地面がない
主要港には家から車で三十分ほどかかる。
私はその距離をひたすら歩いていた。
真刀と電話から逃げて風呂を浴びて、念のため制服に身を包んでから寝静まった家から抜け出す。そうして街灯が灯る歩道を、ただ歩いていた。
もしかしたら、いつもの歩道橋の場所でバンに乗ったスクネが待っていたかもしれない。
スクネの顔が見たくないわけではなかったが、ただ己の脚で歩いて、頭を冷やして、今から会うことになる得体の知れない鼎という人間に備えたかったのだ。
鼎からの電話には、折り返ししなかった。国王に対して不敬罪で罰せられる行為だが、もとより鼎は、あの電話に私が出るとは思っていなかったように思う。憶測だが、鼎の全てを見透かしている目は、きっと全て承知の上でしているのだ。私を脅かす道具として、電話を使っただけのこと。
(……なにを考えている、なにを考えている?)
鼎の目的、鼎のこれからの行動、その全てが予測がつかなすぎて、備える余裕も考える余地もない。つまりこれから起こりうるだろう最大の〝不幸〟を、防ぐ手立てがない。
私が考えている鼎のシナリオはこうだ。
私と真刀、リーエの仲が浅からぬものになったころ、私と鼎に肉体関係があることを暴露する。方法はわからないが、その事実が真刀とリーエに影響を与えることは確定だ。ふたりがどういう態度を取るかは、私にはわからない。ただ、予測できるものとすれば、私を軽蔑し、距離を置くか。或いは、国王である鼎には誰も逆らえないと私を許し、本心はともかく、通常通りの態度を貫く。
けれどどちらにしても、その裏でリーエは真刀に慰めを求め、それに真刀も応える。
リーエの影武者である私にすら手を出す鼎に愛想を尽かし、リーエは今度こそ真刀の想いに応えるかもしれない――私にとって、最大の不幸は、きっとこれだ。
ただでさえ太刀打ちできない、真刀のリーエへの想いは、リーエが応えることで完璧になる。
そうなると私はいよいよ、不用の人間だということだ。
(……ちがうな、最初から要らないんだ)
要らないから、私はリーエの影武者に指名された。
はじめから、要らなかったのだ。
(〝母〟もきっと、要らなかったから、私に見向きもしなかった)
父に愛されていることが唯一の救いなのだろうか――いや、父の存在があることで下手に身動きができないぶん、父を足枷のように思ってしまう己は、充分に不幸で愚かだ。
そうして鼎のこと、リーエのこと、真刀のことを考えていると、どうしても逃げる前に真刀に言われた言葉を思い出してしまう。
『……俺にとって、それが、どれだけ』
この言葉のあとに続くのは、救われたか、嬉しかったか、だろうか。
考えて、ふっと自嘲が漏れた。いや、真刀を嘲ったのかもしれない。
「馬鹿じゃないの」
私のあの利己的な涙と言葉が、真刀にとってどれだけの救いであっても。
(貴方は私を見てもくれないくせに。私がどれだけ焦がれようと、貴方はリーエから離れられないくせに。……リーエを、抱くくせに)
それなのに、あんな甘い言葉を伝えに来るなんて残酷だ。
真刀が私の想いを知らないからといっても、何故、わざわざ口にする必要がある?
(お礼がしたかったの?そうしてリーエと真正面から向き合うことができたから、これから、今まで以上にリーエに尽くすことができると、お前のお陰だ、ありがとう、って?)
