11
男は闇の中にいた。
光も音もなく、何も見えなければ聞こえもしない。
寒いのか熱いのかもわからない。それどころか自身の体の感覚すらもない。
まるで魂のみで浮遊しているようだった。
男に理解できるのは自分の中からとめどなく溢れ出てくるたった一つの感情だ。
『憎め』
『殺せ』
ひたすら男に命じてくる。
男を包む闇よりもはるかにどす黒い感情だ。
ついこの間。それとも遠い昔だったか。
男はその感情に身を委ねた事がある。
そのとき彼が感じたのはこれまで経験したことのない解放感。
自分に対して向けられる恐怖や憎悪のこめられたあの視線がたまらなく心地よかった。
それらが向けられた分だけ、自分が奴らの大切なものを破壊してやったのだと実感できたからだ。
一度は失われたかに思われた怒りや憎しみが再び自分のなかで燃え上がってきている。
それは既にあのとき以上の火勢に達している。
男に逡巡する理由はなかった。
もう一度あの快感を。もう一度、凄惨な恐怖を。
男は自分の感情に身を委ねることした。
それは彼が――その心がこの世から消滅した瞬間だった。
※※※
「ふう~~」
フローラは部屋に入るなり大きな溜息を吐く。
両手上げて体を伸ばすと「全く、肩がこっちゃうわ」などと誰に聴かせるでもない愚痴を漏らした。
そこは彼女の部屋。
といってもいつもの多義無芸ではない。テンサクス王城内にある彼女の執務室である。
怪物が街を襲って以来、彼女はその調査にかかりきりであった。しかし調査の結果はあまり芳しくない。
新たに分かった事実はあの泥棒男の過去くらいだった。
あの男の名はマルコム=ラムレイといった。
ここグラスクラグよりはかなり北方の小さな村の出身。
その村は魔獣の襲撃に会い壊滅し、マルコムの妻子もその際に死亡している。
マルコムは実際にも修道院に対して実力行使に出ているし、これらの事実にかんがみれば、彼は相当に深い恨みの感情を抱いていたと考えられる。魔王や魔獣、あるいはオプティムスやフォルトゥナといったものに対してだ。
しかしだからと言ってそれだけであのような力が使えるようになることはない。
やはりソラが見たという黒い石が事の原因と考えるべきであろう。あの石が人の精神と感応するというオムニアと同種の性質を持っていて、彼の憎しみを源にあの怪物を生み出したのだとしたら。
あの黒い石さえあれば怪物はこれからいくらでも生まれてくるということにはならないか。
魔王との戦いで晴らしようのない負の感情を抱えている人間は数多いのだ。
そこまで考えが及ぶとフローラの背筋を言いようのない怖気が走った。
彼女は軽く頭を振った。まだまだ分かっていることは少ない。結論を出すのは早すぎた。
「失礼します!」
部屋のドアが荒々しく開かれた。フローラが目をやると一人の兵士が息を切らして立っている。
「どうしたの?」
それまでの暗い想像の影響か彼女にしては珍しく険のある声色になってしまった。
「は、はい!」
兵士は元々直立不動だったその姿勢をさらに強張らせ
「先日現れたのと同種の怪物が王城北側の市街地に現れました! 現場から増援の要請が来ております!」
大声でまくし立てる。
「何ですって?」
凶報にフローラの目が見開かれた。
※※※
ナリアとフレニーは多芸無芸の詰所を訪れていた。
ナリアが詰所に忘れ物をしたというのはもちろんパルとソラを二人にするための真っ赤なウソである。
ナリアは彼らが食事をしている間、ここで時間を潰すつもりだった。
「ナリア、さっきの人、誰?」
無理やり連れてこられたフレニーは少し怒っているようだった。
「え? あの人はソラさん。あたしたちの依頼人ってとこかな」
「パルのこれ?」
そう言ってフレニーが右手の小指を立てる。
「いやあ、そう言うのじゃ別に。っていうか、フレニーの歳でそれはちょっと」
ナリアがフレニーの小指を指さした。
「手作り弁当でパルを籠絡しようとは小癪」
「どこで覚えるの、その仕草とか籠絡とか小癪とかそういうの? あたしも知らないくらいの言葉だけど」
ナリアは苦笑するしかない。
「対抗措置をとる」
フレニーはいたって真面目だ。
「対抗措置って?」
「わたしも、プレゼント、する」
「プ、プレゼント?」
その有無を言わせぬ積極性にさすがのナリアも少したじろぐ。
「そう。ナリアはパルが好きな物知らない?」
「え? そうだなあ?」
ナリアは顎に手を当て慌てて考えてみるが、中々に妙案が出てこない。
というのもパルはどちらかというと無欲な方でこれといって特別に好きなものというのがないからである。
何を食べても大体は美味しいというし、何をやってもまぁまぁ楽しめるタイプなのだ。
「趣味……好きなもの……」
釣りに農作業。そういう黙々とやり続ける行為が好きといえば好きか。
しかし、それがプレゼントにつながるか?
小さな女の子の贈り物が釣り具や農具? それはそれでおかしい気もする。
加えてフレニーはまだ幼い子供だ。買うというよりは何か作るとか、そういう物の方がよいのではないだろうか。
そう考えると益々、明確に答えるのが難しくなってくる。
「何にもないの?」
「う~ん」
「幼馴染なのに」
「うぐっ」
フレニーの言葉は意外と痛いところを突いていた。
そういえばプレゼントを渡したり渡されたりなどというイベントはこれまでこなしたことがなかったのだ。
「じゃ、じゃあちょっと商店街でも見て回ろうか? 何かいいアイディアが浮かぶかもよ?」
「うん。仕方がない」
フレニーがやむを得ないといった様子で頷いた。
「そうと決まれば膳は急ぐべき」
「わかったって」
ナリアはフレニーに背中を押されるようにして詰所のドアをくぐった。
しばらくはパルもフローラも戻らないだろう。外からしっかりとドアを施錠する。
「ごきげんよう」
二人は背後から突然に声をかけられ弾かれたように振り向いた。
言葉と口調は至極お穏やかなものであった。
ナリアやフレニーよりもずっと高貴な人が使うような聞きなれない丁寧な挨拶。
それなのに二人の体を背筋が凍りつくような寒気が襲う。
ナリアはとっさに一歩前に進みフレニーを背に庇うようにして立つと
「誰!」
と挑むような視線を相手に向けた。
「おや。怖い顔」
女性の声。
その声にはどこか二人の様子を楽しんでいるような色が含まれている。
真っ黒なマントと仮面。
一見するとふざけた格好に見えるが彼女の放つ敵意は本物だ。
まるで物理的な力でも有しているかのように二人の体にのしかかり、息苦しさすら覚えるほどだった。
「そんなに身構えないで結構ですよ。少しだけ聞いていただきたいだけですから」
その人物はそういうとゆっくりとその右手を持ち上げる。
手の平の上で黒い宝石が禍々しい光を放っていた。
「彼の思い出話を、ね」
女性はナリアを見ながら言った。
仮面越しにでも歪んだ笑顔が見える。
そんな声色だった。