殺してクレイモア
電撃大賞規定のdocxファイルをtxt出力しただけなので読みづらい箇所が山のごとしと思われますが、その点につきましては「ゴミの修正なんていちいちやってられっかよバーカ!」という当方の内なる叫びを汲んで頂ければ幸いです。
朝九時に起きた私はまず顔を洗うと食パンを焼きたっぷりのバターとイチゴジャムを塗りつ
けて頬張った。食後は牛乳を一杯、ひと思いに飲み干すのが慣わし。ともに至福の時間だ。
ふうと一息をついたとき、携帯電話の着信音が室内に鳴り響いた。
出ると男の声がこう言うのだ。
「福祉の呉井最愛さんかい?」そのとおり。私は「そうですけど」と肯定する。
「殺して欲しいんだが」やっぱりなと思う。
「今は休業中です。またのご利用を――」お待ちしておりますと続けて、電話を切りたかった
のに男が「そんなっ」とこれ以上ないくらいに絶句してみせるから、タイミングを逃した。
「申し訳ありません」
にも関わらず男は悲痛な声で懇願し続けるのだ。
「頼むよ。今すぐに殺してくれ。もう限界なんだ。俺はハゲでチビでデブだから童貞で、童貞
だから卑屈で臆病で意気地がない。そんな男がいい仕事に就けてるわけがねぇ。無職だ。今は
単純産業どころか専門的な仕事だってロボットがやっちまうから、俺みたいな凡人以下がつけ
いる隙なんてのはどこにもありやしねえ。もう人生が嫌んなっちまった。だからもう殺してく
れ。あるぶんの金を払うから、つっても残金一万しかねえけど、あんた一万からやって――」
男が話し続ける中で私は一秒考えた。
「そこが踏ん張りどころかと思います」
反論する隙は与えない。私は電話を切ると即その男の電話番号を着信拒否に設定した。
電源オフ。そして机の引き出し奥深くに封印する。当面の間、その手の電話は受けたくない。
私はダイニングチェアにより深く腰を沈めると、脚で床を蹴り、その場でぐるぐると回った。
時計回りに流れゆく光景はどの時点を切り取っても私の部屋であることに変わりない酷く退
屈なものだ。それはまるでルーチンのようだった。
自殺志願者専門の殺し屋なんて非日常に身を投じれば、普段お目にかかることのできない人
間ドラマの連続で、毎日が退屈しないと思った。
しかし現実のドラマはつまらなかった。さっきの男のように、あれもないこれもない、ない
ない尽くしでキリがないから「死にたい」「殺してくれ」と誰もが口にする。他に言うことはな
いのか。なかったのだ。
椅子の回転はパソコンのディスプレイと向かい合うところで止まった。すでに電源は入れて
あり、私はインターネットブラウザを起動すると、乱雑な手つきをキーボードを叩いた。
次に私が叩いたのは精神科の診察室、そのドアだった。
「最近の無気力はどうも精神疾患のそれに近い」とこじつけての行動だった。本当のところは
退屈しのぎになればそれでよし。処方される薬でハイになれれば、尚のことよし。
「どうぞ」
入室すると、決して嫌いではない、薬品の匂いがした。
濃紺のジーンズにタートルネックのセーターを組み合わせ、その上に白衣を羽織った三〇代
くらいの男は、机上のカルテと思しき書類にペンを走らせていた。ドアの開閉音でこちらに気
づいたらしく、ペンを止めこちらを向き「ビビらなくても大丈夫、精神科は初めて?」と言わ
んばかりの優しい微笑みを見せた。
それには確かな効果があるようで、病院独特の緊張感が薄れていくのを感じた。
「どうぞ、お掛けになってください」目の前のパイプ椅子に座ると診察が始まった。
「今日はどうされましたか?」
「最近なんだかやる気が出なくてですね」
「死にたいと思うことは」「ないです」「眠れていますか?」「人並みには眠れていると思います」
医者はそれら私の回答に「ふむふむ」とわざとらしく頷きながら、ノートに記せるだけの何か
を記していった。
「お薬を出しますので、また来週来てください」
時計を見ると診察が始まってから三分も掛かってないことに気がつく。
会計窓口で私は目をむいた。もちろんそのまま目をむいたという意味ではなく、目の前に置
かれたポリバケツ容器よろしくの容器にぎっしりと詰まった錠剤の数々に驚かされたのだ。
私は面と向かい合う薬剤師の女性に訊いた。
「何かの間違いではありませんか?」と。
薬剤師は処方箋とバケツを交互に三度見直した。
「合ってます。一万五千円になります」
「何かの間違いでしょ?」
今度は見直さなかった。
「合ってます。一万五千円になります」
結局断り切れずに一万五千円のポリバケツを抱えて帰宅することになった私は一緒に渡され
た紙を見る。薬の名前がずらりだ。覚えきれる気がしない。そしてそれらを「ジョッキで掬っ
ってガバガバ飲んで下さい。なんならビールと一緒にどうぞ」という旨が記されている。
その服用は素人目に見てもおかしいだろ。
病院と医師に猜疑を感じた私は早速お得意のインターネットに繋ぎ、病院のこと医師のこと
処方された薬のことを、私なりに隈無く調べ上げた。