あのときなんとか冷静を装っていた限界が、今こんなときにきてしまった。
(貴方は私を見ない。私は影。リーエの影。貴方は、影に意識など向けない)
胸の奥からどろどろとした嫌なものが込み上げてくる。興奮しすぎて、頭の奥がじんじんと痺れるようだった。
(……ああ、もう、死にたいな)
たかだか実らない恋のことでここまで思い詰めるなんて馬鹿げていると、大人たちは言うかもしれない。けれど今、リーエと真刀は、それくらいの重みと暗さをもって私を支配している。どれだけそれが浅はかでも、間抜けでも、愚かでも、今こうして湧き上がってくる感情を抑えることすらできないほど、この恋は苦しい。
リーエと真刀の行為の音を聞いたときの衝撃は、今のこのどろどろした嫉妬と比べても大したことはない。
私は、鼎に抱かれて初めて、男と女が肌を合わせることがどういうことか知ったのだ。リーエと真刀の、ただの音だったそれが、肉と骨をつけて私の目の前に横たわる。そうして鼎にぼろぼろにされた私に、見せ付けるように蠢いている。
私が鼎に強要されたあの行為を、ふたりはもっと穏やかで優しく、思いやりがある形で行っている。私が恋焦がれる真刀は、リーエと――。
目の前が真っ暗だった。
今自分がどこにいるかもわからない。ただ私の目の前で、抱き合い絡まりあう真刀とリーエの肉体が蠢いていた。
(……ころしてしまいたい)
ふと、頭の中に浮かんだ言葉を理解する前に、妄執は消えた。
「リエ」
醜い妄想が晴れると、目の前に鼎が立っていた。
明るいライトグレーのスーツに、王族が公式の場で使用する金色に臙脂の家紋が入ったネクタイ。一見するとあざとい組み合わせだが、鼎が着ると何故か精錬さが増すように見える。
涼やかな茶色い瞳が、私の醜さを突き刺していた。
「……鼎」
無意識に歩は進めていたのか、正気に戻った頭で辺りを見渡すと、主要港の入り口だった。主要港には船を停める岸壁があり、水族館も併設されていて休日はよく賑わっているが、今は人影も音もない。ただ鼎の護衛と側近達が数人、こちらを少し離れた場所で見ていた。
「困った子だね。ここまで歩いてきたのかい?スクネから君が来ないと連絡が入ったから、探しに行くところだったんだよ」
国王自ら?頭おかしいんじゃないの。
「……なんのご用ですか」
私が発した声は固かった。先ほど襲ってきたおぞましくも甘美な衝動に、自分の胸がどくどくと激しく脈打っているのがわかる。
「中森から聞いていないのかい?来週の式典の打ち合わせをしようと思ってね」
そうして鼎から飛び出した父の名前に、ぞくりと鳥肌が立つ。
なんの変哲もない会話なのに、この男から父の名が出るのは初めてのことだった。それだけで根拠のない警戒を抱いてしまうほど、私は鼎を恐れている。
「父とは……会わなかったから」
嘘だ。今日の夕食も一緒に食べたし、風呂上りに少し話しもした。父は植物図鑑を眺めながら、次はどの植物を植えようか、と笑っていた。
(……大丈夫、こいつの策略だ)
思わせぶりな言葉を口にして、私を恐怖で縮こまらせようとしている。それだけなのだ。
「そうなの。君達はとても仲がいい親子だと思っていたけど」
鼎の笑った顔が、私の肌をぞくぞくと粟立たせる。
なにを考えている、なにを企んでいる。
「まあいい。とりあえずこちらへおいで」
冷や汗を浮かべる私の腕を、鼎が乱暴に引っ張った。
この時間は閉鎖されている港へのゲートを、内側に待機していた鼎の側近達が開放し、その隙間を引きずられるように連行される。
後ろで車の音がしたと思えば、振り返った先にはスクネがいた。どうやら少し慌てているらしい。焦燥を浮かべるそんな表情、今まで見たこともない。
スクネの口が、私の名前を呼ぼうとする――。
私はそれを聞く前に、ゲートの入り口付近に停めてあった鼎の車の中に突き飛ばされていた。容赦なくドアを閉められる。何故か鼎も、一緒に乗り込んできた。
