今日は風が、月が、
「リエ、おかえり」
学校から帰ると、毛むくじゃらの熊さんに出迎えられた。
黒い作務衣を着て、庭のひまわりを弄っている。
「ただいま、父さん」
この今にも貝殻のイヤリングを拾って届けてくれそうな黒い熊さんが、私の父である。
もこもこの黒い髭に覆われた口許が、穏やかに笑ったのがわかる。父は、日向の人だ。
「リーエさんと真刀くんも、さっき帰ってきたよ」
知ってるよ。わざと帰りの時間を遅らせてきたんだよ。
鼎に抱かれて城を出た頃には、すでに外は明るくなっていた。
体力の消耗と容赦ない行為のお陰でじくじく傷む下腹部に、今日の学校は欠席したくなったが、間に合う時間だったので登校することにした。
そうしないと、リーエや真刀経由で父に学校を無断欠席したことがばれる。
「お友達は大丈夫だったか?」
手についた土を外の蛇口で洗い流しながら問いかけてきた父に、え、と間抜けな声を出してしまった。
「恋人に振られてしまったんだろう。誰だ、ゆうかちゃんか?」
「あ、……あ、うん。いや、ゆうかじゃないよ。父さんの知らない子」
置き手紙にそういった嘘を書いていたことをすっかり忘れていた。私は怪しまれない程度の態度で父をかわすと、逃げるように家に入った。
父は、私の唯一の肉親だ。母は物心ついたころには既になく、写真も残っていない。
父と離婚したのか、結婚すらしていなかったのか。それすらもわからないが、仏壇はないので、死別ではなさそうである。私が父について城に同行していたのも、他に保護者がいなかったからだ。
ただ、私はリーエと同じような赤毛をしているので、きっと母もめずらかな赤毛だったのだろう。
「リエ、おかえりなさい」
玄関を抜けて畳の居間に出ると、リーエがにこにこと出迎えてくれた。真刀の姿はない。
「ただいま、リーエ」
正直、今は会いたくなかった。
今朝、体内に容赦なく出されたどろりとした液体の感覚が、何故かリーエの顔を被って蘇る。
「今日こそは、一緒にカレーを作りましょう!」
両手でガッツポーズをして、リーエが瞳を輝かせて詰め寄ってきた。
正直とっても断りたいが、昨日、自分から言い出したことだ。それに、こんなふうに心底から楽しみにされると、断りにくい。
リーエは、私のことを本当の友達としてみてくれているようだった。
(……私は貴女の旦那と寝てるのに)
自分の意思ではないが、そんなの関係あるのだろうか。結果からいえば、リーエを裏切っていることに変わりはない。たとえ、リーエが鼎ではなく、本当は真刀を愛しているのであっても。
「材料あったか確認してみる。ないものは私があとで買って来るよ」
「あ、それならばわたくしも……」
「駄目だ」
真刀がタイミングよく、リーエのわくわくした気持ちを一刀両断する。
私は真刀を正視できず、畳を見つめた。
後ろめたさなんか感じる必鼎はない。真刀は、私がどこの誰となにをしていようが、気にもしないだろう。
(……いや、するか。なにせ相手が、リーエの夫だ)
もし全てばれたら、リーエは、真刀は、どうするのだろう。
私はきっと、今手にしている数少ないすべてすら、失うのだろう。
「どうしてですか、リエだけに重たいものを持たせるわけにはいかないでしょう」
リーエが真刀に負けじと抗議するが。
「王妃であるお前にリエが荷物を持たせると思うのか。それにお前は、ちょっと興味が惹かれるものがあるとそちらにすぐふらふらするだろう。そんなお供を連れてっても、リエが大変なだけだ」
真刀はリーエの安全を確保するためなら、リーエにも容赦ない。
「いや、私は持たせるけど」
いつもならふたりの言い合いに口を出すことはしないのに、このときは何故か、そんなことを口走ってしまっていた。いろいろとダメージがきているな、私。
「それなら尚のこと同行させられるか!」
真刀が怒鳴る。