結果から言うとその病院は拝金主義のヤブであり依存性のある薬を過剰処方するため問題視
されているのだが、一部ジャンキーの間ではあり得ない量の薬が湯水のごとく湧く「聖地」と
して崇められているのだった。ふとテーブルに置いたバケツに目をやる。つまり、私はまんま
と病院の養分となったというわけか。そう考えると無性に腹が立ってきたし、医師の微笑みが
脳裏をよぎって気色悪いとも感じる。やがていてもたってもいられなくなった私はこうイメー
ジする。診察室につけてきた足跡、そのうちひとつを地雷に変えてやった。腹いせの妄想なん
かじゃない。これは今、現実に起きたことだ。その証拠はこの私の経歴にある。この足の裏か
ら置かれる不可視の地雷が、今まで幾人もの人生を台無しにしてきたのだから。
まず、初めて吹き飛ばした相手は自分の母親だった。
母親の買い物について回りお菓子をねだって怒られて、終いに拗ねてみせるという――よく
ある光景だ。当時八歳だった私は知らず知らずのうちに、そんな日常に地雷のエッセンスを加
えてしまった。私の仕掛けた見えない地雷の上に立った母は、激情に駆られた私の一言「ママ
なんか爆発しちゃえばいいんだ」で本当に爆発してしまった。
硝煙から血まみれの姿を現し、私に向かって前のめりに倒れた母を見たとき、私は今までに
なく泣いた。
「ママ、ママ」と。
母が死んだと思った。
母は生きていた。
早急な通報を受け駆けつけたレスキュー隊の俊敏正確無比懸命な処置によって奇跡的に一命
を取り留めたのだ。
それでも脳の一部は損傷し情緒不安定、全身は重度の火傷で包帯ぐるぐる巻き、下半身には
不随の障害が残り、常備三種類の精神安定剤と、電動の車いすが手放せなくなってしまった。
手術室に担ぎ込まれる母を見送ったあと、私はすぐ警察に連行された。光の差し込まない薄暗
い部屋をデスク上のライトが心許なく照らす中、知らないおじさんと二人きりの状況だった。
怪しいおじさんは母が爆発したときの状況をとにかくやたら詳しく聞いてくる。
次に私は警察とは別の、明るく清潔な建物に連れて行かれた。
病院というよりは研究所のようだった。
歯を治療するベッドのような機器に寝かされると、白衣を着た何人もの研究者が私を見下ろ
した。コードをたくさん生やしたヘルメットが頭に装着されると、それをを皮切りに、様々な
検査が一週間に渡って行われた。
そして私は「プラスアルファ」の認定を国より授かったのだった。
プラスアルファとは、国が定めたいわゆる「超能力者」の呼称だ。
その響きは五感に次ぐ第六感、いわゆるシックスセンスから――これは誤った情報である。
二〇一三年に全国で観測された天体観測史上最大の「アルファ流星群」がその由来だ。
アルファ流星群が観測された直後から、全国各地で未知の症状を訴える者が続出したのだ。
体が宙に浮き少女、突然の地盤沈下、その中心に佇むやせぎすの少年、手から火を放つ放火
魔、水を操る消防士、風に吹かれる露出狂 電気を操るオタク――彼らの出現によってそれまで
の国家体制は脆くも崩れ去った。能力者によるプラスアルファ犯罪が急増し、能力を持たない
一般人は彼らプラスアルファを猛獣のごとく恐れたのだった。
国は科学技術を以てプラスアルファに対抗した。莫大な国家予算をその研究に割くと、それ
まで停滞していた科学の進歩に突破口が開いた。
対能力者専用に開発された武器とそれを扱う特殊部隊の配置がプラスアルファの犯罪を抑制、
国は流星観測以前に近い平静を取り戻したのだった。
プラスアルファに目覚める原因については様々な議論が交わされた。
彗星に付着した未知のウイルス説、流星とともに降り注いだ宇宙線による脳の突然変異説、
神の子説、偶然たまたま説等々、様々な仮説が立てられたが、その機序は現在に至るまで解明
されていない。
さて、私がプラスアルファ能力を発現させたと知った母は情緒不安定を悪化させ、私を「悪
魔の子」と罵った。「皮を剥げ、足を差し出せ、置いていけ」とも。
普段は寡黙でやや頼りない父が、このときばかりはと声を張り上げ母を制止する。
「落ち着け、麻衣!」
「落ち着け? あなたは落ち着けばこの全身の包帯が取れるって言うの? 足が動く? この
怒りはどこへぶつけたらいいのよ! これもそれもすべて悪魔の子の仕業じゃない。その皮を
ひん剥いて私に移植すべきだわ。足を切り落として差し出すべきじゃないの? ええ?」
「そうじゃない。頼むから聞いてくれ。誰も悪くない。今回のことは誰も悪くないんだ。これ
は不幸な事故、そう、事故なんだよ」
紡いだ言葉は説得の体を成していなかった。父もまた目の前の彼女という現実に打ちひしが
れそうな自分と向き合うことで精一杯だったのだと思う。すべて私が悪い。
だから父母が私を児童自立支援施設への引き渡しを決めたとき、私は自分の運命というもの
をすんなり受け入れることができた。
もう泣いたりなんかしないと。