座席に仰向けに倒れこんだ私に、四つん這いで近付いてくる。
いやだ、いやだ、……これは、いやな展開だ。
「……なにするの」
高い天井、広い座席、全面スモークガラスになっていて、完全な夜の今、外の様子は窺えない。車内に漂う品のよい香水が、近付いてきた鼎からも香ってくる。
「わかっているだろう、私のリーエ」
私を窓に押し付けるように手をついた鼎が、にこりと笑った。もしこいつが国王じゃなければ、無防備な腹を蹴ってやるのに。
「私は、リーエじゃない」
今、まさに今日、こんな行為したくなかった。
リーエと真刀が互いの誤解を解いて、絆を深めたまさに、この日に。
「知っているよ。憐れなリエ。私のリーエの、可哀想なリエ」
憐憫の眼差しが、こうまで似合う男がいるのか。
ぞわぞわと酷い不快感が込み上げて、次には私は、自分が憐れで憐れで仕方なくなっていた。
「ああ、泣いてはだめだ、リエ。君は耐え忍ぶように泣くから、滅茶苦茶にしてしまいたくなる」
こんな狭い場所で、そんな泣き顔を見せるものではないと、鼎は慰めるように言った。
こわい。
(なにこれ、どうしてこんなことになってるの。私は、どうなるの)
座り心地のいい座席は、鼎と私の体重が重なっても悲鳴ひとつあげない。
「いやだ」
「君に拒否権はなかったろう」
「いやだ」
「大丈夫。いつもとちょっと場所が違うだけで、やることは変わらない。君はいつものように可愛くない冷凍マグロのようにじっとして、全てが終わるのを待てばいいだけだからね」
「……いやだ」
「泣いても無駄だと、一番はじめのときに教えただろう」
鼎が、制服のリボンを乱暴に掴んで結びを解いた。いつにもまして、酷い。コントロールできていないかのような男の力が、シャツのボタンも弾き飛ばした。
「……や、め」
ぞわぞわと、初めてのときに感じた恐怖が迫ってくる。
広いとは言っても、いつもの寝室と比べれば狭すぎる車内、迫るような天井、外に吹き荒ぶ風の音、人の気配。たったドア一枚隔てたこの場所で、鼎は私を陵辱しようとしている。
「い、や……」
喉の奥から零れていく声が、震えすぎてなにを言っているかもわからない。
鼎の手がスカートをたくし上げて、無遠慮に下着を鷲掴んだ。
「いや、誰か……」
――スクネ、誰か、真刀、真刀、真刀。
気付いたときには、私は悲鳴を上げていた。
慣らしもせずに入り込んできた鼎が、悲鳴を上げて暴れている私を強引に押さえつける。
ここが車内だということも、外にスクネや他の護衛たちがいることも忘れて、私はただその恐ろしい腕の中でもがいて、暴れて、逃げようとした。
そのたびに動きを邪魔される鼎が容赦なく顔を殴って、口の中を歯で切った。私はそれでも暴れるのをやめられず、恐慌状態に陥りながら、ただひたすら悲鳴を上げて、鼎を拒否するしかない。
たすけて――、誰か、父さん、スクネ、真刀……。
初めてのとき以来、暴れもしなければ泣きもしなかった私は、まるで子供のように泣きじゃくり、とにかくはやく終わってくれと泣いて懇願して、恥も外聞もなく助けて、出して、と外の者達に叫び、ゆるして、ごめんなさい、ゆるして、と訳もわからず鼎に赦しを乞うていた。
そうして悪夢が覚める頃、私は転がるように車の外へ飛び出して、転んで、鼎が中に出したものを肉の割れ目から零しながら、乱れた服装もそのままに、地面に伏して声を殺して泣いた。
その場にいた全員が息を飲んで私の無様な姿を見つめているのは肌でわかった。
わかっても、この込み上げてくる嫌悪を、恐怖を、震えをとめられない。
なんてざまだ。どうしてこういうことになったの、どうして、私は――。
「……リエ」
そうして悪夢の先にはまだ悪夢が続いているのだと、誰が教えてくれたのか。
私の名前を呼んだその声には、ひどく聞き覚えがあった。
呆然とした、空洞のような眼で、酷い姿の私を、真刀が見ていた――。
「ま、と」
