
「きみがいつも必死で何かに打ち込んでいるのは、今まできみが受けてきた差別と戦うため? 誰より賢くなって、誰にも作れないようなパソコンを作って……。そうしないと生きていけなかったから? サラ、きみが受け入れても、僕には、受け入れられないよ」
ヘンリーは、ソファーに腰かけるサラの横に座り、その手をぎゅっと握り締める。
「僕はサラがこんなに賢い子じゃなくたって、ずっと大切にするよ。だって、サラは、僕の妹だもの。因習だとか、ルールだとか、そんなことよりも、サラが僕の家族だって事実の方が、ずっと大事だよ」
ヘンリーはサラを抱き寄せ、額にキスして言った。
「家長が、家族を守る。それがこの家のルールだよ。僕なら、きみにそんな辛い思いはさせないし、何かを強制したりもしない。覚えておいて。今は、ここがきみの家だよ」