送致された児童自立支援施設「正護院」の実態は入院したプラスアルファ能力者を開発育成
そして戦場に送り出す傭兵養成施設だった。入院したその日に能力を抑制管理する首輪をつけ
られた私はまるで犬のようだった。規律もまた犬のしつけ同様に厳しく、教室という名の部隊
では、迷彩服にベレー帽を被った「先生」は常にスタンロッドを手離さない。私がミスをする
度にその腕は高いところから振り下ろされ、私は心身ともに打ちのめされたのだった。
そこで六年もの歳月を訓練に費やした私は戦場の一駒として完成し、筆記試験、体力試験、
度重なる面接を難なくクリアする。先生からパスポートを渡されるとすぐに国外の戦場へ派遣
された。
現地で与えられた仕事は、タブレット型のパソコンを首から下げ、決められたルートを朝か
ら晩まで歩き続けることだった。そのタブレットには遙か宇宙の軍事衛星から撮影した付近の
様子がリアルタイムで送信される。液晶に表示される歩行ルート上に踏み込んだ敵をこの足で
次々と吹き飛ばしていった。血肉の花火が空に打ち上がった数だけ懐が潤う生活。その五年目
に私は仕事を首になった。気がつけば高度に進化したロボットが台頭し、人間が戦場に赴き血
を流す必要はなくなっていた。今まで人間だと思っていたロボットが、そう私に告げたのだ。
鳥のような帰巣本能だったのかもしれない。他に行く当てもなく帰国した私は空港から出て
捕まえたタクシーを故郷の街へと走らせた。約三時間掛けて到着した街は、そもそも記憶に存
在しない「初めて訪れた土地」へ風景を変えていた。近代的といえば聞こえはいいが、正方形
と長方形を規則正しく並べた積み木のような街並みはどこか寂しい。
この街に父母はまだ住んでいるのだろうか? 容易いと知りながら調べようとしなかったの
は、先にあるものが無意味だと知っているからだ。
始めはホテルに滞在していた私も、程なくして郊外に一軒家を購入した。戦場で稼いだ金は
あっという間にはじけて消えた。建ったのは、積み木のような真っ白い箱。景観に関する法律
がその手の建造物以外は立てさせてくれない。なんともつまらない街だ。
家を買い金を失った私は、新たに生活資金を稼ぐ必要があった。
仕事を探すために職業安定所を訪れた。
思った以上の人口密度と、室内に充満した汗やアンモニア等が入り交じったような臭いに面
食らう。よく見れば浮浪者同然の失業者が少なからずいて、臭いの発生源が彼らであることは
明白だった。
そんな光景から察するに、文明の進展は遍く人間の雇用に猛威を振るっているのだろう。
眉をひそめる悪臭の中、たっぷり二時間以上待たされた。挙げ句の果てが「求人ゼロ」なの
だから怒髪天をつき施設を丸ごと吹き飛ばしたくもなるというものだ。
実際そうしなかったのは辺りを見回したとき廃人同然の表情を浮かべる失業者たちに萎えた
というのが第一、次に「彼らを助ける自分なりのビジネスプラン」を閃いたからに他ならない。
私はその日のうちに非合法の殺し屋を開業した。
以後は暇さえあれば職安に顔を出し、数多くの失業の中から「自殺する勇気もなくいやいや
生きています。誰かに殺してもらえるのであれば是非そうしてもらいたい」と言いたげな失業
者を見極め、声を掛けていった。打率は思いの外高く、前払いでまとめて金をもらった後は、
夜の河川敷など人気の無いところに集まってもらい(無論、あらかじめ私が足跡をつけておいた
場所に限る)、みんなまとめて吹き飛ばす日もあった。正護院での訓練によって爆発の威力や規
模を調整できるようになっていた私はその形跡を欠片も残さない。依頼者はみんな死んでいる
というのに、どういうわけか私の存在は口コミで広がっていった。誰かがつけた「福祉屋」の
名で呼ばれるようになった。携帯電話には依頼の電話が定期的に掛かってくるようになった。
私はすべての依頼をほいほい引き受けていった。
死にたい殺す死にたい殺す死にたい死にたい死にたい殺す殺す殺すみんな死ね。
うんざりした。もう働きたくないとも思う。心の底から。
一瞬とも数時間ともいえる回想が終わると、遠くから爆発音が聞こえた――ような気がした。
夕方になりテレビをつけた。丁度ニュースの時間だった。今日午後四時頃どこそこの病院で
不明の爆発事故が起き、医師一人が重傷とのこと。
この後、めちゃくちゃスッキリしたことは言うまでもない。
幾度となく鳴り響くインターホン、ドアをノックする音に起こされた私は、低血圧で意識が
はっきりしない『寝ぼけ』の状態だった。
ドアを開けると――男が数人立っている。人数までは判然としない。視界がぼやけていた。
たぶん彼らは私の名前を呼んだと思う。寝ぼけの状態でも自分の名前くらいは理解できた。
後はまるで念仏を聞いているかのようだった。
そうすると彼らが仏か何かに見えてきた。
お願いします神様仏様、どうか私をもう少しだけ眠らせてください。
そう願いながら手を合わせてみると、両手首に『何かが』嵌められた。
数珠かな?
