リエはリーエ、リーエはリエ
少々不道徳です。
翌朝、私はまだ日が昇らないうちに家を出た。
深夜頃、私の携帯電話に一通のメールが入ったのだ。
登録されていないアドレスだったが、私はそれが誰からか知っている。
『明日、夜が明ける前に』
たったそれだけ。
「明日学校だってば……」
そう返信しようとして、やめた。
生憎出席日数は充分に足りているし、王様に逆らってでも学校に行きたいと思うほど、馬鹿ではない。
もうすぐ夏だ。けれど太陽が顔を出さないと、やはりまだひんやりとしている。
広大な竹林に囲まれて建つ平屋の我が家を出て林を抜けると、すぐに街の中心地に出る。時間が時間なので、人には滅多に会わない。というか、会ったことがない。城下町とはいえ、このあたりは閑静な場所だ。昼はにぎやかだが、夜や早朝は、それに似合う静けさになる。
そんな薄暗い道を、ただひたすらに歩いた。歩いて歩いて歩いて、やがていつもの歩道橋の下に、黒いバンが停まっているのを確認する。運転手も私に気付いたのか、俯けて携帯をいじっていた手を止めてドアのロックを解除した。
「おはようございます」
言いながら、車に乗り込む。いつもこの時間帯に、こんばんはとおはようのどっちを言えばいいか迷うのだが、結局朝の挨拶を使っている。
「中森さんに言伝は」
「メモを置いてきました。彼氏に振られた友達から緊急呼び出し、って」
運転席に座るのっぺりした顔の男は、スクネという。どんな漢字を書くのか未だに知らないので、私のなかではカタカナの〝スクネ〟で登録されている。見た目から恐らく四十代後半……、いつも背広を着ている政治家のような男だ。
「本当のことはお伝えにならないのですか」
「……なんて言えってんですか?」
スクネの言葉に、思わず自嘲が漏れた。
エンジンがかかり、ゆっくりと走り出す。
「王様の気まぐれでたまに城に呼び出されてレイプされてますって、そう言えってんですか?」
それは、突然のことだった。
リーエがうちで暮らすことになって三ヶ月ほど経った頃。その頃にはリーエと真刀との付き合い方のこつを覚えて、比較的平和だった。私の内心は、まだほろほろと涙を流していたけれど。
そんなとき、私は突然城に呼び出された。父にも、リーエにも真刀にも内緒で、スクネを経由して、私は学校帰り、制服姿のまま王の御前に差し出されたのだ。
そこで私は、生まれながらにしてリーエの影武者であることを知らされた。今のところ公式に顔を出せないリーエの代打として、或いはなんらかの危険がある場合に、リーエの代わりとして公務に従事しろ、と王は言った。
先代が若くして亡くなったため、現国王も三十代という若さだ。今日からは僕のことは鼎と呼びなさい、と柔和な態度で私に接したが、父である中森には私が生まれる以前より影武者の件を打診しており、娘を城に召し抱えられたくなければ、大人しく影武者に従事させろと脅迫したんだ、と臆面もなく私に白状した。父は、私がリーエの影武者をしていることは知っているが、王に抱かれていることは知らない。こんな事実、知らなくていい。
「……なにかあれば、私に言いなさい」
私が黙りこんでいると、スクネが小さくそう呟いた。
スクネは優しい。私を助けても慰めてもくれないが、愚痴の捌け口とすることを許してくれる。大の大人がたかが女子高生に。そこに罪悪感や憐れみが多大に含まれているとしても、私の悲惨な現状を知っている人がこうして表面上でも優しくしてくれていることは、救いだ。スクネは、私の辛い人生での小さな癒しだった。
車内でいつものように体温計を渡され、体調チェックを受ける。体がだるいとか、以前より眠くなることが多いとか、そういう項目に、自己判断でチェックしていく。
これが今から鼎に抱かれるための準備段階だと思うと死ぬほど嫌だが、最終的には私の体のためになるから我慢している。それでも泣けてくるのは、もう、どうしようもない。
城に着いて、リーエも真刀も知らないという秘密の通路を使って王の自室に向かう。
日本王族の城は、典型的な日本城郭〝天守〟だ。時代劇でよく殿サマの城として映る、美しく合理的に組み合わされた石垣の上に重層な櫓の鼎素をもった楼閣建築である。とはいえ、長い間増改築を繰り返し、その規模は異常なほど広大で、造りは複雑怪奇になっている。中身は純和風の区画もあれば、外身は天守だが、中身は西洋、という区画もある。
現王は西洋がお好みで、自室もあちらのものを真似ている。
重厚な暖炉に脚が埋まるような毛長の絨毯、ビロードのソファに、猫脚のテーブル。そして、天蓋つきのベッド。
