のぞむもの、のぞまないもの
リーエと秘密の話をしたその夜、鼎からメールが入った。
『深夜、主要港の桟橋』
たったそれだけ。
今は九時過ぎ。夕食も終えて、あとはもう風呂に行くだけだ。深夜までまだ時間がある。
「……外?」
しかし外で会うことなど今まで一度もなかった。私はただ国王である鼎に献上されるものに過ぎない。外で会う必要など、ひとつもない。
(打ち合わせ?)
来週の日曜にあるという進水式。場所も合っている。深夜に行うのは、第三者の目を気にしてだろうか。
考えてみても腑に落ちないが、国王からメールがきたからには行かないといけない。
とりあえず風呂に向かおう、と座っていたベッドから立ち上がったときだった。
「リエ」
部屋の引き戸がぼそ、と叩かれた。誰かと問うまでもなく声でわかる。
「真刀」
名を呼べば、襖の引き戸がそっと開かれる。
そこには風呂上りの真刀が立っていた。あの月の夜と同じ、黒いTシャツにジャージ姿。
夕飯のとき顔を合わせたが、特に変わりは無かった。私もリーエと話をしたからといって、ふたりが抱き合ったいきさつを本人から直接聞いたダメージを受けている。そうなると、やはり以前と変わらぬ態度で過ごすしかなかった。要するに、ぎくしゃくとした空気だ。
(……それに今夜は、リーエと話をするだろうと思っていた)
リーエに、貴女の想いを真刀に伝えるべきだと言った。
(ああそうか、話を聞いたから、私の部屋にきたのか)
余計な真似をと罵られるかもしれない。充分、覚悟の上だが。
真刀は私の部屋に入るのを躊躇っているようだった。戸全開で話す内容でもないので、入れば、と言ってみる。
「……すぐ出て行くから」
何故か真刀は私の顔を見ず、小さな声でそう言った。
「別にどちらでも」
長くなろうが早かろうが、貴方の顔をこうして見れたのだからどちらでも構わない。
貴方のリーエへの純粋な想いを聞いても、やっぱりふたりが並んでいるのを見ているのは辛くて、あまり貴方の顔を見れないから。
真刀は一歩部屋に脚を踏み出すと、その場から動くこともせず静かに戸だけを閉めた。
ベッドから立ち上がっていた私は、もう一度腰掛けるかどうか迷ったが、立って話をすることにする。こちらのほうが、真刀の顔がよく見える。
「……リーエと話をしたの」
暫く真刀が口を開くのを待っていたが、一向に話を切り出す様子がないので私から話しかける。
「……ああ、つい、さっき」
真刀は歯切れ悪くそう答えた。
なんだろうか、なんだかいつもの真刀らしくない。
私に怒鳴り込みにきたのかと思ったが、それも違うような気がしてきた。
「それで、どうして私の部屋に来たの?」
リーエの話が一体なんだったのか知らないが、殴りこみじゃなければ何故私の部屋にきたのか。もしかしてお礼でも言いにきただろうか。それなら、この気まずそうな空気も頷ける。真刀はありがとうとごめんを言うのが苦手だ。
「リーエが、リエにきちんと話をしろと言われたのだと、言っていたから」
結局ここでもリーエが一番なんだな。わかりきってることだけれど、そこまでリーエリーエ言われると私も傷付くんだが。
「……お礼でも言いにきたの?」
やめてよ。そんなもの言われたくもない。
(貴方とリーエの絆が深まった礼を言われたら、なにをするかわからないよ)
私は真刀のすべてを手にしているリーエを、嫉んで嫉んで嫉みきっている。
(それは、リーエを友達だと思う気持ちとは別のものだ)
リーエは好きだ。けれど貴方のリーエへの想いを目の当たりにするたび、暗い渦が私の中で渦巻いていく。
「礼、とは恐らく、違う」
真刀は畳み掛ける私など全く意に介さず、やはり歯切れ悪く言った。
「じゃあなんですか」
なにが言いたいのかわからない。それでもこうして、真刀とふたりの時間を持てることを能天気に喜ぶ心がある。本当に、私は、馬鹿だ。
「リーエとは、きちんと話をした。今まで互いに避けてきた話を。俺が今まで、胸に燻らせていたすべてを解いてくれるような、話を。……けど、俺は」
視線を外していた真刀が、ゆっくりと顔を上げる。
黒い視線に見つめられて、喉がきゅうと絞られるような感覚に陥った。
(まっすぐ見つめられるだけで、息ができない)