「貴方こそ、いい加減リーエの意思を尊重してやったらどうですか。私がなんのために影武者をしていると思ってるの?どうせこの家の周囲も馬鹿みたいに警備で固めてるんでしょ。そこから二、三人引っ張ってきて、影からこっそり警護するくらいさせなよ。リーエはなんのために一般高校に入学したの、なんのためにうちにいるの」
早口でまくし立てると、さすがの真刀も面食らったようだった。それはそうだ。リーエと真刀を前にして、こんなにたくさん話したのは初めてかもしれない。
「リエ……」
リーエは感激したように私を見つめていた。
真刀は真刀で、私のほうが正論だとでも思ったのか、ばつが悪そうに舌打ちする。
「……真刀が、リーエを心から心配してるってわかってるよ。リーエだってそれはわかってる。でも、せめてうちにいる間くらいは、もう少しリーエは自由でいてもいいんじゃないの?」
思わず真刀をぶった切ってしまったが、真刀だってリーエが心配で心配で仕方ないのだとわかってはいる。安全を確立するには、危険の取り除かれた場所で大人しくしていたほうがいいということもわかる。でもそれでは、一般人として世間を見たいと言ったリーエの意思はどうなるの。
「……ごめん、なんかいい子ぶってしまった。とりあえず今日は、私だけで買い出しにいくから」
とはいえ、警備や警護のことなど私にはわからない。やはり余計な口出しだったと思い直してそう言うと、真刀は不機嫌そうに眉を寄せた。
「そんな、リエ。ありがとう、そう言ってもらえただけで、わたくしは充分ですわ。真刀、無茶を言ってごめんなさい」
リーエが私に抱きついてきて、そっと囁く。
(……本当にリーエは素直だな)
真刀が惚れこむのも、わからなくもない。だからこそ、敵う隙もなくて辛いのだが。
鼎が私と比較したがる気持ちも、なんだかよくわかる気がした。
「わかった」
リーエの肩をぽんぽんと撫でていると、真刀がぼそりと低い声で言った。
「今回だけは、許す。ただし俺も同行するからな」
まだ納得しかねるといった態だが、買い物の許可は出たらしい。リーエが喜び勇んで真刀に抱きつき、嬉しそうに礼を言った。
(……いいな)
リーエに想われる真刀も、そんなリーエを想う真刀も。
ふたりの恋路は、決して実ることのないものだとしても、こうして仲むつまじい姿を見ていると羨ましくもなってしまう。
「じゃあ、支度してくるから。リーエは念のため、髪の毛帽子で隠したほうがいい」
日本人離れした赤毛がふたりも揃うと、さすがに目立つだろうから。
材料を確認したところ、実はカレーの材料はすべて揃っていた。とはいえ、買出しに行く必鼎がなくなったからといって、買出し自体を中止してリーエを落ち込ませるのは忍びない。適当な理由をつけて、私と真刀、リーエは夏の匂いのする外へ出た。
うちの敷地である竹林を抜けて、大手スーパーに向かう。そこでジュース類や菓子類、スープに使う野菜を買って、少し遠回りして帰ることにした。
城下町であるこの街は、海にも隣接している。入り江になっている堤防を歩くと、丁度いい運動になるのだ。リーエを誘うと、嬉しそうに頷いた。
「風が気持ちいいですわね……」
リーエがうっとりと海を眺めながら言う。
私は並んで歩くリーエと真刀を、一歩後ろから眺めて歩いていた。
日中は汗ばむくらいだが、夕方となると少し冷えた風も吹き心地よい。今は六時前。青空が残る空が少しだけ白く霞んできて、もうじき夕焼け空になるだろう。
「こんなふうに、静かに海を眺められるときがくるなんて、思ってもいませんでした」
リーエが感慨深げに溜め息を吐いた。
普段は真刀のほかに、SPもぞろぞろついて回るので、こうしてゆっくりと潮の匂いを嗅ぐのも初めてだという。
「……リエのお陰ですわ」
リーエが、慈愛に満ちた笑みで私を見つめていた。
(ちがうよ、真刀のお陰でしょう)
貴女を必死に守っている、貴女に盲目的な恋をしている、従順なイヌのおかげ。
「よかったね」
