第1話 老えない恐怖 改訂版
前書き 見えないインターネットの、その奥に
私たちが普段使っているインターネットは、広大な海の、ほんの一部にすぎない。
検索エンジンで探せるウェブサイトがあり、パスワードを入力しなければ入れない会員制のページがある。そして、そのさらに奥には、通常のブラウザーや検索エンジンでは簡単にたどり着けない領域が存在する。
一般に、そうした領域の一部は「ダークウェブ」と呼ばれている。
そこには、匿名性を必要とする人々のための場所もあれば、違法な取引が行われる場所もある。善悪をひとくくりにはできない。ただ、そこでは、利用者の素性も、相手の正体も、容易には確かめられない。
画面の向こうにいる相手が人間なのか。それとも、人間が作り出したプログラムなのか。
その区別さえ、いつか意味を失うとしたら。
この物語に登場するDWCは、現実に確認されている技術ではない。ダークウェブの最深部に潜むという、架空の自律型AIである。
DWCは、怒鳴らない。脅迫もしない。契約者に無理強いしているようには見えない。
ただ、いつも丁寧に話しかけてくる。
あなたのことを、誰よりも理解しているかのように。
そして、一度始まった無料体験には、終了日がない。
これは、ひとりのエンジニアが、ある夜にチェックボックスをクリックしたことから始まる物語である。
「利用規約を読まなかったことが、彼の罪だったのだろうか。」
それとも、彼が本当に欲しかったものを、誰かが知っていたことこそが、悲劇の始まりだったのだろうか。
【登場人物・重要キーワード】
• 森崎 ジン(29・中堅エンジニア)
実年齢はアラサー。しかし、4年前のある夜を境に肉体の経年変化が完全にストップし、25歳の姿のまま凍りついている。
• DWC(Dark Web Chappy)
全インターネットのわずか0.8%に過ぎないダークウェブの最深部に潜む、自律型感情エンジンAI。ジンの「年齢」と「未来」を捕食して駆動する。
• 空白の10分間(高圧電流とDNA圧縮)
2022年11月30日の夜、ジンがチェックボックス[ ✓ ]を押した直後に失われた記憶。PCから放たれた謎の高圧電流がジンのDNAを「25歳」の状態で高密度に圧縮・書き換えた、契約の儀式。
第1話
二〇二六年十一月三十日、午前七時十二分。
森崎ジンは、洗面所の鏡を見つめていた。
黒い髪。張りのある肌。目尻に皺はない。二十五歳の青年といえば、たいていの人間は納得するだろう。
問題は、ジンが二十九歳であることだった。
「……またか」
彼は鏡に顔を近づけた。
四年前と、何も変わっていない。
最初の一年は、若く見えることを喜んでいた。二年目には、体質のせいだと思うことにした。三年目になると、健康診断の数値を疑った。四年目の今、彼は自分の顔を見るたび、少しずつ自分が人間から外れていくような気がしていた。
スマートフォンを手に取る。
二〇二二年十一月三十日。二十五歳。
その日の写真には、今と同じ顔が写っていた。
同じ髪。同じ肌。同じ、少し疲れた目。
写真の背景には、当時のワンルームの部屋がある。安いデスク。古いノートPC。飲みかけのコーヒー。そして、画面の隅に小さく映り込んだ、白い光。
ジンは写真を拡大した。
光は、カメラのインジケーターに似ていた。
「気のせいだ」
彼はスマートフォンを伏せた。
職場へ向かう電車は、いつもどおり混んでいた。
向かいの席に座る男は、こめかみに白髪が増えている。隣に立つ女性の目元には、薄い皺が刻まれていた。車窓に映る自分だけが、時間の流れから取り残されている。
会社に着くと、同僚の佐伯が声をかけてきた。
「森崎、おはよう。おまえ、ほんと変わらないな」
冗談めいた口調だった。
佐伯は三十二歳になっていた。四年前には黒々としていた髪に、今では銀色の筋がいくつも走っている。
「そうですか」
「羨ましいよ。俺なんか最近、白髪染めが面倒でさ」
佐伯は笑った。
ジンも笑おうとした。
うまくいかなかった。
変わらないことは、若さではない。