「あの夜、お前が、俺のために泣いてくれたことが」
ちがう。
「……貴方のために泣いたんじゃない」
思わず、真刀の言葉を遮っていた。
「それでも、俺は」
真刀はわかっている、と言うように言葉を次いだ。
「ちがうって。貴方のために泣いたんじゃない。すごく利己的な感情で泣かずにはいられなかっただけなんだ。だから、貴方があの夜のことで、私に、……そうだな、例えば感謝とか、そういったものを感じる必要は、ない」
あのときの涙がなんだったかなんて、私自身もよくわからない。
もしかしたら真刀のために泣いたのかもしれないし、自分のために泣いたのかもしれない。
でも、どちらにせよ、あの涙で、真刀の重りを拭ってやれたなんて、思わない。
「真刀、貴方がリーエとなにを話してなにを思ったか、私にはわからない。貴方はいつもはああだけど、とても優しい人なのだということを私は知ってる。でも」
「聞け、リエ」
いやだ。
これは、聞いたらだめな話だ。
「どう思ったとしても、真刀はこれからもリーエと共にあるでしょう。リーエの剣として誓ったから、貴方は、」
「聞け!」
自分でもなにを口走っているかわからなくなってきた頃、真刀の鋭い声が耳を打った。苛立ちを隠さない大声に、思わず体が跳ねる。
「……悪い」
怯えたような私を見て、真刀はばつが悪そうにまた顔を逸らす。
「聞けよ、俺の話を」
やだよ。聞きたくないよ。
聞いたら、私、多分。
「俺は、ずっと苦しかったんだ。リーエの護衛として剣として傍に在れればただよかったはずなのに、リーエを抱いてから、リーエへの想いに歯止めをかけるのが難しくなった。仕事だと割り切ろうと思っても、割り切れなかった」
わかるよ。リーエは、貴方にとって女神のような存在でしょう。
貴方のあの目を見ていたから、わかるよ。
「ずっと、本当に苦しかったんだ。俺は一体なんのためにリーエと共にあるのか、そのことにすら疑問を抱くようになって、ただ、苦しかった」
本来、手に入らないと思っていたリーエの、体だけに触れてしまったことが、真刀の苦しみの始まりだったのだろう。
それを知らず、ただ剣として傍に在れば、もっと、楽に生きられたかもしれない。
一度、甘い蜜を味わってしまっては、欲望を抑えることは難しい。
「……だけど、あの夜、お前は俺を肯定してくれた。俺が今まで独りで考えて悩んで苦しんできた全てを、間違っていないと教えてくれた。俺の代わりに、泣いてくれたんだと思った。……俺にとって、それが、どれだけ」
真刀は、言葉をとめた。
そうして顔を上げた真刀は、妙にすっきりとした表情で私を見ていた。
凪いでいる。
そこにリーエへの想いも、国王への嫉妬も、護衛としての葛藤も、なにも見出せない。
すべてを受け入れて、飲み込んだ。
それは、真刀の強さだ。
(――でも)
それでも、貴方はこれからも、リーエを抱くのでしょう。
それがどれだけ、貴方にとって辛く重く、苦しいことでも。
たかだか私が零した涙と肯定の言葉になんかそそのかされて、それすらもリーエへの想いの肥やしに変えて、これからも、あの愛らしい女の子を愛するのでしょう。
だってこの先、きっと、リーエにとって最大の試練がやってくる。
そしてそれは、私という道具によって引き起こされる悲劇だ。
鼎が指揮棒を振る、鼎にとっては喜劇の幕開け。
そうしたら、貴方はもっとリーエを抱く。リーエがそれを望む。
壊してしまうくらいに、めちゃくちゃに抱いてと、リーエは願う。
そして貴方は、応える。
「……いたい」
私は真刀の言葉を半ば無視するような形で、ぽろりと呟いてしまっていた。
心臓が、ずるずると汚濁のようにとろけて、足元に泥のように広がっていく。
「リエ?」
痛い、痛いよ、真刀。
「……真刀」
真刀の呼びかけも無視して、私は真刀に近付いた。
身長の高い真刀を見上げた私の目は、危なげに揺らいでいたかもしれない。
「貴方は、リーエの傍にいて。これからなにがあっても、リーエの傍を離れないで」
そして私になんか見向きをしないで。
同居人以下の扱いでいいから、私に優しさを注がないで。
(そうして貴方の優しさに私が慣れた頃を、鼎は待ってる)
「……リエ?」