ただそれを指摘しなくとも、リーエはわかっているのだろう。
嬉しげな笑みを、真刀にも向けていたから。そして真刀も、今まで見たことがないような穏やかな笑みを、リーエに返していた。
「……日も長くなったね。夏がくる」
ずきりと痛んだ胸を無視して思わず呟くと、リーエが先ほどとは打って変わって、溌剌に目を輝かせて私を振り向いた。
「そうしたら、一緒に海に行きましょう、ね、リエ」
「海は駄目だ。せめて王族のプライベートビーチにしろ」
「まあ、それじゃあ意味がありませんでしょう」
「海に行くだけが目的なら、あそこで充分だろ!」
ふたりだけの会話が展開されてしまい、私はただ、ぼんやりと海を眺めた。
堤防に登ると、視線が丁度水平線と重なったような感覚に陥る。
この景色が、好きだった。
少し入り江になった海の姿は、穏やかで優しく、黙って私を受け入れてくれる。
(そうだ、いつか全てばれて全て失ったら、海に身を投げよう)
あの熊のような父は置いていけないから、せめて父を看取ったあとに。きっとその頃には、すべてを失ってぼろぼろになっているだろうから。
「リエ?」
ぼんやりと海を眺めていた私を、真刀が訝るように呼ぶ。
名前、呼ばれた。
たったそれだけが嬉しいのに、リーエと音が似ているせいで、どこか新鮮味に欠けた。
「なんでもない。帰ろうか」
野菜を入れた袋をがさがさと鳴らして、私は高さのない堤防から飛び降りた。
夕食後、食器を片付け終わった私は、下駄を履いて縁側から庭に出た。
竹林のてっぺんに、丸く太った月が見える。このあたりには街灯も民家も少ないので、月の光がよく届く。月に照らされた青い世界に、真っ白な月がよく映えていた。
(落ち着く)
女は月に左右されると聞くが、それは本当なのだろう。月光浴とはよく言ったもので、月の光を一身に浴びると、本当に心が落ち着くような気がする。
(この平坦な心が、ずっと保てればいいのに)
真刀に焦がれ、リーエを妬み、父に隠し、スクネに当たり、鼎に怯える。
あのリーエと真刀が初めて合間見えた日から、私の心にはずっと風が吹いていて、それが荒波ばかりを立てている。
「リエ、なにしてる」
ぼんやりしていると、気配もなく名を呼ばれて慌てて振り向いた。
風呂上りなのか、黒いTシャツにスラックスの真刀が縁側に立っている。
「真刀。月が出てたから。……リーエは?」
習慣のようにリーエの所在を聞けば、部屋で宿題を片付けていると言われた。リーエは可愛くて頭もよさそうなのに、実はあまり成績はよくはい。そのギャップがまた親しみやすくて、学校の子達ともとてもうまくやっている。勿論、正妃であることは隠しているが。
(そういえば、真刀、私は貴方に聞きたいことがあったのだ)
真刀も月光に吸い寄せられるように外に出てきた。
私に並んで、月を見上げる。
「……ねえ、真刀。内緒話したいんだけど、今、周りに誰もいない?」
静かに視線をめぐらせて、周囲に誰もいないか確認する。それでも不安なので、真刀に聞いてみた。
「なんだ、改まって。俺たちの声が届く範囲には誰もいない」
一体どうやってそういうことがわかるのか謎だが、いないなら都合がいい。
「なんの話だ」
真刀が促す。
私は深呼吸して、真刀を見た。
「……真刀とリーエの関係を、王様は知ってるの?」
今朝、あの最悪な時間の中で。
鼎は私を追い詰めながら、確かに言った。
〝きっとあの真刀という愛人も、リーエの愛らしい体に夢中だよ〟
鼎は知っているのだ。真刀とリーエの関係を。
リーエが鼎を裏切り、真刀と心を通わせていることを。
「……ああ」
真刀は少し躊躇するように肯定する。
わかっていたことだが、真刀に頷かれると、焦燥が湧き上がってきた。
「なに、それ。そんなの、……大丈夫なの?」
下手をすれば、リーエも真刀も相応の処罰を受けるのではないか。王族が臣下と通じた罪は重いはずだ。その逆は、もっと重い。
「俺は王公認の愛人なんだよ」
はい?