その後ぐいと腕を引かれ車に乗せられ降ろされて「おらっ入れ」と背中を蹴られて前のめり。
そこで目が覚めた。
一歩踏み込んだ先は、かつて知らないおじさんと二人きりで過ごしたあの部屋に似ていた。
日光の差し込まない、中央に置かれたデスク上の明かりが一際眩しく感じる、薄暗い部屋だ。
「何をボケっと突っ立ってる? さっさと、ほら、手前の椅子に座れよ」
背後からの苛立つ男の声に振り向くと、これ見よがしの不機嫌を浮かべた男のあごが、すぐ
目の前にあった。無精ひげを生やしたそのあごは軽く反らされており、私を見下している。
「すみません」
「――あん?」
「ここはどこなんですか」
私はあご――男に訊いた。
「いいから、まずは座れってんだ」私は言われるがまま、手前のパイプ椅子に着席しようとし
た。右手で椅子を引こうと思ったとき、手錠をはめられ両手が拘束されていることに気がつく。
逮捕――されたのか? するとここは見たとおりの取調室なのだろうか。何年ぶりだろうと懐
かしむ気までは起きなかった。
机を挟んで向かい側の椅子に男が座る。その所作は極めて乱雑、まず引き方が乱暴、斜めに
座ったし、背もたれに背を預けると。腕と足を同時に組んでみせた。そして私の顔を一通りに
らみつける。不法投棄された粗大ゴミを見る目だった。今まで我慢していました。そう言わん
ばかりのため息を吐いた後、男は言った。
「お前さ、自分のしたことわかってる?」
私は机の端に視線を落とす。少し考えてみたが、わからなかった。
「すみません。一から説明していただけると非常に助かるのですが」
男は上半身を仰け反らせると、肩をすくめてみせた。その表情は戯けている。
言葉にしていないだけで「お前、馬鹿じゃねえの」と言いたいのだろう。
「まずここ警察、俺、刑事。お前、逮捕。オーケー?」
私は「あっ、やっぱりな」と思った。私は逮捕されたのだ。逮捕。うん。納得できねえ。
「オーケーです」
「じゃあ、なぜ逮捕されたかわかるか?」
「そこまではちょっと――」紡ぐべき次の言葉に迷っていると、刑事は組んでいた足を解き、
姿勢を少し正した。今まで散々上げていたあごをぐっと引き、こめかみを解す。
それら一連の所作は、思うに「馬鹿の対処に困ってます」のサインだ。
「身に覚えがあるだろが? 一週間前のことだ。藪メンタルクリニックに行ったお前は、そこで
の診療に不満を抱き、腹いせに医者を吹っ飛ばした。足の爆弾でな。それがお前、呉井最愛の
力だろ? 違うか?」
私は胸の鼓動が高まるのを感じた。すべてバレてる。
動揺が表情に現れていたのかもしれない。私の目を見た刑事は、にやりと笑った。
「だよな?」「はい」そう答える他なかった。何の根拠もなしにここまで真実に近づけるはずが
無い。事実関係をきっちりと裏付けた上で逮捕に踏み切ったのだろう。
能力者である私の前に堂々と現れることが出来たのも、能力者の性質を熟知しているからに
違いなかった。
能力者は朝に弱い。正確に言えば起床した瞬間である。
そして、あの事件と私を結びつけることが出来たのであれば、私がやった「他の悪いこと」も
バレているはずなのだ。言うまでも無い、殺し屋は非合法で殺人は重罪だ。
私は俯き、自身の両手に嵌められた手錠をじっと見つめた。
もうだめだお仕舞いだ、実刑判決なのだ。残りの人生はよくて塀の中、最悪死刑判決が下る
だろう。この場で能力を使い刑事を吹き飛ばし逃亡する策は使えない。目の前の手錠は能力を
抑制する専用の手錠なのだ。テレビ番組「警察二十四時」でのナレーションをふと思い出した。
万策尽きた。
そのときだった。破裂音のような音が室内に響き渡った。驚き、顔を上げると、刑事が手を
合わせていた。拝んでいるようでもあった。言うまでも無く私は犯罪者であって信仰の対象で
はないし、ごちそうさまを言われる立場や状況でもない。わけがわからず唖然としているとこ
ろに、刑事が今までにない微笑みを投げかけてきた。私は今、動揺を隠しきれていないと思う。
「とまあ、堅苦しい話はここまでにしよう。どうたい最愛さん。俺たち警察と取引をしてみる
気はないか? まずは受けるか受けないかで答えてもらおう。取引を成立させたら、この件はた
だの事故として処理する。お前が裏でやってる非合法の殺人にも、今回だけは目を瞑ろう。そ
もそも断ると言うのであれば、まあそのまま豚箱行きだわな――」
「どうする?」と刑事が訊いてくるよりも速く「受けます受けさせてください」私は懇願した。
殺し屋としての所業もばれてしまっている。断る理由がまるで無かった。断れば終わりだ。
「話が早くて助かる」
初めて顔を合わせたときに見せた不機嫌な態度はどこへやら、その表情はとても和やかだ。
胸ポケットから煙草を一本取り出すと、ズボンのポケットから弄りだしたジッポライターで