「ああ、リーエ」
外はまだ薄暗いというのに、鼎はもうしっかりとスーツを着て、執務机に向かっていた。スクネは私が部屋に入ったのを見ると、音もなく姿を消した。
「リエです」
私が嫌がるのを知っていて、いちいちわざと間違える。このあたりから、柔和な態度などフォローにもならないほどの性格の悪さが窺える。
しかしスーツを着ているということは、今日は〝そういった真似〟はしないかもしれない。単純に、影武者の仕事の話かもと、私は安堵した。
「ごめんね、リエ。君がいつもいつも僕の言葉を訂正するのが楽しくて仕方ないのだよ」
パソコンから顔を上げた鼎が、ライトに照らされてぼんやりと輪郭を現した。
鼎は美しい。
美しいけれど、怖い。
この部屋で初めて抱かれたときの恐怖を、私は未だに忘れることができない。
「僕がスーツを着ていて安心した?今日はもうセックスしなくて済むって、ほっとした?」
口調は穏やかだが、内容はあからさまだ。基本、繕うことをしない鼎を見ていると、やはり王族なのだな、と妙な納得をしてしまう。
「……するの?」
声が震える。
「しようか」
鼎が朗らかに笑った。
昨夜、リーエを抱いたベッドで、私は抱かれる。
リーエがいつも纏う花の香りが残ったままのベッドで、私はこの男にめちゃくちゃにされるのだ。悪趣味にもほどがある。
「……未成年者保護法は適応されませんか」
「君に限りされない」
ふざけんな。
思わず拳を握ったが、すぐに力を抜いた。
鼎の手が伸びてきて、セーラー服のリボンを解かれる。そのリボンが絨毯に落ちる音を聞いて、私はすべての感覚を閉ざそうと意識した。
――初めてのとき、怖くて怖くて痛くて痛くて、頭がおかしくなりそうだった。
影武者の仕事を強制的に引き受けさせられ、鼎と謁見して三度目。なんの前触れもなく、私は床に押し倒されて、分厚い絨毯の上で蹂躙された。
真刀、真刀、真刀……!
頭の中で何度助けてと叫んだか知れない。
けれど真刀は、こなかった。
(当たり前でしょ……)
真刀はリーエの剣だ。私の剣ではない。
避妊すらされず、終わったあとアフターピルをスクネに渡されて、私はそのまま家に帰された。そのあと数日、学校で、家で、どんな顔をして過ごしたか記憶にない。
「……せめて、避妊してよ」
「そうだね、リーエより先に君が妊娠してしまうのは体裁がよくない。まあそのときは早々に処置すればいい。君の体調管理は、スクネが完璧にしてくれているはずだから。けれどリーエが第一子を産んだあとならば、君が孕んでも問題ないだろう。王族の子は、多ければ多いだけ安泰だ」
鼎は怖い。
中絶のことを処置といい、私が妊娠して、そのことが生む軋轢をなんとも思っていない。
人の上に立つ人間として、最も恐ろしいようであるのに、王としての鼎は優秀だった。
「……リーエが子供を産んだあとにまで、抱く気なんかないくせに」
鼎には、リーエの他に数人、〝予備〟がいるのだと聞いたことがある。
リーエは正室で、予備はつまり側室のことだ。けれどリーエの立場は他を圧倒する地位にある。リーエが子を産めば、男女関係なくその子が王位継承者になる。
鼎は、本当に気まぐれで私を抱いている。
まだ数回とはいえ、ただ私の心を痛めつけるためだけに抱いているのだと、わかる。
私の訴えなんか届かない。どれだけ泣いてもやめてくれない。抵抗したって、人からは見えない位置を強く打たれて、封じられる。
だから、抵抗するのはもうやめた。私はただ、無心で終わりを待つ。
そうだ。きっと、すぐに厭きる。
リーエが子供を産めば、それこそ。
「そうだね、リエの体はつまらないものね」
鼎が眼を細める。
たっぷりと濡れた瞳がライトの灯りに照らされて、妖しく光った。
その瞳に焼ききられ、ずくずくと、心臓が下から溶けていく。
「面白かったのは最初だけだったなあ。笑いもしないし泣きもしない。ただ硬いだけで、ほんと、冷凍マグロを抱いてる気分」
悪者になにを言われても傷付かないなんて、そんなの嘘だ。
レイプ同然に私を抱いた鼎の言葉に、私は傷付いている。
己の尊厳を、ぐちゃぐちゃに踏みつけられて、風で飛ばされそうになっても、見向きもされない。
「リーエは初めてのときも今も、私に翻弄されて愛らしいままなのに」
お前は惜しいね、リエ。
「きっとあの真刀という愛人も、リーエの愛らしい体に夢中だよ」
すべて知っている、と笑う。
「似ているのは髪色と名前だけなんて、なんて憐れな、日陰のリーエ」
ほら、昏い穴に落ちていく。