「……王族の護衛が主の愛人になるのはよくあることなんだ。王も異性の護衛を何人か侍らせてる。護衛ならどんな場所に連れて行ってもおかしくないし、一番近くに置いておけるから、どこでもやれるだろ」
知らなかったのか、と真刀は呆れ気味に私を見た。
初めて知った事実に、脳内がぐちゃぐちゃになっていく。
それでは鼎が言っていた〝予備〟とは、鼎の護衛たちのことなのだろうか。
「……いや、でも、それは王様はそうかもしれないけど、リーエは違うでしょ。リーエは、真刀のことが、好きだから……」
困惑しながら言った私を、真刀の冷たい視線が突き刺した。
「リーエも王族だ。俺ははじめから護衛兼愛人の立場でリーエに仕えてる。リーエに俺に対する恋愛感情はない。王の寵を受けていないとき、気まぐれに召し抱えるだけの存在だ」
うそだ。
「……だって、貴方、それで」
「いいわけないだろ」
私の震えた声を、真刀が力強く遮った。
「それでも、そうしないと傍にいられない」
以前にも聞いた言葉を、真刀が紡ぐ。
「リーエは、良くも悪くも生粋の王族なんだ。夫君の他に愛人を作ることにすら疑問を抱いていない。それが当たり前だという環境で育ったからだ。リーエは、なんの罪悪もなく、当たり前に俺を誘って、俺に抱かれて、ひと時を愉しむ。王のお召しがあるときのあいつの顔、お前に見せてやりたい。……幸せそうなんだ、心底から、王に愛でられるのを待っている。……それでも、俺はリーエの剣だと誓った。俺のすべてはリーエのものだ。リーエが望むなら、そこにあいつからの想いがなくても、俺はそれでいい」
そんなの。
そんなの、わたしはいやだ。
「……リエ?」
真刀が、困惑したような声で私を呼んだ。
私は勝手に頬を伝った涙を止める術もないまま、ただ呆然と真刀を見つめることしかできない。
(だって)
リーエと真刀は、心が通じているから、そう信じていたから、だから、私は。
「……そんなの、いいわけないじゃん」
掠れた自分の声が、酷く悲しかった。
「好きな人に、そんなふうに扱われて、いいわけないじゃん……。リーエのなかでそれが常識でも、そんな風に貴方が扱われていい理由には、ならない。そんなのひどい。好きな人に、自分の想いと同じくらいの想いを返してほしいと乞うことは、おこがましいことじゃない、当たり前のことでしょう……?貴方は、もっと、欲張ったっていいはずなのに。貴方のリーエに対する愛は、そんな形で傷付けられていいものでは、ないのに」
ああそれなのに、全てが邪魔をする。
真刀が真刀でなければ、リーエが王族でなければ。
――どうしてだろう。どうして噛みあわないの、どうして結ばれないの。
真刀のあの優しい眼差しは、リーエにしか向けられないのに。
(私がほしくてほしくて堪らない、真刀の心を)
それなのにその心は、リーエには届いていないというの?
(そんなの、おかしい……)
それとも真刀がそう思い込んでいるだけなのだろうか。リーエは、真刀を。
考えて、鼎の穏やかな微笑が思い浮かんだ。
(鼎はすべて知ってるんだ。真刀がリーエを愛していること、リーエが真刀をただの愛人としてしか見てないこと。……そして私が、真刀に恋をしていることも)
全てを知った上で、私を抱いた――。
ただ傷つけるために、抱いたのだ。
「真刀は、……」
言葉は続かなかった。
なによりも愛している人を、愛されていないと知りながら抱いた真刀は、どんな想いだったのだろう。
どんな想いでリーエに口付けて、抱き締めているのだろう。
リーエにとってはただ、無邪気にじゃれあう延長線上の行為であっても。
(……それが、真刀の愛)
報われなくても、それでも貫こうとする、真刀のリーエへの想い。
「いたい……」
心臓が張り裂けて、今にも消えてしまいそうだ。
人生とは、なんて重いのだろう。
もう二度と歩みたくないと、私達に思わせることが目的なの。
それほどの思いを味わっても、まだまだ、くるしまなきゃならないの。