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大学に退学届を出した帰り道、私は両親の墓参りに行った。自宅から墓のある寺までは、普通電車で駅5つ分離れている。あまり近くはないけど、遠くもない。通学のために買った定期券で行ける範囲だから、ちょくちょく墓参りに行っていた。だから墓も割と綺麗なままで、今日は掃除する必要もなさそうだった。
「お父さんお母さん。私ね、もうすぐそっち行けるんだって」
と報告してみたものの、もちろん返事なんて返ってこない。私はため息をついた。幽霊なんて信じてないし、信じたくもない。だから、墓に向かって話しかける自分はどうかしていると思った。酔っぱらってるのかもしれない、気分が。
帰りの電車を待つために、ホームに立つ。白線の外側に立つ癖。だけどもうこれも、意味のないことだ。
「どうせもうすぐ死んじゃうんだから」
私はあたりを見回した。楽しそうにしゃべるカップル、お年寄り、高校生、大学生。みんな楽しそうに見える。
この人たちは、私がもうすぐ死ぬってこと、知らないんだよなあ。
なんで私がこんな目に、とは思わなかった。ただ不思議だった。自分の頭の中を占領している、『私はあと6カ月で死ぬ』という事実を、他の人は全く知らないんだということが。
いつも立っている白線の外側。それよりも半歩、前に出た。
別にもういいんじゃないか。どうせ6カ月で死ぬのなら、今死んだって。
今なら飛び込める気がする。遠くの方で、踏切の鳴る音が聞こえてきた。電車がくる。後はタイミングを合わせて、一歩前に飛び出すだけでいい。それだけのこと。
『電車がホームに参ります。白線の内側…』
私は眼をつむった。電車の音が近づいてくる。あと、一歩。
その時、ふいに服の袖をひっぱられた。
引っ張られた感覚に驚いて目を開けた途端、ゴオッと音を立てて目の前を電車が通過した。ああ、飛び損ねた、これで何度目だ。
駅員に止められたんだ。そう思って振り返った。だけどそこにいたのは駅員じゃなかった。
「危ないよ」
そこにいたのは大学生くらいに見える、華奢な女の子だった。身長は私よりも小さくて、150cmちょっとだと思う。黒髪のショートヘア。黒くて大きな目。白い肌。黒いTシャツにジーパンというラフな格好。
私は思わず、見知らぬ女の子のことを上から下までじろじろと観察した。女の子はそんな私と目が合うと、にぱっと笑った。その笑顔は、まるでひまわりの様なくっきりとした力強さがあった。
「白線の内側で待ってないと、危ないよ」
私は無言で彼女の顔を見た。にこにこと笑っているその顔は作っている感じがなくて、とても自然な笑顔だった。何の歪みもないような瞳。
プシュー。電車がドアを開ける音。冷房で冷やされた車内の涼しい空気が、ホームに流れ込んだ。
私は電車に乗ることも忘れて、彼女のことを見ていた。何故か目が離せなかった。
「乗らないの?」
彼女に訊かれて、ようやく我に返り「…乗ります」と答える。乗り込むと、彼女が後ろからついてきた。座席は人で埋まっていたので、ドアの近くに立つ。窓の外を眺めていると、彼女は私の横にやってきた。ドアが閉まり、ゆっくりと景色が動き始める。
「…止めない方がよかった?」
小さな声で彼女に訊かれてぎょっとする。彼女は、私が何をするつもりだったか分かっていたらしい。まあ、だから止めたんだろうけれど。
「…別にいいです。もう」
どうせそのうち死にますから、は付け足さなかった。
「あなた、結構よくお墓参りに来てるの?」
そう訊かれて、私はまたぎょっとした。なんでそれを知ってるんだろう。と思っていたら、
「あたしは毎日来てるんだけど、あなたのことよく見かけるから」
と言われた。そうだったのか。知らなかった。
しばらく続く沈黙。彼女が窓の外を見ているのに倣って、私も外を見る。遠くの方に見える山、青い稲がキラキラと光る田んぼ、赤色のトマトが目立つ畑。何の変哲もない、夏の田舎の風景だった。
「…あなた、いくつ?」
訊いたのは、彼女の方だった。
「21です」
答えると、彼女はまたにぱっと笑った。本当に、ひまわりみたいな笑顔だと思う。屈託がない、というか。
「同い年だ。よかった。あなたがさっきから敬語を使ってくるからさ、もしかしたらあたしのが年上なのかな?いやもしも、あたしの方が年下だったらどうしようって思ってたんだ」
「そう…ですか」
「うん。だからさ、敬語はやめよ?」
彼女はこちらを見ると、白い歯を見せて笑った。
車内にアナウンスが響く。墓のある寺から2つ離れた駅に着く合図だった。電車の速度がだんだんと遅くなる。
「あたし、ここで降りるんだ」
彼女はそう言うと、自分の鞄を漁りだした。中からイチゴ味の飴玉を取り出すと、こちらに差し出した。
「あたしの名前は純。あなたは?」
「…凛」
そう言いながら、飴玉を受け取る。ちょうどいいタイミングで、ドアが開いた。
「じゃあまたね、凛」
彼女は手を振りながら、電車を降りて行った。そして電車が動き出して見えなくなるまで、彼女はずっと手を振っていた。
姿が見えなくなってから、彼女に貰った飴玉の封を開けた。赤いビー玉のようなそれを口に入れると、甘酸っぱい味が口内に広がった。
人付き合い…いや、人そのものが苦手な私だけど、何故か彼女のことは馴れ馴れしいとも鬱陶しいとも思わなかった。
それが、私と純の出会いだった。