の先に火を点す。フィルターから大量のニコチンを胸一杯に吸い込むと横を向き、自動車の排
気ガスのように煙を吹き出した。室内は大変に臭くなったが、喫煙率五パーセント以下とされ
る世の中でその臭いは比較的珍しく、私はいい経験をしたとほんの少しだけ思ってしまった。
すっかりお楽しみ中の刑事に私は切り出した。
「それで私は、何をすればいいのでしょうか?」
「ん? ああすまん。緊張が解けるといつもこうだ」
刑事は苦笑してみせる。思うに人当たり良さそうなこちらが本当の彼なのだろう。
「まあ、犯罪者に持ちかける話だからな。並大抵の要求じゃあない」
「覚悟は出来ています」私は気を引き締め、それを表情に出そうと試みた。
「初対面の寝ぼけ眼が嘘みたいに良い目になってる」上手くいったようだ。
「じゃあ――耳貸せ」
刑事はくわえ煙草を灰皿に置くと、椅子から腰を浮かせて、机の上に身を乗り出した。
二人きりのこの部屋で耳打ちを交わす、その意味を少し考えたがわからない。
「早く」と急かされて思考は霧散した。私も同様に身を乗り出し、刑事の顔に耳を向けた。
私の耳元で刑事が囁いた。
「男をひとり、始末して欲しい」
「始末――」私は刑事が発したその二文字だけを復唱する。要するに「アレ」である。
確認の意味合いで口にしてみた。
「殺人」
「そりゃ野暮な表現ってやつだなぁ」
再び椅子に座った刑事は、灰皿に置いた煙草を口に咥えた。
「その男は何者なんですか?」。
「俗に言う死にたがり、かまってちゃん。自殺志願者――ほら、アンタの専門だろ?」
「まあ、そうですが……。始末するだけなら、そちらだけでどうとでもなるのでは?」
「それができたらこんな取引は持ちかけないわけだ。そいつは死ねない男、死ねない能力者、
なんだな。……っていうかタフすぎるのかな。それっぽい書類をでっち上げて絞首刑にしてみ
たんだが、一時間吊しても普通に生きてたときは驚いた。嘘でしょって感じでもういっぺん、
足に重りをつけて吊してみた。生きてたな。始末書覚悟で眉間に銃弾を撃ち込んでみた。ゼロ
距離からの全弾発射だ。駄目駄目だったな。少なくとも俺らに支給される豆鉄砲なんかじゃ、
奴は殺せないことがよーくわかった。やくざの手法にならって海に沈めてみた。浮いてきた。
風船かよってな。そこでアンタの出番なんだよ今までその爆破する能力を使って、死にたい人
間を跡形も残さず吹き飛ばしてきたわけだろ? 欲しいのはその威力なんだよ。奴を殺せるかも
しれない」
「あの」「何」「なぜそこまでその男を殺したがるんですか?」
「奴が俺らのイケない秘密を握っているからだよ。奴は自分が死ぬためならなんでもする男だ。
俺らの抱えてるヤマに左足で踏み込んだとき、俺ら警察の聖域にも足を踏み入れちまったのさ。
それこそお隣さんなんかに頼めるわけねぇや。方針が一致してても基本的に対立関係だから、
秘密を握られたが最後、今度は俺らが豚箱に入る番だ。ただでさえあいつを始末するために数々
の不祥事を抱え込んでるってのになぁ。もう俺らの中でどうにかする以外ねえんだよ」
聞きたいことはまだあった。それを思考だけに押しとどめたのは刑事の手のひら。
「なあ、まだ話させるのか俺に。最初に引き受けるつったんだぞ。後戻りしようだなんて――」
「それだけはあり得ません」
「なら、もういいだろうが。お前に与えられた仕事は、死にたがり男を殺すことだけだ。背景
を詮索することじゃあない」
どうやら聞かれたくない事情がありすぎるようだった。私は質問を諦めた。自分が言えた口
ではないが、この男の背中はどれだけ真っ黒なんだろうか。
すっかり元の険悪な表情に戻った刑事は、すっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「じゃあ、早速やってもらおうか」
「もうですか?」
「思い立ったが吉日って言うだろ。どっかのボンクラみたいにやるやるでずるずる引き伸ばし
ていられるほどの余裕はない。それにもう、そいつを呼んであるしな」
「ずいぶんと自由にさせておくんですね」
「まだ訊き足りねえってか」
「いえ、きっちり始末させていただきます」
私は姿勢を正してみせた。
「それでよし、だ」
「入ってきていいぞ」
刑事が私の後方にあるドアに向かって言う。私は椅子に座ったまま首から上をドアに向けた。
ドアノブが回り部屋に入ってきた「死にたがり男」はにっこりとした笑顔だった。青い髪に
つぶらな金の瞳を持つ、上等な猫にも似た顔立ちをしている。外国人だろうか。小顔で細身で
身長は刑事より少し小さめだが平均身長くらいはあるだろう。私に負けず劣らずすらりと長い
脚を持っている。そのことには多少の対抗心がわいた。まるでモデルの雰囲気だ。
私を見るなり彼はやぁやぁと手を上げて「ハイ」とテンション高めの声を上げた。
