リエとリーエと真刀
人生は残酷だ。
人によってその度合いが違うところがまた切ない。
同じ物差しで計ることができれば、一番を決められるのに。
「リーエ、やっぱり危ない。俺に貸せ」
私の正面で、仏頂面をした男が耐えかねたように口を開いた。
「いやよ、そうやって貴方の過保護で、今までいくつわたくしの努力が奪われていったと思っているの」
男の隣に座り、男のシャツのボタンをつけている女が、愛らしく頬を膨らます。
「奪うって……、おい、ちゃんと手元を見ろ」
「見ているわ。ねえ、リエ。ほら、だいぶ慣れてきたでしょう」
そう言って、女――リーエがにっこりと顔を上げた。
慣れないながら頑張ってつけたボタンを、誇らしげに私に掲げて見せる。
「そうだね」
私は義理程度に顔を上げて至極簡潔に返事をしながら、再び手元の漫画に視線を落とした。
少年漫画の王道の展開が、そこに繰り広げられている。男の友情って素敵だな。
しかし私のそんな態度が気に入らなかったのか、男――真刀が私を睨みつけてきた。
「……リーエ妃の御前だぞ。リエ、少しは礼儀を重んじろ」
真っ黒い瞳が、昼の穏やかな陽射しに照らされてきらきらしている。
リーエにほつれたボタンを縫ってもらって鼻の下伸ばしてた貴方に言われたくないな。
「……この家で暮らすからには、身分云々はご法度、って約束じゃありませんでしたか」
そんな目でも向けられて嬉しいなんて、死んでも思わない。
「そうよ、真刀。この場所でわたくしを特別扱いしないで」
リーエに窘められて、真刀が渋々といったふうに口を閉じた。やはりどこにいたって、従順なイヌはイヌだ。リーエ、あなたは、どこにいたって特別扱いされる。
「もうそろそろお父様たちが帰ってらっしゃるわ。リエ、今日の夕飯はなににするの?」
ほら、その愛らしい笑顔で、私と真刀のギクシャクした関係すら、フォローしようとする。
敵う敵わないの問題じゃない。
私とリーエは、ちがうのだから。
ここ、日本で王族制度が始まってから既に二百年を越える。
現国王である日本鼎の妻、つまり正妃であるリーエが腹心の護衛をつれて我が家にやってきて、かれこれ半年が経った。
我が家は代々、王家の庭番だった。今は別の者に引き継いだが、王家の覚えがめでたいこと、そして私とリーエの関係性から、王妃が学業に専念する三年間だけ、彼女は我が家に預けられることになったのだ。
赤茶色の日本人にしては珍しい髪色の王妃、リーエ。国民にはまだ表立って顔を見せたことはない。国王と婚姻は結んだが、一般的な高校に進学したいという妃の希望を通して、学業期間を経てから正式なお披露目をすることになっていた。
そしてそんな彼女についてきた護衛、真刀。
黒々とした髪を刈り上げた堀の深い顔に、細身だが長身の体躯。人目を引く容貌だが、リーエについている間は気配を消しているので、あまり騒がれることもないらしい。正直、この話を聞いたとき忍者か、と突っ込んでしまったのだが、遡れば忍者の血筋になる、と至極真地面に答えられた。
そんな真刀の携帯が鳴る。仕事だろう。真刀に友達はいない。
着信を告げる携帯をとって部屋の外に出る。このとき、リーエに一礼することも忘れない真刀の後姿が見えなくなってから、私はリーエの傍に寄った。
「どう、上手にできてる?」
リーエが心得ている、というように嬉しそうに笑って縫い付けたボタンを見せた。
それを検分しながら、うん、と頷いて。
「……なにか食べたいものがある?」
今夜の話である。
「そうね、カレーが食べてみたいわ。初めてリエのおうちに来たとき、リエが作ってくれたでしょう」
「……あれレトルトだよ」
「レトルト?」
「既にカレールーが作ってあって、材料と水があればできる。多分、料理ができないリーエでも簡単に作れる」
「まあ、そんなものがあるの?」
「……今日、一緒に作る?」
恐らくあの口うるさい護衛がやかましくなるだろうが、一般家庭にいる間くらいは、やりたいことできることはしておいたほうがいい。城に戻れば、きっとなにもさせてもらえなくなる。
私の意図を汲んでか、リーエがまた、嬉しそうに笑った。
「是非」
その笑顔が好きだ。
私が絶対に叶わない、愛らしくて凛として、誰をも魅了する笑顔。
この笑顔を向けられると、なんだかたまらない気持ちにさせられる。
ただの友人である私がそうなのだから、あの男はその倍も、感じるものがあるだろう。
「リーエ、今夜、王のもとへ行くことになった」
電話を終えた真刀が戻ってきた。
私とリーエの距離が近いことに不愉快を隠さず顔を顰めるが、特にはなにも言わない。
「……まあ、折角だったのに、残念だわ」
王から呼び出しがあったとなれば、夕食も城でとることになるだろう。カレー作りは次回に持ち越しだ。
「……なにか予定があったのか?」
聞いていないぞ、という顔をして、真刀がリーエを見つめる。
リーエは小さく肩を竦めて、秘密よ、と笑った。
