汚泥の口
短くてすみません。引越し作業に追われているので、もうしばらく連続更新できそうもないです。
『リエ』
優しい声がした。
穏やかで落ち着いた、私がよく知る声だ。
『父さん、どこ』
声はするのに、姿はない。
辺りは一面真っ白で、どこか発光しているようにも見える。
(……おかしいな、私がいたのは、真っ暗な港だったはずなのに)
ぼんやりと、現実の出来事を思うが感覚が遠い。
まるで熱に浮かされているときのように意識がぼんやりとして、うまく考えがまとまらない。
発光した世界で、父さんの声だけがどこからか聞こえてくる。
『リエ、愛しているよ。お前はあの方と俺との、唯一の繋がりだから』
知ってるよ。
父さんは本当は私なんか見ていないってこと。
私を通じて、赤毛のあの人ばかり見ているってこと。
『……うん、私も愛してるよ』
父さんがいるからこうしてつらいことにも堪えられる。父さんがいたから、私の人生は悲しいばかりではなかった。
桜が咲く頃、歪なおにぎりを持ってお花見にでかけたこと、庭にひまわりの種を一緒に植えて、咲いたそれの前で写真を撮ってもらったこと、秋口、庭に落ちるどんぐりを拾って、父さんの書斎にばらばらとばら撒いたこと、冬の木枯らしの中、ふたりで暖かなシチューを作って食べたこと。
(父さん、……父さん、父さん)
そのとき、どろりと生暖かいものが腿を伝った。
それは私の真下の白い地面に落ちて、どんどん面積を増やしていく。
白くどろりとした、生臭いそれが、徐々に生き物のように波打ち始めて、私の顔になる。
『ほんとうに?』
白濁の色をした私が、喋った。
『ほんとうに、父さんを愛してるの?』
私の体内から零れてきたそれが、まるで私の分身だとでもいうような顔で、笑う。
『うそつき。本当は父さんのことなんか、愛してないくせに。でも仕方なかったんだよね。小さくて無力なリエが生きていくには、あの人の加護が絶対に必要だったんだもの。わかるよ、リエは間違ってないよ。でも、ねえ、リエ。貴方が鼎に抱かれていること、父さんが知らないわけないんじゃないかな。わかっていて、貴方を差し出したんじゃないかな。貴方が鼎に好き勝手に扱われることを承知で、影武者になることを許諾したんじゃないかな。だって父さんは、昔から赤毛のあの人しか見ていなかったでしょう。ねえリエ、貴方を一番最初に見てくれた真刀ですら、リーエに取られてしまったものね。ねえ、リエ。私、とても恐ろしいことに気付いてしまったよ』
……本当は、貴方は誰にも、愛されてなんかいないんじゃないかな。
「――ッ!!」
びくりと体が震えたのがわかった。
がたがたと震える体が厭わしくて、思わず、もう一度瞼を閉じる。閉じたところで、あの白い私が再び蘇って、慌てて目を開けた。
(……ここは?)
