ゆめのなかでほざく
「りっちゃん」
その人が現れたのは、私と真刀が言葉を交わした翌日の朝だった。
会わなくなってから数年が経つと言うのに、その大柄な体躯に衰えは見えず、顔に刻まれた皺も増えていないように見える。頭の毛は出会った当初からなかったので、私には彼が全く年を取っていないように見えた。
「……豪六さん」
部屋の布団に座り込んでぼんやりしていた私は、その人の名前をゆっくりと呼んだ。
私を利用していたときと変わらず生命力に溢れた豪六さんを見ても、私の中にはなんの波も起きない。
昨日、真刀と別れてから一睡もできなかったからだろうか。体は疲れているのに、眠気は訪れず、ただひたすら嫌な考えばかりを巡らせていた。ここまでネガティブだと、不幸なのも当たり前だな、という気すらしてくる。
「朝餉を持ってきた。一緒に食わんか」
食べたいとも思わなかったが、やはりいくら不幸であっても死にたいと思っても、お腹は空くらしい。
私は声には出さず、ただ小さく頷いた。
「久しぶりに会ったなあ、りっちゃん。ちょっと会わないうちに別嬪になった」
豪六さんはあの頃のような豪快な笑みを浮かべながら、私に生卵を差し出した。それを湯気を立てる白米の上に割り落とし、私は曖昧な顔で笑う。
別嬪になったといわれても、それ以上の別嬪であるリーエが身近にいる。しかもそんなリーエに好きな真刀を取られてしまった経緯がある私には、曖昧な反応しかできなかった。つくづく卑屈だ。自分で自分が気持ち悪くなってくる。
「……豪六さんは、変わりませんね」
とりあえず、正直に豪六の若々しさを口にしておいた。
「ああ、息子からも嫁からも、ついでに孫からもさっさと隠居しろとせっつかれてここに移ったが、まだまだ現役だぞ。だが隠居していたお陰で、またりっちゃんと会えたなあ」
豪六さんの目が楽しげに細められる。そんな表情を向けられるのはなんだか久しぶりで、私は私の中の澱がゆっくりと柔らかくなり、溶けていくのを感じた。暖かな陽射しの差す縁側で食べる朝餉は、私の荒みきった心と体を、実に無駄なく癒してくれている。癒しなんか少しも求めていない筈なのに、この暖かな空気がじわりと私の心に滲みていくのが、妙に心地よかった。
「……私も、豪六さんに会えて嬉しい」
その言葉は存外素直に出たが、豪六さんには衝撃的だったらしい。
隣に座っていた気配が一瞬停止し、大きく揺れたかと思うと、ごん、と鈍い音が響いた。
「……なにしてるんですか」
ゆっくりと顔を向けると、豪六さんの頭が縁側の床に張り付いているのが見えた。土下座だ。豪六さんが土下座している。
朝のまだ若い陽光に照らされて、豪六さんのぴかぴかの後頭部が眩しい。
「すまなかった」
なにが、とは問うまい。この人が私に謝罪する理由は、ひとつしかない。
「……わしは、りっちゃんの想いを知っていて利用した。真刀が貴人の護衛になれるよう、訓練のために、りっちゃんを真刀に宛がった」
その貴人はリーエを指している。解りきったことだ。私は、リーエのための練習台にされたのだから。
「りっちゃんにどれだけ嫌な思いをさせたか――すまなかった」
嫌な思い。そんな思いなんかしなかった。ただ惨めで虚しくて、寂しくて、悲しかった。
「……真刀は、立派な護衛になったね」
私は、なにを言っていいのかもわからぬまま、ぼんやりとそう答えていた。
「それは、豪六さんの教育の賜物でしょう」
あの頃と同じことを言って、誤魔化そうと思ったわけじゃない。
ただ、豪六さんから謝罪を受けたところで、なにが変わるわけじゃないのだ。
私はリエで、真刀は真刀で、リーエはリーエだ。
ここに豪六さんの謝罪が入り込んだところで、良いふうにも悪いふうにも変化はない。なにも、ない。
「……豪六さんが私を利用したかどうかは、いいんだ。そんなことは、どうだっていいんだよ。……真刀は、真刀の意思で、リーエを好きになった。リーエに全てを捧げた。それは豪六さんが真刀を王家の護衛として指導した、正しい姿でしょう」
護衛兼愛人というのは、やはり一般庶民の私の感覚では理解できないが。
真刀がリーエを愛し、その存在を守るために剣となることを誓ったことは、豪六さんが謝罪しようが変わらない事実だ。
「……真刀は、立派になったよね」
私なんかが上から目線で馬鹿みたいなことを言ったが、豪六さんはやっと笑ってくれたようだった。頭を下げたままの体勢から顔を上げて、ふ、と穏やかな笑みが浮かんでいる。
「……りっちゃんは、変わらないな」
それは成長していないということだろうか。思ったが、そう言った豪六さんの笑みが妙に嬉しそうで、悲しそうで、これで話は終わりと、私は卵ご飯をずずずとかきこんだ。
目の前に臨む美しく整えられた日本庭園は、あの頃――真刀と共に過ごしていた頃を思い出させる。それは優しく楽しい記憶だったが、その裏にリーエ妃の存在がちらつくと、途端に影を落とすのだ。
(私は、どうしたらいいのだろう。……どうしたら、この絡まりあった糸の中から、抜け出せるんだろう)
