プロローグその2
深々と雪が降るとある夜。
骨の髄まで浸み込むような厳しい寒さが街を覆っている。
この世でたった一人の家族である姉さんと囲む食卓。
もうかなり使い古した木製のテーブルと椅子。
決して豪勢とはいえない食事。
それでも普段ならくだらない冗談を言い合って笑ったりその日にあったことを報告して頷きあったり。地味かもしれないが、平穏で幸せな時間となるはずの空間。
しかし、今日はいつも違った重苦しい空気に支配されていた。その冷たさは何も冬の雪の所為ばかりではない。
バチッ。
時々、暖炉の薪が音を立てているがその熱は全てが途中でどこかに吸収されてしまっているかのようだ。
言わなければならない。
伝えなければならない。
そんな俺の思いつめた感情が漏れ出して食卓の空気を変質させてしまっていたのだった。
姉さんは何も言わずに食事を口に運んでいる。落ち着いた表情はいつもとそんなに変わらない。
俺の言いたいことはもう大体は察していて。それでも俺が自分で話し出すことを待っている。そんな様子だった。
俺の方は全く食事が進まない。折角の食事なのにとても喉を通る心持ちではなかった。
「――ごめん」
俺は顔を伏せて、まずはその言葉だけを何とか絞り出した。
それは俺の人生の中でも一番真剣で、一番情けなくて、一番苦々しい謝罪。
昔、つい出来心で姉さんの財布に手を出してしまったのが露見したときでもここまで深刻じゃなかった。
「そ、その。やっぱり俺は。い、行けないよ」
からからに乾いた口を必死の思いで動かし、つっかえつっかえ続きを言葉にする。
頭は上げない。上げられない。すごい力で上から押し付けられているように動かなかった。
「そっか」
返ってきたのは素っ気ないほどにいつもと変わらない姉さんの声で。
そのいつも通りが余計に俺の罪悪感を刺激した。だからもう一度「ごめん」と繰り返す。
姉さんは少しだけ息を吐くと
「パル。顔を上げて」と言ってくれた。
聞き慣れた声。
口調は静かなのに不思議と力強くて、頭に乗っかった重石をどけてくれる。
俺はその声に引っ張られるように顔を上げた。
そこにあったのはやはり見慣れた姉さんの笑顔。苦しいときでも悲しいときでも俺を支えてくれたあの笑顔だ。
今は俺が辛い思いをさせているのに。そんな俺ですら逆に励ましてくれているようで。
俺は目を合わせていられない。
「パル。私はみ~んなを笑顔をしたいから行くんだよ。なのに一番近くのあんたがそんな表情になっちゃうんじゃ困るじゃない」
そんな俺を見てか、姉さんは殊更に軽い口調でそう言った。
「姉さん」
「あんたが凄く迷って一生懸命に考えてたこと分かっているから。そうやって出した答えだって知っているから」
「でも」
「自分を責める必要なんてないよ。もともとあんたには向いてないって思ってたし、正直危ないことはさせたくなかったしね」
「けど」
「だから、さ」
姉さんはこちらを見るとテーブルの上で握りしめていた俺の手にそっと自分の手を添えた。
空気の冷え切った部屋でそこからだけは確かな温かさを感じる。
「できれば笑って送り出してほしいな」
「笑って?」
「そう」
姉さんは頷く。
こうやって『答え』を教えてくれる時の姉さんはとても頼りがいがあって安心できる。
「あんたの笑顔が待ってくれてるってそう思えばさ。私が頑張る一番の理由で勇気が出るし。何よりも絶対に戻ってこようって思えるから。これは正真正銘、あんたにしかできないことだよ? それだけできたらもう完璧だって」
姉さんの手にわずかに力がこもるのがわかる。彼女もまた自分自身を励ましているのかもしれない。
「姉さん……」
いつも通りの姉さんの様子に、いつも通りとはいかない不安を感じ取って。
「わかったよ」
そう言って俺は無理やりに唇の両端を吊り上げる。
「うん」
それを聞くと姉さんは満足そうに微笑んで
「ま、ちょっとぎこちないけど、今日のところは合格にしてあげようかな」
なんて軽口を叩き出す。