見知らぬ天井だった。格子状のそれは日本家屋のそれだが、私の家のものではない。見ると、部屋の端に提灯が飾ってあった。とはいえその提灯に灯りは灯っていない。
ゆっくりと起き上がって周囲を見渡すと、六畳ほどの和室に寝かされていたのがわかる。
床の間には名前の知らない花が飾ってあって、古い木の匂いがした。
障子の向こう側からうっすらと青い光が入り込んできている。月の光だ。
(……まだ、夜なの)
考えて、港での一連の出来事を思い出した。鼎に組み敷かれた体が恐怖を思い出して震えたが、どうやら体は清潔に拭われたようで不快感はない。震えも長続きせず、すぐにおさまった。
(……私、なんでおかしくなってないんだろ)
鼎があの場で、狂ってしまったかな、と言ったのを聞いた。
どうしてその通りにならなかったのだろう。どうして、私はこうして正常に起き上がり、考えて、現実に備えようとしているのか。
(顔がいたい)
車内で鼎に殴られた頬が、じりじりと熱を持っていることに今気付いた。そっと触れると、切れた唇の端が痛い。
「……ここ、どこ」
そうして再び、先ほど思った疑問を抱く。
ゆっくりと寝心地のいい布団から起き上がり、障子を開ける。思ったとおり、月が縁側を照らしていた。縁側の向こうに見える日本庭園はかなり手の込んだものだったが、今はあまり見る気になれない。
(満月?……ちがうな、もう少しだ)
真刀の前で泣いてしまったあの日も、満月だった。あれから、一周してしまったのか。
縁側はひんやりとしていたが、さすがにもう震えるほどではない。
夏が近い。
「……リエ」
ぼんやりと縁側に立ち尽くして月を眺めていると、どこかで期待していた声が私の名を呼んだ。
(期待?どこまでも懲りないな、リエ)
そんなものを抱けば抱くだけ、虚しくなるだけだっていうのに。
ゆっくりと顔を上げると、やはり真刀が立っていた。最近ではあまり見なかった浴衣を着ている。そう思って、自分が着ているのも浴衣だということに気付いた。
「……真刀」
口にした名前は掠れていたが、自分が思っていた以上のダメージは感じられなかった。ここで掠れきった声のひとつでも出せれば、真刀にもっと同情してもらえたのだろうか。
浅はかな考えを読まれたくなくて、私はすぐに真刀から視線を逸らした。
少し離れた場所に立っていた真刀はそこから動かず、私を窺っている。
「……起きて、体は大丈夫なのか」
「……うん、少し軋むけど、特には」
真刀は、どう思ったんだろう。鼎に車の中でレイプされて、外に飛び出して、乱れた服もそのままに地面に蹲って泣いた私を。
それきり黙りこんでしまった真刀に、一番気になっていることを聞いてみた。
「ここ、どこ」
問われて、真刀はああ、と今気がついたように口を開く。
「……豪六ジジイの隠居小屋」
ああ、豪六さん――。
あのはにかむ笑顔を思い出して、利用されたことも忘れてふっと笑ってしまった。
「豪六さん、懐かしいな。元気?」
本当はもう、利用されたことなどどうでもよくなっていたのかもしれない。そんなことなど些細なことだと思えるようなことばかりが、ここずっと起きている。
私が笑ったことに安心したのか、真刀がほんの少しだけ距離を詰めてきた。
「ああ、相変わらずだ。……お前の現状を重く見た俺のオヤジが、お前をここに移すことを決めた。お前が落ち着くまで、遠慮なくここで過ごしてくれと、言付かっている」
真刀のお父さん――そういえば、会ったことないな。いや、鼎の護衛となら何度か顔を合わせているから、どの人がそうなのかわからないだけか。
「……父さんは?」
気になって問えば、真刀は少し迷うような素振りを見せた。
真刀が悩むようななにか言いづらいことでもあったのだろうか。そうかもしれない。なら、聞かなくていいや。どうせ私にとって、嬉しいことでもない。
「……やっぱいいや」
真刀がなにか言う前に、私はそう答えていた。
次になにを言おうかと考えて、リーエは、と聞こうとしてやめた。今は誰よりも聞きたくない名前だ。特に真刀の口からは。
「私、どれくらい寝てたの」
あの港から数時間だとしても、体のだるさが異常な気がした。とても長い時間寝ていたときのように、鼎の乱暴を差し置いても、節々が痛い。
「……丸一日」
真刀は簡潔に答えたが、どこか痛ましいものでも見るような視線を向けていた。