それとももう、抜け出すことなど不可能なほど、複雑に、深く、緻密に絡みこまれてしまっているのだろうか。
(……ちがう)
なにをおかしなことを考えているのだろう。私は、絡まりあった糸の中にいるのではない。
(絡まりあったその糸の一本こそが、私だ)
他の糸は、真刀でありリーエであり鼎であり、父でありスクネであり、豪六であり――。
「……豪六さんは、知ってるの」
食後のお茶を手にしていた私は、気付けばそんなことを口にしていた。
豪六さんは、気が抜けたように、ん、と顎を上げて、私の言葉を待つ。
「私のおかあさん」
私がそう言った瞬間に、豪六さんからぴりりとした固い空気が放たれた。気配がわかりやすすぎて、体躯が大きいのも考え物だな、と、妙なことを考える。
豪六さんがなにも語らないのをいいことに、私も黙って、じっと目の前の庭園を見つめた。そこには明るい陽射しが満ちていて、薄暗く恐ろしいものなどまるで存在していないかのように思わせる。
ならばやはり、今訊くしかないような気もした。
「……私の赤毛は、誰から引き継いだものなの。どうしてこの国の王妃であるリーエと同じ髪をしているの。私は、……私は、一体なんなの」
いくつかの仮定なら立てた。それが正しいか正しくないかは、真実を知っている人間に確かめなければわからない。
「あの頃、父さんの温室に足を運んでいた女の人。あの人、綺麗な赤毛だった。あの人は、とても高貴な人だとしか父さんは言わなかったけど、私は、あの城の中で他に赤毛の人なんて見たことない。あの人は、あの人は父さんと、……私は、私は――」
リーエと、同じ血が流れているのではないか。
それは、何度も考えて、何度も否定した考えだった。
同じ赤毛、けれど顔は似ても似つかない。私ははっきりと父さん似だった。けれど、その赤毛だけが父とは似ても似つかない。
「……鼎は、私を生まれながらにしてリーエの影武者だと言った。それはつまり、私は」
リーエの身代わりになるためだけに、生み落とされた存在――。
豪六さんはなにも言わなかった。ただ私のぽつりぽつり洩らす言葉を、ただ聞いているだけだった。
だからか、私は自分の考えの沼にずぶずぶと沈んでいく。
「そうなったら、私は本当に、ただの日陰のリーエだな……」
自嘲が漏れた。
リーエのために生まれ、リーエに奪われ、リーエのために死んでいく。
「それが、私……」
嵌まり込んだ思考の沼は、いまや私の腰までその牙を伸ばし、動けなくさせていた。
あれほど眩しかった庭はもう見えない。ただ闇の中で、私はもがくことも忘れ、静かに沈んでいく。
(このまま、死ねたらいいのにな)
「……リエ」
ふ、と脱力していた手を取られた。
急激に戻ってきた光に、視界がくらくらと歪む。
「リエ」
言葉を発さない私を見かねてか、俯く私を覗き込むように影が差した。
そうして視界に入り込んだ顔に、掴まれた腕が一瞬で強張る。
「………………、真刀」
ようやくその名前を搾り出した私に、真刀の眉に皺が寄った。真刀の後ろには、困った表情を浮かべる豪六さんが見える。
――真刀。
なんでこんなところにいるの。今の話を聞いてたの。どうして、ここにいるの。
「……リーエは」
昨日、リーエの傍にいろと、私は言った。どんな思いで、どんな気持ちでそう言ったか、貴方はわかってないの。
(……わかるわけないか)
「リーエは他の護衛に任せてきた。……今は、お前をひとりにするのは」
危険な気がした?
真刀の真摯な言葉に、私は嘲笑を浮かべていた。
その表情を見てか、真刀もはっとしたように言葉を切る。
「……なにやってるの、私なんかどうでもいいでしょう。貴方はリーエの剣だ。なによりも大切なリーエを他の護衛に任せて、貴方が平気でいられるわけがない。これから、貴方のリーエに今よりもっともっと残酷なことが待っているかもしれないのに、それをわかっていてリーエを独りにしてはいけない。……忘れないで。貴方が慮るのは主であるリーエであって、影武者じゃない。……今も昔も、貴方は、リーエの剣だ」
それは私がどれだけ望んでも、どれだけ請うても手に入らないもの。
真刀がそれをリーエに捧げることを望み、リーエはそれを手にしている。
それを私なんかのために、揺るがせたくない。揺るがせる必要が、ない。
リーエではなく、私を選んでくれたことに昏い喜びを感じるなんて、なんて浅ましく、恐ろしい女なのか。こんな女のために、何故、真刀の真摯な誓いが破られなければならないのか。
「……リ、エ」
真刀の唇が、戦慄いた。
「もう休む」
それがなにを思ってだったのか見当もつかないが、私はもう真刀を見ることができなかった。立ち上がって、豪六さんに頭を下げて部屋に戻る。
答えもなにも得られなかった。
挙句、真刀に、一番聞かれたくなかった真刀に、あの仮説を聞かれたかもしれない。
(……いやだ、どうして、こんなことになるの)
先ほどまで豪六さんと日向で朝食を楽しんでいたことすら、まるで泡沫の夢のようだった。