はっきり言って予想外。死にたがりの挨拶とは思えなかった。私は面食らった。それでも手
錠が掛かったままの両手を控えめに上げ「ハイ」を返した。そのテンションはもちろん低い。
「あなたが、ミス、あー」
「モアだ、モア、クレイ」壁に寄りかかった刑事が補足する。
「おぉ、モア、クレイモア。イッツマイン! マイネームイズレキソ。ナイストゥーミーチュー」
その戯けになんと反応すればいいのかわからず、しばらくの間気まずい空気が流れた。それ
でも男はにっこりとした表情を崩さなかった。なんという鋼のメンタル。本当に死にたいのだ
ろうか。私の方が辛くなってきたそのときだった。刑事のわざとらしい「オホン、オホン」と
いう咳き込みが状況を変えた。
「さっさと始めようか」と刑事が言った。
刑事はスーツの腰ポケットを弄ると、手のひらサイズの箱を取り出した。丸いボタンが二つ
並んでいるだけのシンプルなデザインには見覚えがある。確かテレビ番組「警察二十四時」で
見た。私の両手首を拘束する電子式手錠の施錠と解錠ができるリモコンだ。
刑事はそれを私に見せながら言った。
「このリモコンでほんの十秒だけ、手錠のロックを解除する。その間に殺るんだ。ちなみに俺
をリモコンごと吹き飛ばしてもアレだぞ。リモコンが壊れた瞬間に手錠はロックされる仕組み
になってるから。詰み」
つまりだ。絶対に成功させなければならない。
「お前今、俺が『解除する』と言ったあたりで『俺ごと爆破して逃げよう』って考えたろ?」
「いえ、そんな――」図星だった。刑事は私の顔を斜め下からのぞき込んだ。その姿を目で追
う。完全に訝しんでいるようだった。それでも一通りの観察をし終えると、自分を納得させた
ようだった。
「まあ、いいけどな。駄目なもんは駄目だし。ほら、立てよ。立たなくても出来るだろうけど」
私は椅子から立ち上がる。レキソのニコニコとした表情と向かい合った。
刑事はリモコンを握りながら腕時計を見た。
「それじゃ行くぞ、カウント十秒間だ」
私は背筋を伸ばす。深呼吸をする。一世一代の大勝負、絶対に成功させてみせる。
「よーい――」さぁ、こい。
「ドン」
掛け声と同時に手首の手錠から信号音が鳴った。解錠。
能力を発動させる。私は彼の足下にあるスイッチを押した。
何も起こらない。ひやりとした感覚が背筋に。焦り。
目の前のレキソは相変わらずにこにことしている。
まだかまだかと来る死を待ちわびているのだ。
おかしい。なぜ爆発しない。
「五秒前」刑事のカウントが死刑の宣告に聞こえる。
何度も何度も何度も何度も心の中でスイッチを押した。
「タイムアップ」と刑事が言った。
再度信号音が鳴り、手錠は施錠された。能力はもう使えない。いや、使えなかった。初めて
の経験だった。私は呆然としたまま目の前のレキソを見た。彼はきょとんとしていた。
「終わりですか?」
「終わりだ」刑事が言った。
終わったのだ。
「イエーイ」きれいに重なった二人の声で我に返る。刑事とレキソが、ハイタッチをしていた。
「今回もうまくいきましたね」「ああ、ちょろいもんだ」
「どういうこと」その楽しげな空気に、私だけが取り残されている。
私は二人に訊いた。
「どういうことなの、これは」
二人は同時にこちらを見た。レキソも刑事も、してやったという笑顔だった。刑事が言った。
「取引に成功したら解放してやると言ったな。あれは嘘だ」
わけがわからない。何を言っているのか。呼吸が荒くなる。
「見るからにわけわからんって感じだな」刑事がたまらずと言った感じで吹き出した。
レキソが言う。
「僕が死にたがってる話なんてのも嘘。嘘オブ嘘もいいところだよ。その証拠に今もホラ、こ
んなに元気でしょ? でもね、能力者というのは本当だよ。死ねない能力、というのは嘘だけ
ど。ここで問題。僕のプラスアルファ能力はなんでしょうか?」
「わからない、さっきからあなた達が何を言っているのか、意味がわからない」
レキソは「アララ〜」と肩をすくめると、さもがっかりしたような表情を作ってみせた。
「なら正解を解説してあげるけど、僕のプラスアルファ能力は、他人が使ったプラスアルファ
能力を吸収・分解してしまうものなんだ。僕はその力を使って――」
レキソはズボンのポケットを弄る。一冊の手帳を取り出すと、私に提示した。
「プラスアルファを相手に刑事やってる」
それは確かに警察手帳だった。そして写真の男は確かにレキソだ。無灯レキソ――今とは違
う、黒い髪と瞳をしている。
「あ、手帳の写真だけどね。この髪は染めてるし、目はカラーコンタクト。一見して変わって
た方が逆に疑われないかなと思ってさ、どう?」そう言ってレキソはウインクをした。
「私は、嵌められたってわけ」
「どう考えてもそうだろ」刑事が鼻で笑った。