ぼろぼろに乱れた赤毛の隙間から、辛うじて真刀の姿を捉える。真刀の周囲には護衛の男がふたり倒れていて、真刀を、スクネが後ろからは羽交い絞めにしている。涙で霞んだ視界では、スクネと真刀の表情は判別できない。
私はただ、絶望を掻き抱いて、泣くこともできなくなってしまった。
「……ああ、きたのか。いつ来た?」
ただ重いばかりの空気などものともせず、鼎はネクタイを結びなおしながら車から降りてきた。そちらのほうを弾かれるように見た真刀の眼に、ゆらりと怒りが滲む。
「鼎様、リーエ妃の存在がありながら、これはどういうことですか」
低く獣のように唸った真刀に、私の中でじわじわと黒いものが広がっていく。
(……リーエのことを思って)
私のことではない。鼎が私を抱いていると知ったときのリーエのことを思って、真刀は怒っている。
(死にたい)
港に着く前、リーエと真刀など殺してしまいたいと思っていたのに。
今はただ、己という存在が矮小すぎて、恥ずかしくて、ただ泡のように消えてしまいたかった。
「……それを君が言うのかな、真刀」
鼎は真刀の怒りすら柳のように受け流し、微笑みすら浮かべてみせた。
その言葉に、鼎がリーエと真刀の関係を知っていることを悟って、真刀は悔しげに唇を噛む。もう抵抗はしないと踏んだのか、スクネが真刀から離れた。
「それで、いつ来たんだい?」
そうして、先にした問いかけを繰り返す。それには、スクネが律儀に答えた。
「ほぼはじめからです」
「ああ、それで。リエの悲鳴が聞こえたから、止めようとしたわけかな」
真刀の周りに倒れている護衛ふたりを見て、鼎は笑った。
「馬鹿だね。僕の護衛には君の両親がいるだろう。敵うわけないだろうに」
まるで聞き分けのない子供を諭すような声だった。そこで私は、数人いる護衛の中にひとり女性が混じっていることに気付く――そこで、とんでもない邪推をしてしまったが、中から零れ出た精液の感触が気持ち悪くて、考えるのをやめた。
「それで、……なんだったかな、リーエ妃の存在がありながら、だっけ?僕がリエを抱いている理由?」
鼎は真刀を挑発している。なにがしたいのかわからないが、鼎が真刀を攻撃しようとしているのだけはわかった。
「名前が似ているから興味が湧いたんだけど、リエはね、ただ泣き叫んで痛がるだけの、硬いだけの女だったんだよ。リーエは初夜でも愛らしく柔く美しく散ったというのに、酷い違いだろう?ついつい興が乗って何度か試してみたけれど、今日はまた格別だったね」
ふふ、と無邪気な声で、鼎が笑う。
鼎が、地面にうずくまったままの私を見た。
(……ちがう、真刀じゃなくて、間接的に私を貶めようとしてる)
「いつもは泣きも笑いもせず、お人形のようなリエなのに、どうして今日に限ってあんなに泣き叫んでしまったかな?君が僕に進んで抱かれているところを、彼に見せ付けてあげる筈だったのに」
どろりと鼎の出した精液が腿を伝い、尻を汚す。
――地面がない。
まるで暗闇の中に放り出されたような感覚だった。ぐらぐらと視界が揺れる。
どうしてこういうことになっていうのか、何度自問したって答えなんか出る筈もないのに、まるで気休めのように、脳はそのことばかり考えた。
「……が、ない」
私の呟きに、真刀とスクネがはっとしたように私を見たようだった。いや、それすら願望だったのかもしれない。リーエではなく〝リエ〟を気にかけていてほしいと願う、私のささやかな願い。
そんな気配をなんとなく感じながら、私は、ただぼんやりと、自分が座り込んでいる暗闇を見つめていた。
感触がない。
自分はいま、なにに触れている。
「じめんが、ない」
そんな私を見て、狂ってしまったかな、と鼎が笑う。
そうだね、狂うことができたら、どれだけ楽で、どれだけ幸せだっただろう。
――地面がないなら、あとはもう、墜ちていくだけ。
すみません実家帰るので、一週間ほど更新できませんです。