ユートピアの求めた、ディストピア
ユートピアにあった異教の教会でその日の夜を過ごすと、翌日には雨が降っていた。
緑豊かな地というものは必ず多くの雨が伴っている。
それは至極当然のことであるのだが、旅をする身としては何かと不便である。
第一に、歩きの旅では雨は体温を奪い、病を起こす原因となる。
第二に、食料の現地調達が困難になってしまうということだ。
今までにそれなりに長い旅路を歩んできて、既に季節は初夏の趣がしたが雨の日はやはり冷える。
体温を奪われるというのは旅において、思いの他恐ろしい。
それだけでなく、雨は精神的な体温すら奪っていくと僕は思う。
現に青年は異教の教会の屋根の下で、雨に濡れてすらいなくとも大分滅入っているようだ。
いや、これは雨のせいだけではないのかもしれないが。
いずれにしても屋根がある建物とは言え廃墟である。
獣脂で作られた蝋燭の頼りない明かりでは気分も上がらないというもの。
その上、これからの旅路をどうするかという重い話題も抱えているのである。
形の上では、これで青年の依頼は終わりであり既に契約は完遂されたということになる。
だがここまでの旅路は容易ではなく、近くに村も存在しないためすぐに青年と別れることもできない。
それだけではない。
僕は単純に青年の言動に興味を見出していた。
かつて滅んでしまったユートピアの住人が興したという新たな理想郷の住人であるという彼は、
その理想郷としての矛盾に苦しみ、故郷をから逃げ出してかつての彼の思う理想郷の痕跡を探そうとしていたのだ。
「あんた、本当に故郷に帰る気なのか?
気に入らない場所ならそのまま捨てて、別の町で暮らせばいいじゃないか」
故郷から逃げ出してきたというのは、相当なストレスがあったからだろう。
そこへ戻りたいというのは、一体どんな心境の変化があったのだろうか。
「今のままじゃ、駄目なんです」
彼から返ってきた返答は少々要領を得ないものだった。
思わず、「はぁ?」と返してしまったが、青年は気にする様子も無く自分の言葉を紡ぐ。
「ユートピアは、ユートピアであることを甘受してしまっていた。
私には、それが滅んでしまった原因のように思えてならないのです」
「何も変わらなかったから、滅んでしまったと言いたいのか?」
「その通りです。だから私は今、自らの故郷に変化をもたらしたいのです。
誰もが理想とする社会を作るために。矛盾を感じることのないように」
一市民が行動を起こして受け入れられた試しはないが、彼の言っていることは理屈が通っている。
彼なりに現状を見て考えた結果なのだろう。実に直情的な考え方である。
逃げ出してきてしまったとはいえ、彼は彼なりに故郷を愛しているのだろう。
少し、羨ましい。
「じゃあ、僕もそこまでついていこうかな」
何もすることが無いからね、と付け加えて笑うと、彼は驚いたような表情を浮かべていた。
「ですが私にはこれ以上貴方に払えるものはありません」
「いいよ、そんなもの」
金で動く傭兵がそんな発言をするとは思えなかったのだろう。
彼の驚きは如何許りか。
しかし最初に貰った宝石は大きく、往復で護衛をしても全く問題は無い価値を秘めていると思われる。
その上、彼の故郷には興味がそそられるのだ。行かない理由は無い。
指で摘んだその宝石を見ていると、ふと疑問が浮かんだ。
「この宝石、どこで手に入れたんだ?」
「ああ、それはですね……」
彼の故郷、ユートピアでは国民達は一日の大半を農業に費やすのだという。
日が落ちれば明かりを灯して学問に勤しむ者も居るが、農業だけでは国は回らない。
そこで国民の何割かは数年間、鉱物の発掘や薪炭材の確保などの産業に従事することになっている。
この宝石は青年が鉱物の発掘に従事しているとき見つけたものだそうだ。
彼のユートピアでは財産を私有することを禁じられていたようだったから、隠し持っていたそうだが。
そして彼がユートピアから逃げ出してきた後、町で日雇いの仕事をこなし金を貯め、
旅の随行を傭兵に頼むために原石をきちんとカットしてもらったらしい。