「第一、犯罪者相手にあんなトンチンカンな相談持ちかけるとかねぇよ。つってもお前あれだ
な。結構用心深いところもあったよな。こっちは大体アドリブで嘘ついてるのにさ、根掘り葉
掘り訊こうとしてくるもんだから、そのたびに冷や冷やしたよ。能力を消すにはレキソに向か
って能力を使わせる必要があったから、もう必死」
刑事はガハハと豪快に笑い、その顔をずいと私に近づけると、更に続けた。
「ま、不穏分子を一匹排除できて、めでたしめでたしってわけだ。プラスアルファなんてのは、
消えちまえばいいんだよな。急に現れたと思ったら大暴れしてよ。散々やった後に『俺たちも
苦しかった』なんて理解を求めてきやがった。何様のつもりだってんだよ。てめえら、俺の娘
をなぶり殺しといてよ――」
目と鼻の先にある刑事の顔は憎しみによって歪み、紅潮していた。呼吸は荒く、鼻息を肌で感
じ取ることができた。まだ言い足りない様子だったが、レキソの手がそれを制した。
「その辺にしておきませんか」
刑事は、はっと我に返ったようだった。
「おっと、俺としたことが、つい熱くなっちまったな」
「すまん」すっかり萎縮した刑事が、レキソに謝罪した。
「気にしないでください。もう終わりなんですから」
目を丸くした刑事が訝しむように訊いた。
「終わりって、何がだ」
「お疲れ様でした」
瞬間、刑事がその場に頽れた。あまりにも突然なことで状況を理解できずにいる私を尻目に、
レキソはその場へしゃがみ込むと、彼の首筋に指を当てた。
「うん、大丈夫だ」その表情には安堵の微笑みが浮かんでいる。
「今、彼に何をしたの?」
おもむろに立ち上がり私と向き合ったレキソが言った。
「ちょっと脳を揺すぶって、ね。殺してはいない。大人しくしてもらっただけ」
「なんで、なんで」
訊きたいことがたくさんあるのに、思考が混乱して上手く言葉にできないでいる。私の額に
彼は手をかざした。どういうわけかそれで、私の心境を察したようだった。
「混乱するのも無理はない――か。本当にごめん。僕にとって最後の一人である君には、すべ
てを話そうと思うんだが――果たして君は、信じてくれるだろうか?」
私が最後の一人ってどういうこと。
私は「信じる」としか言えなかった。目まぐるしい状況変化に終わりを求めていたのだった。
「うん」とレキソが頷く。その表情は真剣だ。一拍の間を開けて、彼は真相を語り始めた。
「僕は、宇宙人なんだ」
宇宙人。私が今向かい合っている男、無灯レキソは、確かにそう言ったのだ。
「二〇一三年のことだ。僕はこの星に落ちた。君達から見るそれは流れ星のようだったろう」
「二〇一三年って、まさか――」
「そう、アルファ流星群だ」
「そんな――」
「あの流星の正体は、すべて宇宙人なんだ。うち一つが『僕』だった。最愛さん、僕達はね、
死にたかったんだよ。みんな自殺するためにあの日この星に落ちたんだ。集団自殺ってやつ。
僕達の種族は生命力が異様に強い。ああいった手段をとるでもしないと死ねない命を持ってる。
僕は死ねると思っていた。なのに――」
そのときレキソの表情に初めて陰りが差した。やや俯くと、首を小さく左右に振った。かつ
ての失態を悔い、拒絶しているかのようだった。
「それでも僕は――死ねなかった。こともあろうに生きていたんだ。死にかけた僕の生存本能
は、そのとき近くにいた生命体を取り込んだ。肉体を新たに再構築した。そのとき僕が取り込
んだ生命体こそが、この星の人間、無灯レキソだった。僕は無灯レキソになってしまった。彼
は黒い髪と瞳を持っていたけれど、僕の命を混じった結果がご覧の有様だ」
そこまで言うとレキソは力なく笑った。自身を嘲笑っているようだった。突拍子もない告白
でも、嘘だとは思えなかった。彼を取り巻く雰囲気がそう言っているのだ。
レキソの表情が再び真剣なものになった。
「本当に重要なのはここから先だ。君の人生にも大きく関わっている」
それを聞いた私は、自分の口元が自然と引き締まるのを感じた。そして息を呑む。
「アルファ流星群の観測以降、プラスアルファと呼ばれる超能力者が世間に跋扈し始めたろう。
そもそもこのプラスアルファの根源とはなんだろう? これに関して世間ではいろんな仮説や
憶測が飛び交った。僕はその答えを知っている。当事者だから、プラスアルファ能力は、僕達
種族の一部だから。君達プラスアルファ能力の正体は僕達の精神エネルギー、魂の一欠片とで
も言えばいいのかな。僕の場合は、それが落下時の衝撃で百に別れてあちこちに飛び散った。
それを取り込み魂に定着させた状態こそが、君達の言うプラスアルファなんだ。どうもこの星
の人と僕達種族は相性が良いらしい。死にかけの僕だって無灯レキソの体に難なく適合してし
まえたわけだし。無灯レキソは刑事だったから、僕はその権力を利用してプラスアルファに接