真刀が黒々とした眉を不審げに歪めた。
「お前、なにを――」
ピリリリッ。
そのとき、ベッドに転がしていた私の携帯電話が鳴った。
普段着信音にしている中学のとき聴いていたバラードではなく、初期設定の味気ないそれ。
(鼎……)
ぞ、とする。
まるでタイミングをはかったかのような鼎からの着信に、私は真刀を部屋の外へ押し出すようにして廊下に出た。
息が勝手に切れる。
鼎からの電話なんて、滅多にない。というか、今まで一度もなかった。それでもなにかあったときのために、と無理矢理登録させられた番号から、今、かかってきている。
こわい。
(――こわい)
まるでどこかで鼎に見られているかのような感覚だった。
気持ち悪い。
無機質な着信音が、私に迫ってくる。
真刀と共に廊下に出て、襖まで閉めた私を、真刀は訝るように見ていた。
「……電話、出なくていいのか」
まるでなにかを確認するようい聞いてくる、硬い声。
「いいの。最近、無言電話多くて」
これで着信音がちがうのも説明がつく。
「一時鳴ってるかもだけど、放っといて。私、お風呂はいってくるから」
ピリリリッ。
なにか言いたげな真刀からも、鳴り続ける電話からも、私は逃げた。
平屋の一番端にある風呂場に飛び込んで、閉めた戸に凭れてずるずると座り込む。
両脚がぶるぶると震えて、これ以上、立っていられなかった。
(こわい……)
立てた膝に、額を押し付ける。
ぞわぞわと、項に鳥肌が立っていた。
今日、鼎に、会いたくない。
(こわい……)
ひどく嫌な予感が、私の胸で渦巻いていた。
「……あら、真刀。リエと話はできました?」
真刀がリーエの部屋に行くと、穏やかな顔のリーエがそう尋ねてきた。
真刀は曖昧にああ、と呟くと、考え込むようにその場に立ち尽くす。
「リーエ」
「なにかしら」
夕食を終えてから、ふたりで話をした。
今までのどこか歪んだ関係の中に隠された互いの本音を、飾らず、包み隠さず言葉にして、伝えた。
そうすると、互いの胸に愛情とは違う不思議なものが満ちた。
リーエの笑顔が今までよりずっと身近になり、真刀も、どこか身が軽くなったような不思議な感覚に穏やかな心持ちでいられた。
いや、本当は、あの夜、リエに己の苦痛を代弁してもらったときから、この身軽さを実感していた。
誰かに理解してもらえたという安堵が、リエが流した真刀のための涙が、真刀から歪な感情をおかしいくらいきれいさっぱりと洗い落としてしまったのだ。
「……リエと夕方話したとき、なにかおかしな様子はなかったか?」
そうだというのに、たった今のリエの反応はなんだ。
真刀と話している間もそうだったが、電話が鳴った瞬間の怯えた顔。無言電話だと言っていたが、今までそういった話題が口に上ったこともない。なにより、無言電話なら番号がわかっていようが非通知だろうが、着信拒否にすればいい。
それをしないでおきながら、あの怯えた表情は――。
「リエがどうかしましたか?」
リーエが心配そうな顔で真刀の腰に腕を回してきた。
甘えるように上目遣いで見つめられ、習慣のように真刀の心臓は跳ねる。
リーエから信頼は得ても愛は得られないとはっきりした今でも、真刀が胸に抱く想いは変わらないままだ。ただ、今までのように欲しくて欲しくて狂いそうになるような感情はなりを潜めていた。リーエの傍で、リーエの剣として在れるなら、この想いが成就しなくても構わないと、どこか悟りきった想いすら抱いている。
「……いや、なんでもない」
なにもかも不確定の状態で主に報告することでもないと、真刀は口を噤んだ。
そうしてリーエに言い忘れていたことがあったと思い出し、違うことを口にする。
「リーエ、今夜少し空ける。護衛衆がついているから問題ないが、俺が傍にいられない」
「大丈夫。このうちはとても平和ですもの」
暢気に笑っている主人に、真刀は頭が痛くなる。
何度も口にしている苦言を、ここでも口にすることになった。
「……だから、油断するなと」
「わかっています。真刀は本当に過保護なんだから……真刀はどちらへ?」
リーエにとっては耳にたこである。
くすくすと楽しそうに笑うリーエに、真刀は肩を竦めた。
「スクネに呼び出された。主要港だ」