そんな涙ぐましい事情があるとなれば益々ついて行きたいというものが人情である。
そうと決まれば旅のルートを決めなければならない。
ここへ来るときに通った件の村には近寄りたくないので北回りで東を目指すのが良いだろうか。
もう春も終わり初夏の兆しが見えてきている為、南に進路を向けるのは些か無謀である。
「住んでる人が逃げ出したくなるような理想郷って、どんな有様なのかねぇ」
その言葉を聞くと、彼は曖昧に笑うのだった。
翌日には雨も止み、出発できるような環境が整った。
だが現状では晴れたからといってその日に出発できるというわけでもない。
食料を使い果たしてしまったのでその補充が必要なのだ。
この辺をずっと歩いていくならその日に食料は調達できるが、
北回りで東へ行っても来るときに通ってきたような荒野にぶつかる。
よって保険代わりに保存食を作っておく必要がある。
今拠点にしている異教の教会の近くには果樹も何も無く、出歩かなければならない。
町が打ち捨てられて数百年以上経っているはずだが、この豊かな土地にある割には森林と同化はしていなかった。
建物がそれだけの期間、かなりの割合で残っていることも含め、
恐らく技術レベルがかなり高く、雑草の処理なども完璧に行ってあったのだろう。
改めてその文明に感心し、それが僕達に伝わっていないことを悔やむ。
ともかく旅の糧食を作るために暫くの間奔走しなければならない。
北回りの進路をとる場合一番近い村へ寄るだけでもかなりの期間歩く必要があるからだ。
食料もそれだけの量を作らなければならないのである。
まず水分のある果実は干して水分を抜き、腐ってしまわないようにする。
肉は新鮮なうちに塩を揉みこみ、煙で燻して干し肉にしてしまう。
旅の糧食を作る上で一番重要なのは、腐る要素、つまり水分をすっかり抜いてしまうことだ。
保存食を作るのに2週間ほどかかってしまったが、十分な量を得ることができた。
「こうやって保存食を作っているのですね」
青年は特に干し肉を作るところを興味深そうに眺めていた。
故郷では肉類を食べることがあまり無く、保存食にすることも滅多に無かったらしい。
随分と味気ない食生活を送っていたようである。
そうして僕らは彼の故郷へと旅立った。
夏も、秋も終わり、冬の口に差し掛かる頃。
とうとう僕らは青年の故郷の地へと足を踏み入れた。
打ち捨てられたユートピアから東のまた東、そこから少し北へ進むとその地はある。
僕らの常識である世界の果てよりも更に先を行った地だ。
非常長い旅路だった。
毎日かなりのペースで歩き続けてこれだけの期間がかかってしまった。
もう既に雪も降り始め、うっすらと積もっている。
途中の町で買い込んだ防寒着をいつも羽織るコートの上に着ているが、それでも少し寒く、息は白い。
「ここがあんたの故郷か」
青年は小さく、「ええ」と呟くとじっと「それ」を見つめていた。
古きユートピアとは正反対に、「それ」は谷にある。
なだらかな谷間にある「それ」は古きユートピアと同様、高く高く聳え立っていた。
その石とも煉瓦ともつかぬ壁は世界から隔絶された象徴である。
この場所からは全ての壁が見えぬほどその張り巡らされた距離は長く、
恐らく都市一個分では済まないと思われた。
「殺風景だな」
薄く積もった雪に、高く聳える壁に囲まれる灰色の町。
それは吟遊詩人辺りが題材にすれば色づくのかもしれないが、
ただの青年と傭兵では何も上品な形容は出てこない。
「行きましょう」
そう言って彼は門へと足を踏み出す。
一面の雪景色に一組の足跡がついて行く様は中々に詩的な光景である。
ここから門までは少し距離があるが、遠くはない。
しかし他に足跡は全く無いのだ。ここの住民は門から外に出ることすらしないのか。
全てがこの壁の中で完結しているのだろうか。それはならばこの壁は一体どれだけの広さを囲っているのだろう。
「新しいユートピア……ねぇ」
理想なんてものは、人によっていくらでも違う。