触、自分の力を見つけては回収していった。さっき見せた茶番はその一環だ。そして最愛、君
は僕に足りないピースを埋める、最後の一人だったんだ。君のプラスアルファを回収した僕は、
レキソだけど、レキソじゃない、元の自分に戻れたんだ」
「あなたは、自分を取り戻したあなたは、これからどうするつもりなの?」
「もう一度死ぬ」迷いの無い毅然とした発声だった。「そのために能力を回収して回ったんだ。
自分が持つありったけの力を注いで、このしぶとすぎる命を消滅させるために」
「私たちよりずっと優れた力を持っているのに、どうしてそこまで」
「一部とはいえ僕をその身に宿していた君なら、感覚でわかったんじゃないか?」
「よくわからない」
「じゃあ訊ねよう。僕の力を使った人生は、楽しかったかい?」
父母を巻き込み傷つけ別れ、痛み苦しみ疼き渇き求めて疲れ果てることの多い人生だった。
それは間違いなく「楽しく、なかった」過去を振り返った私は呻いていた。
「そういうことだ。それが力を持つ者が辿り着く終着点なんだ。それより先は生きてみたって
苦しみが続くだけなんだ。不毛の世界だ。死んでいるも同然だろ。それなら僕は無に還りたい。
でもその前にしなきゃならないことがある。僕は自殺未遂なんて身勝手なヘマをやらかして、
この星の数多くの住民に迷惑をかけてしまった。その償いをしなければならない」
彼は倒れた刑事に目をやった。
「彼にも辛い思いをさせてしまったな」
そして私の方へ向き直る。
「もちろん、君にもだ。心から詫びたい。ごめん。本当にすまなかったと思っている」
そう言って彼は、深々と頭を下げた。責める気には到底なれなかった。彼らの自殺行為が多く
くの人生を狂わせたのは事実だと思う。抗えないことだらけだった。だけれどその傍らには、
抗える瞬間だって数多くあったはずなのだ。今の私はその「抗えることに抗ってこなかった」
結果。だから、私も悪いのだ。彼一人を責められるはずがない。
それでも彼は自分を責めている。私に許しを乞うのだった。
「何か、何か希望はないだろうか? 僕が取り戻した百の力で叶えられる範囲内の希望なら良い
のだけれど」
それでも叶えてくれる願いがあるなら私は――このとき私は考えなかった。改めて考えるま
でもない。いつも心の片隅にあった願いが、口から零れ落ちた。
「何も無かった、あの日に戻りたい」
「この世界の時間を巻き戻したいというのであれば、残念ながら不可能だ。しかしそれに近い
ことなら実現出来る。ここではない別の世界軸に、君が持つ魂を飛ばしてやれる」
「よくわからないけど、それでお願い」
「わかった。じゃあ、」僕の目を見て」
言われたとおり私はその金色の瞳を見つめた。
レキソが私の両肩に手を乗せ、言った。
「さようなら最愛、あちらの世界では末永く、お幸せに」
最後に見る彼の眼差しは、とても寂しげだった
世界が真っ白になった。私の体は、もの凄い力で後ろに引っ張られていく。
彼の姿が、私の意識が、あっという間に遠のいていった。
さよなら。
きょうのにっき くれい もあ
まず、とてもこわいゆめをみてめがさめました。どうこわかったかというと、よくおぼえて
いません。ゆめのなかのわたしは、おとなで、こわくて、いたくて、だらしがなくて、とても
かわいそうでした。わたしは、そんなおとなになりたくないとおもいました。べんきょうをが
んばろうとおもいました。そしてしょうらいは、おはなやさんになりたいです。
きょうのちょうしょくは、こんがりやけたトーストでした。わたしはそれに、いちごジャム
とバターをたっぷりぬってたべるのがすきです。とてもおいしかったです。ぎゅうにゅうもだ
いすきです。「やさいもたべなきゃだめよ」とママがいいます。がんばりたいです。パパは、き
ょうもしんぶんをよんでいます。もじがいっぱいあって、むずかしそうなのに、パパはまいに
ちしんぶんをよみます。すごいことだとおもいます。わたしもパパみたいに、あたまがよくな
りたいなあとおもいました。
がっこうでは、さんすうとたいいくをがんばりました。たいいくではかけっこでいちばんに
なれました。さんすうは、むずかしいもんだいがとけて、せんせいがほめてくれました。
きゅうしょくのコッペパンとコーンポタージュがおいしかったです。
ほうかごは、ともだちのみんなとかくれんぼをしてあそびました。たのしかったです。
ゆうしょくは、カレーでした。わたしは、にんじんがにがてだけど、がんばってたべました。
おかあさんがほめてくれたので、うれしかったです。いつもむくちなおとうさんも、にっこり
わらって、わたしをほめてくれました。とってもとってもうれしかったです。
きょうもたのしかったです。あしたもたのしいひになるといいな。
お疲れ様でした。私も疲れました。