「やめてくれないかな」
口が勝手に動く。
「その眼、すごく憐れなやつに見られてるみたいで、気分よくない」
「そんなつもりは――」
なくても、私はいやだよ。憐れなやつで、間違いはないんだけどさ。
私の言い方に、真刀は戸惑ったように否定したが、私がじっと見つめると、口を噤んだ。
「……ごめん」
嫌な言い方をしたね。心配してくれているのはわかるのに、貴方にこの件でそんな顔をされると、どうしていいかわからなくなるんだ。
「謝るな」
真刀が、ぎり、と拳を握ったのがわかる。
「どうして、言わなかった」
搾り出すような真刀の声が、おかしかった。
実際、私の失礼な口は、ふふ、と笑みを洩らして、真刀を嗤った。
「どうして?それを貴方が言うの?リーエの護衛の、支えの貴方が?リーエのことばかり考えている貴方に、リーエの夫である鼎にレイプされてるって?……例え貴方に言ったところで、どうにかなったのかな。知ってても、誰も助けてくれなかったよ。スクネも、貴方のお父さんもお母さんも、私の父さんも、誰も、助けてくれなかった」
何度助けを呼んだって、誰も助けになんか来てくれなかった。
「現状を重く見て私をここに移してくれた貴方のお父さんは、結局ああいう形にならなければ手すら差し伸べてくれなかったでしょう。今更だよ。なにも変わらなかった。貴方に助けを求めても、誰に助けを求めても。私は影だ。リーエの、陰にしかなれない」
真刀を傷付けたくて傷付けたくて、どろどろとした感情が私の唇から飛び出していく。
真刀は眼を瞠って、私のその泥のような言葉を受け止めていた。
私はそんな真刀を慮る余裕もなく、ただ己のうちから溶け出す汚泥を見つめることしかできない。
「……しにたい」
声にはしたくなかった。
それを真刀に届けて、優しい彼を少しでも傷付けたいとは思わなかった。
ただもう、なにもかも投げ出したくて、本当に、心の底から消えたくなって、小さく口の中だけで呟いたつもりだった。
「リエ!」
悲鳴のような声と、ぐいと両腕を掴まれた痛みにはっと我に返る。
見ると、傷付いたような真刀の顔が間近にあった。
薄明るい青白い夜の明かりとは違う蒼白さが、真刀の顔を覆っている。
「……どうして、貴方が傷付いた顔をするの」
その顔を見て、は、と嗤ってしまった。
私が死んだところで、どうなるっていうの。真刀はリーエの剣でしょう。私がいなくなったところで、誰も困りはしないんだ。むしろいいことだらけじゃないのか。
(……なんだ、最初から、私なんかいなきゃよかったのか)
「なんで、今の今まで生きてたんだろ。馬鹿だな。……あのときに、死んじゃえばよかったのに」
真刀がリーエに心奪われたとき、真刀がリーエを抱いていると知った日、鼎にレイプされた夜――。
大人になったとき、こんなこともあったな、と笑えるようなことばかりなのだろうか。
子供の私にはまだよくわからない。ただ、子供の私が今、堪えられないということだけが、重要な気がした。だって大人になって平気になったからって、今の私が堪えられなかったら意味がない。
どろり、と嫌な言葉ばかりが零れていく。
大好きな人を前に、こんな病的なことしか吐けないなら、そりゃ真刀もリーエを選ぶに決まっている。
私の腕を掴む真刀の手に、ぐ、と力が籠もった。
つられる様に見上げると、真刀の形容しがたい想いを孕んだ視線とぶつかる。
(……痛ましいものでも見るような?)
それにもう一度正気に戻されて、苦笑が漏れた。
「……ああ、ごめん。馬鹿なこと言ってる」
貴方にこんなこと言ったところで、救われるわけでもないのに。
貴方は私ではなく、いの一番にリーエを選んだ人なのだから。
「もう休む。……もしかして心配させたかな、ごめんね、ありがとう」
リーエの剣である真刀がここにいるということは、そういうことなのかもしれない。
けれど優しくされて傷付くこともあるのだと、知ってほしくもある。
「貴方は、リーエの傍にいて。これからなにがあっても、リーエの傍を離れないで」
あの夜に言った言葉を、もう一度繰り返した。
その言葉の意味を今度こそ真に理解した真刀の手から、力が抜ける。
月光の降り注ぐ縁側に、濃い影がいつまでも張り付いていた。
(これからどうなる?私はどうすればいい?)
いっそのこと真刀のことを忘れられれば、恋をやめれば、今よりずっと楽になるのだろうか。