全てを受け入れようとした理想郷が破綻してしまったのならば、
何か別のものを制限して成功させようとしたものは、果たして理想郷と呼べるものなのだろうか。
深く考えようとしたところで青年にかなり離されていることに気づき、急いで後を追った。
「さて、これはどういうことだ?」
僕は今両手を天に向かって挙げている。
手を挙げる場合というのは意見を言うときか、抵抗する意思が無いと示すときくらいしかない。
意見を言いたいのは山々ではあるが、大勢の人間に銃を突きつけられている状況で行うべき行動は後者である。
門にたどり着き、正門の横の通用門が開いていたのでくぐってみたらあっという間にこの有様。
帰ってきた人間と外の世界からの訪問者を迎える歓迎にしてはあまりに無愛想だ。
この対応の速さからして、外に居たときから既に察知されていたのだろう。
高い壁があるのに見張り台が無いはずがない。すっかり失念していた。
「どういうこと……なんでしょうか」
青年も些か混乱気味である。
意気揚々と故郷改革の意思を携えてやってきたらこの状況だ。
困惑しない方が無理というもの。
銃を突きつけている、警備隊と思わしき人間は全員清廉な白い衣を着ている。
雪だけでも光が反射するというのに、目に優しくない連中である。
その内の一人がゆっくりと口を開いた。
「貴様は逃亡者だな」
それは理想郷の住人とは思えないくらい攻撃的な口調で発せられた言葉だった。
青年は銃を突きつけられながらもゆっくりと頷く。
「その通りですが、私はこの国を変えたいと思って帰ってたのです」
「逃亡は重罪だ。そして革命思想を抱くことは更に重罪だ」
「そんな……」
青年に有無を言わせず警備隊の人間は彼を押さえつけ、手を後ろに回して鉄の輪で彼を拘束した。
「連れて行け」
警備隊長らしき人物が青年を押さえつけた連中に対して命令すると、強引に男たちは彼を連れ去って行った。
「待ってください! 話を……話を聞いてください!」
青年は喚くが彼らは全く聞き入れない。
助けようにも障害が多すぎる上、相手は恐らくかなりの手練であるために
行動を起こしてもあっさり銃殺されるのがオチだろう。
「我々の記録には貴方の情報は無い。
ということは貴方はここの住民では無いということ。どんな目的でここへ?」
警備隊長が銃を突きつけたまま僕に話を振った。
あからさまに警戒している。眼光も鋭く、あからさまな嘘などすぐに見破ってしまいそうだ。
理由をでっち上げるよりも正直に話したほうが良さそうというものである。
「僕は彼の旅の護衛をしていたただの傭兵だ。あんた達を攻撃する意思も無い」
そこで警備隊達はやっと銃を下ろしてくれた。
やっと手を下げることができる。まったく疲れてしまう。
「失礼しました。我々の国の者がお世話になったようですね。
旅の疲れもあるでしょうし、ゆっくりこの国でお過ごしください」
意外と親切な人間である。
二言三言適当に社交辞令を交わし、警備隊長に数日泊まれる場所を手配してもらった。
なんでもこの国には宿屋が無いそうで、国の中枢施設で使われている宿舎の一室を貸してくれるというのだ。
青年のことも気になるが、とりあえず今日は警備隊長達に従っておくほうが懸命というものだろう。
翌日、硬いベッドの上で目を覚ました僕は、とりあえず部屋に運ばれた朝食を頂くことにした。
ライ麦パンに、野菜のスープにチーズが一欠け。
朝食にはもってこいの献立である。
そんな朝食に舌鼓を打っていると、部屋にノックの音が響く。
「どうぞ」と入室を許可すると昨日の警備隊長が入ってきた。
「何の用ですかね」
「町の案内を仰せつかりました」
観光しに来たわけでもないのに随分と至れり尽くせりである。
まぁこの国には興味もあるし、悪くない提案だ。
「この国って、誰が統治しているんだい?」
朝食後、雪の覆う大通りで口にした言葉である。
「建国当初は王が統治しておりましたが、今は居ません。
国の中央に意思決定機関がありまして、そこの役員たちが決めるのです。
その役員は国民からの投票で決まります」