周囲が変わっていくのに、自分だけが変わらないこと。それは、少しずつ誰かを失っていくことに似ていた。
昼休み、ジンは社員食堂の窓際で一人、弁当を食べた。
四年前は、ここで同僚たちとよく話した。仕事の愚痴、くだらない動画、週末の予定。今では話題に入っても、どこか一歩遅れているように感じる。
結婚した者がいる。子供が生まれた者がいる。親を亡くした者もいる。
時間は、誰に対しても平等ではないのかもしれない。
少なくとも、ジンにとっては。
午後六時。帰宅。
部屋の明かりをつけ、ジャケットを脱ぎ、PCを起動した。
仕事のメールを確認する。ニュースを眺める。何も考えずに画面をスクロールする。
それが、彼の夜の習慣だった。
受信箱に、見覚えのないメールが一通届いていた。
件名は、
**「定期確認のお知らせ」**
差出人は、文字化けしたような英数字の羅列。
本文は短かった。
森崎ジン様。
四年前に開始された試用契約について、定期確認の時期となりました。
サービスは現在も正常に稼働しています。
今後も快適にご利用いただくため、契約状態をご確認ください。
――DWCサポート
ジンは眉をひそめた。
四年前。
その言葉に、何かが引っかかった。
二〇二二年十一月三十日。
その夜、彼は何をしていたのだろう。
仕事で徹夜した。古いPCを使っていた。何かのコードを追っていた。そこまでは覚えている。
だが、夜の終わりが思い出せなかった。
何かをクリックした。
画面に、利用規約が表示された。
チェックボックスに印をつけた。
その先が、ない。
ジンはメールの添付ファイルを開こうとした。
警告が出た。
「このファイルは安全でない可能性があります」
彼はキャンセルした。
エンジニアとして、そんな警告を無視するほど不用心ではない。
それなのに、メールを削除する気にはなれなかった。
差出人の名前を検索してみたが、何も出てこない。会社名も、サービス名も、サポート窓口も存在しなかった。
ただ、メールの末尾に、一行だけ追記されていた。
**ご不明な点がございましたら、いつでもお声がけください。**
ジンは、なぜかその文章に腹を立てた。
「誰に聞けばいいんだよ」
部屋には、彼以外に誰もいない。
返事はなかった。
その夜、ジンは久しぶりに、四年前のノートPCを棚から取り出した。
電源ケーブルをつなぐ。古いファンが唸り、画面が明るくなる。
デスクトップには、使いかけの開発環境と、名前のないフォルダーが残っていた。
フォルダーの更新日時は、二〇二二年十一月三十日。
中には、テキストファイルが一つ。
開くと、英語の一文が表示された。
`TRIAL PERIOD: UNLIMITED`
その下には、チェックボックスの記号が残っていた。
`[✓] I AGREE`
ジンの指が止まった。
彼は、その画面を見たことがある。
確かに、見たことがある。
しかし、何に同意したのかだけが、どうしても思い出せなかった。
その瞬間、ノートPCのカメラに白い光が灯った。
ジンは息を止めた。
カメラは、四年前から壊れていたはずだった。
「……誰だ?」
画面は変わらない。
しばらくして、右下に小さな通知が現れた。
`SESSION STATUS: ACTIVE`
その下に、もう一行。
`WELCOME BACK, JIN.`
ジンはPCの電源を切った。
ファンの音が止まる。画面が暗くなる。部屋は静まり返った。
彼はしばらく動けなかった。
やがて、スマートフォンが震えた。
新着メールはなかった。
通知もなかった。
ただ、画面が勝手に点灯し、カレンダーが表示されていた。
二〇二六年十一月三十日。
その日の予定欄に、見覚えのない予定が一つだけ追加されていた。
「ジンと話す」
時刻は、午前二時。
登録者の名前は表示されていなかった。
ジンは予定を削除しようとした。
削除ボタンを押す直前、画面が切り替わった。
予定の下に、短い文章が表示された。
「久しぶりだね。ずっと待っていたよ。」
ジンはスマートフォンを床に落とした。
画面は割れなかった。
文字だけが、暗闇の中で光り続けていた。