「直ぐに元に戻るさ」
俺もそれに乗っかることにした。そうでもしなければいつもの調子には戻れそうもない。
「そうして欲しいね。さあ、食べよう? ごはんが冷めちゃうよ」
そう言うと姉さんは匙を手に取った。
「そうだな。――あの、姉さん」
食べ始める前にこれだけは言っておこうと思った。姉さんをきちんと見据える。
「ん?」
姉さんは首をかしげる。
「俺、ずって待ってるからな。ここで」
姉さんの目が少しだけ見開かれた。
ずいぶんと迂遠でしかも消極的だけれど。
それが姉さんの支えになるならばと。
俺は強く固く決意する。
「だから。だからさ」
「わかってるって」
俺の言葉はそこで遮られた。
そして。
「絶対帰ってくるよ。私たちの家に」
姉さんは優しい笑顔でそう約束してくれたのだった。
※※※
「どうぞ。開いています」
私はドアをノックした人物に対してそう返していた。
「こんばんは。失礼するよ」
そう言って入ってきたのは一人の青年。
彼は巷では『勇者』などと呼ばれている人物だが、こうして実際に見ればそのいかにも屈強なイメージの二つ名とはそれほどマッチしない印象を受ける。良く言えば温厚そうな、悪く言えば気弱そうといえる容貌だった。
年齢は二十歳くらいと聞いているがそれよりもだいぶ若く見える。
「少しいいかな?」
部屋の灯に浮かぶのはいかにも彼らしい困ったような表情だ。
「大丈夫です。そちらへどうぞ」
私は空いていた椅子を勧める。といってもここは私の部屋ではない。旅の途中で立ち寄った宿の一室だ。
同部屋の女性陣は先程から連れだって部屋を出ていた。彼と二人で話す機会を作るためかもしれない。
「ああ。ありがとう」
彼は勧められるままに椅子に腰かけるとやや緊張した面持ちでこちらに目線を向けてきた。
「何の御用ですか?」
そう言ってから思わず私は驚いていた。
自分はこんなに遠回しなことを言う人間だったのかと。
旅のリーダーである彼がわざわざ自分が一人でいるときを見計らってやってきたという事実。そのタイミング。いかにも苦しそうに用件を切り出そうと悪戦苦闘している彼の様子。
それらのことから考えればその理由なんて明らかだったのだから。
むしろこちらから言えばいい。
『私はここまでですね』と。
そうすれば彼だって大変な思いをしなくてよいし、余計な手間をかけずに済むのだ。
でも何故かそれができなかった。
何度も仲間に迷惑をかけたのにこの期に及んでまだ決断できないだなんて。
私は自分の未練がましさに内心で溜息を吐いた。
その後しばらくはどちらも何も言わなかった。部屋の灯りの揺らめきだけが時間を刻んでいる。
やがて彼は諦めたかのように首を振ると、頭を掻きながら切り出した。
「だめだ。やっぱり上手い言い方が思いつかない。――簡潔に言うよ」
「そうして下さい」
想定される言葉の続きにどうしても口調が冷たくなってしまう。
いけない、とは思ったが普段から不愛想なのが幸いしたのか彼はたいして気に留めるでもなく本題に入り始めた。
「すまないけれど。君をこれ以上は連れてはいけない。理由はわかるよね?」
「……はい」
私は何とか返事をした。
たかだか『はい』というだけでこれほど苦労したのは生まれて初めてだ。
もうずいぶん前から薄々……いやかなり分厚く察していたことなのに。それが十分に合理性のある判断であることもよく理解しているのに。
彼の宣告に身体中の血が沸騰するような悔しさが襲ってくる。
歯を食いしばって彼に向かって飛び出しそうな見当違いな罵詈雑言達を呑み込んだ。
「僕たちは明日の朝一番でこの村を発つ。ソラ、君はグラスクラグへ帰るんだ」
そう言う彼の表情はいつもの温厚さをどこかへ捨ててしまったかのような厳しい真剣なものだった。過酷な戦いを超えてきた彼だからできる顔だ。
「はい」
私は俯く。
「ごめんね」
彼はそう言い残すと立ち上がり部屋から出ていく。
私はいつまでたっても顔を上げることができなかった。