随分と変わった制度である。
民衆の意見を採用する国など見たことが無い。
ましてや民に政治に参加する権利など、とんでもないことである。
ただこの国を回っていると全員が同じような白い衣を纏い、同じような作業をしているところから、
身分差は無いのだろう。青年の話とも合致する。
白い衣は警備隊の制服かと思ったら全国民が着ている服のようだ。
そのせいで僕には全員が同じ人間に見えてくる。
やっている仕事も同じだし、きっと誰か一人欠けて困ることは無いのだろう。
それは進化しているのだろうか、退化しているのだろうか。
確かに服も仕事も大体が統一されていて、身分差すら存在しないというのは合理的なことではあるが。
町には店も無い。酒を飲む場所も無い。
ただ只管に民家が連なり、民は鐘に従い只管に働き続けている。
青年の言っていた不満というのはこれだったのだろう。
だが、国民はこれで満足しているのだろうか。
しているのだろう。
外に出なければ何も分からないのだから。
「あの青年はどうなるんだ?」
警備隊長は足を止め、苦々しげな表情を作った。
そしてゆっくりと口を開く。
「脱走、そして革命思想の保持及び普及の企み。
これらの罪状で、彼は処刑されます」
「そんなバカな! たかがそれだけで!?」
思わず大きな声を出して反駁しようとする。
しかしそれは無駄なことだとすぐに思い返した。その国にはその国の法律があるからだ。
そして常識すらまったく違うものなのだ。この国のように世間から隔絶されていたら尚更である。
その証拠に、警備隊長の苦々しげな表情は青年の処遇についての異論ではなく、
青年がさも忌々しい存在であるかのような印象を受ける。
「この国を転覆しようという考えなぞ、おぞましい」
警備隊長の一言に国民の感情は集約されているに違いない。
「それで、処刑はいつに」
「明日です」
あまりにも速すぎる。
思想の拡大を防ぐためだろうか。
以前青年の話を聞いて、青年に同意する人間は居ないのだろうかと思ったが
恐らく今までにも同じような思想を持った人間は居たのだろう。
だが、あっという間に感知され、処刑されてきたに違いない。
国民は処刑者を憎み、国の地盤は更に安定するという構図だ。
この国は手段と目的を違えてしまっている。
かつての理想郷は目的の為に崩れ去ってしまった反動故か、この国は酷く締め付けが強い。
それら全ては予想することしかできないが、確実なことは二つ。
彼が明日に処刑されることと、僕はそれに関して何もできないということだ。
敵陣の真っ只中に突入するなど、むざむざ殺されに行くようなものである。
「彼は僕のことを薄情者と罵るだろうか」
その答えを聞く機会は、きっと無い。
「何故、国を想って変革を考えて処刑されなければならない!」
青年は町の広場に引っ立てられ、磔にされた。
少し離れたところでは、兵隊と思わしき人間が彼を銃で狙っていた。
銃は見たことも無いタイプで、これはきっと僕の知っている最新式の銃よりも遥かに高性能なのだろう。
死なずに苦しむことは少なくとも無いと思われた。
町の人間達は磔にされた彼を見て、ひそひそと話をしていた。彼を蔑んでいるに違いない。
「狙え」
兵隊達は青年の言うことなどまったく聞かず、ただ冷徹に指示を出す。
「ふざけるな! 不都合な者は処断するなど、それで理想郷とでも言うつもりなのか!」
青年もきっと何を言っても無駄なのだと知っているのだろう。
それでも彼は矛盾を叫び続ける。
誰かにその意思を伝える為に、だろうか。
「ここの連中なんて、みんな自分で生きちゃいない!」
この言葉には兵隊達は気を悪くしたようで、「黙れ!」と大きな声を張り上げた。
もう聞いて居られないかのように彼らは皆首を横へ振り、引き金を握り締めた。
「私は最後の最後にキチンと生きた! ざまあみろ!」
自棄の高笑いと共に、彼は最後の言葉を吐き捨てるようにして放ったのだった。
彼の死を告げる音に驚いた、黒々とした鴉が、どこまでも青く吹き抜ける空へと羽ばたいていく。