リーエに振られた真刀が、次に私を見る。私はそれと視線を合わせることもせず、読んでいた漫画を持って自分の部屋に引っ込んだ。
ベッドに放り投げた少年漫画では、ちょっと情けないけどやるときはやる主人公と、美少女ヒロインとの恋も描かれている。王道といえば王道だ。更に言えば、その主人公に横恋慕するヒロインとは別の女性が出てくることも。
私は、その横恋慕する女だった。
横恋慕、というよりは、想いを寄せていた人を、絶世の美少女に横からかっさらわれた、というほうが正しいかもしれない。
真刀は、私の初恋だった。そして現在進行形で、今も、恋をしている。
父がまだ城の庭師をしていたころ、私は真刀と出会った。同い年の子供と城で出会うことは珍しく、お互い父について登城していた身とあって、時間が合う限り一緒に遊んだり勉強したりした。真刀は今と変わらず強く、気高く、公平で、優しかった。
平均的な感性の持ち主たる私が彼に恋をするのに、時間はかからなかったわけだが、対する真刀は、やがて仕えることになる主、リーエに一目惚れした。
ふたりが初めて合間見えたときのことを、今でも覚えている。中学校に上がってすぐの頃だった。庭の東屋での顔合わせ。庭番の父と枯れ草を集めていた私は大人たちに囲まれて紹介されあっている真刀とリーエを、遠目から見ていた。
真刀はこの頃から表情が乏しかったが、愛らしいリーエに心を奪われたのは一目瞭然だった。これからは姫の剣となり盾となり、その身を守る、と定型文たるそれを、真刀は心の底から誓っていた。
そうして私は失恋し、真刀は私ではなく主であるリーエと過ごすようになった。それ以来私は城には近寄らず、高校に上がる頃には父も城の庭師を引退し、私と真刀の繋がりは完全に経たれたかに思えた。
しかし何故か今、こうして真刀、リーエふたりと同じ屋根の下で暮らしている。久しぶりに再会した真刀は相変わらずリーエと共にあり、私のことなどただのモブとしてしか見ていないような態度だった。
当然ながら、暮らし始めた当初は折り合いが悪かった。
好きな男と、その男がすべてを捧げる女性との生活。どうしろというのか。
決定的だったのは、ふたりがキスをしているところを見てしまったからだ。なんだそれ、お前らそういう仲か、とあの時の衝撃は忘れられない。しかも私の隣の部屋や風呂場で明らかに行為に励んでいる音を聞けば、なんかもう、そのまま海に飛び込んで魚に食い散らかされて死にたかった。キスまでのプラトニックかと思いきや、一線すら越えているふたりの濃密な関係。
ふたりにそんな気はなくとも親密な仲を見せ付けられて、ヒステリックに叫んで暴れて家をめちゃくちゃにしたい衝動に襲われることが何日も何日も続いた。とはいえ、さすがにそれをやらかすには理性が邪魔をする。やがて私は、ふたりに無関心を貫くことにした。そうしてふたりの存在に慣れ始めた頃、一対一なら、そこまで妬かなくて済むな、ということに気付いたのだ。ふたりが一緒にいるときは愛想すら浮かべられないが、各々に対してなら、なんとか普通に接することができた。つまりそれくらい、リーエはいい子だったのである。
ふたりは私の態度の変化に戸惑っていたが、やがて慣れた。お互いどう思っているか知らないが、三人でいるときの私の態度は無関心かつ無愛想、一対一なら、何故か好意的、というような形で、私は自分の平静を保っていた。
「リエ」
開けっ放しだった部屋のドアから、真刀が顔を出す。
リーエは、と問うと、シャワーを浴びている、と返ってくる。ならば私が真刀に無関心を貫く必鼎はない。
「中森殿にはお前から伝えてくれるか。今夜は恐らく帰らない」
凪いだ表情の真刀が、業務連絡のように伝えてくる。中森殿とは、私の父のことだ。
「……大丈夫?」
しかし私はそれには返事をせず、思わず真刀を窺うように見てしまった。
「……なにが」
真刀が冷静に問い返してくる。
わかってるでしょう、聞き返すなよ。
国王の呼び出し、そして今夜は帰らない――それはつまり、リーエと国王が夜を共に過ごすということだ。
リーエを心から愛している真刀に、それはあまりにも苦痛ではないか。
「……大丈夫?」
なにが、とは答えず、私はもう一度問いかけた。
私が全て知っていると承知の真刀は、やがて諦めたように息をついて、答える。
「慣れた」
「……慣れるわけないじゃん」
好きな女が、恋しくて恋しくて堪らない女が、別の男に抱かれる――。しかもそれは、王と正妃として公然の関係であり、真刀にはどうしようもないことだ。そしてそれはリーエにも言える。
わかっていても、慣れるわけない。
(私がそうあるように)
「……慣れるさ。そうじゃなきゃ、傍にいられない」
そう答えた真刀は、小さく笑っていた。
ああ、つらいなあ。人生って、どうしてこんなにつらいんだろう。
どうして私はリエで、真刀は真刀で、リーエは王妃だったのだろう。
そのどれもがどうしようもないことで、それがなにより、つらいのだ。