かつて、ここにはユートピアがあった
地図の端っこの村を脱出してから五日ほど、歩きに歩いて、やっと一つの村に到着することができた。
地図に載っていない村というのも妙な話だが、大方あの村にでも搾取されているのだろう。
その事実を隠蔽するために搾取されている村の存在を無かったことにしてしまうのだ。
これは測量者に賄賂を渡せば簡単に実現できることで、要は旅人を襲って隠蔽しているのとほぼ同じ仕組みである。
測量をする者はその大変な仕事内容と裏腹に、薄給であるという。断る道理もないだろう。
案の定、村は酷い寒村であった。
農地は広く取ってあるが、農村独特の平和な雰囲気は無く、日は昇っているのに薄暗く感じた。
どうにも、食料を購入できそうな村ではない。情報収集だけにしておこう。
村の大通りにすら人は閑散としていて、人を見つけるだけでも苦労する。
青年はその光景が不思議に思えたのか、ひたすらに首を動かしていた。
「随分と人が居ませんね……」
予想した村の内情を青年に言ってみると、青年は、「許せない!」と鼻息荒く憤慨した。
「辺境の農村じゃあどこもやってることだよ」と言ってみたが彼を押しとどめるには些か言葉が足りなかったようだ。
早速村人の一人に駆け寄って行く。事情でも聞くつもりだろうか。
情に熱いのは結構だが、早合点されても非常に困る。
とりあえず青年を黙らせて、青年が話しかけようとした村人に話しかけてみることにした。
「ちょっといいですかね」
中年の男は辛そうに顔を上げると、こちらの顔を覗き込んできた。
頬がこけ、疲れが顔に出ている。それは老人の顔にも見えた。
「なんの用だ。言っておくが、食べ物なら無いぞ。金を積まれてもやらん」
旅人の用は大抵が食べ物であるからか、中年の男は手を払って顔を背けた。
露骨に嫌な顔をされるとこちらも嫌な顔をしたくなる。
皮肉を言いたい気持ちをなんとか我慢して尋ねることにした。
「ここから西に行くと、村はあるんでしょうか」
男は溜息を一つついて、呆れた様な顔をしていた。
「何も無いさ。ここは世界の西の果てで、これ以上西に行っても本当に何も無い。
あったとしても崖か、化け物くらいだろう」
世界の果てには崖があって、その下には化け物が巣食っているというのは一般的な常識だ。
しかし僕にはそれがどうにも信用できない。何しろこの村から西を見渡しても、広大な大地が広がっているからだ。
こんなことは教会の連中の耳に入ったら途端に火刑であるから、村の教会に言われないように黙って同意をして話をそこで切った。
食料にはまだ多少の余裕がある。補給はできなくてもなんとかなりそうだ。
話が終わると、急に青年は僕の背後から飛び出してきた。
「すみません、もうひとつ聞いてもいいですか」
そうして僕が予想したことを男に吹き込むのである。しかもかなりの剣幕で、だ。
そして男は、力なく頷いた。頷かされたと言うべきか。
青年はそれを見るや否や、こちらを見つめはじめる。
なんとかしてやりたい、ということだろうか。しかしそれは無茶な相談というものだ。
「すみませんね。面倒な部分をつついちゃって」
男に謝罪の言葉をかけ、村の出口へと急ぐ。
青年は納得していない様子を見せていたが、無理矢理連れて行く。
「どうして何もしてあげないんですか!」
村の出口で青年は僕に向かって怒鳴った。
その瞳には紛れも無い怒りが込められており、正義感の強さが伺える。
「何もできないんだよ。僕たちにはね」
わざと高圧的に言うと、青年は少し勢いを挫かれたのか、「ですがさ……」と言って俯いた。
「村を敵に回して、僕が一人で全員を相手できるとでも思うか?」
一人でできることは高々知れている。
いくら熟練した傭兵だろうと、数の暴力には呆気なく負けるからだ。
「それでも、あの村の連中に殺されかけたこととかを教会に言ってみたりとか、やれることはあるでしょう!?」
「無駄だよ。教会も一枚噛んでるに決まっているさ。あれだけの悪事を教会に内緒で行えるわけがないだろう?」
「そんな……」
「恐らく、この村の教会と向こうの教会は繋がっているだろう。長居は無用だ」
背を向けて歩き出すと、青年は渋々それに従う様子を見せた。
この地方は中央からあまり省みられることも無いため、領主も居ない。
状況の改善は望めず、ゆっくりと腐っていくだけだろう、ということは伝えなかった。
そして、一連の発端は教会の腐った連中に扇動されたということも考えることもできる。
神の名の下に。
この一言があるだけで罪の意識はできず、また実際に罪になることも無い。
人間の欲がために唱えられる神の名は、果たして何か意味を持つのだろうか。
それから数週間、かなりのペースで歩き続けたが、世界の果てと言えそうなものは何一つ無かった。
荒野から、段々と木が生い茂る密林へと進んでいく。
そして崖どころか、大きな山脈に出くわしたくらいである。
「……ここの山を登ってください。ここの山に、ユートピアはあるはずです」
青年は口を固く結んで、真剣な表情をしていた。
何らかの確信を得ているのだろうか。
だが連日の疲れもあり、登る前に一晩休むことにした。
食料はもう尽きてしまったが、この辺りは木が生い茂っているだけあって果実が十分に取れる。
動物もかなり居るようで、肉類に困ることも無さそうだ。
その上、香辛料も採れる。呆れるほどの豊かさである。
「随分と、この辺は豊かな土地だなぁ」
呟くようにした出た言葉に青年は頷いていた。
見たこともない、思いつめたような表情をしている。
それを横目で見ながら、僕は旅の初めに青年の語った言葉を反芻していた。
「西の果て、豊かな土地にユートピアはあるという話です」
青年が過去に語った言葉と鑑みても、かなり信用のおける話である。
それにしても青年はどうしてユートピアを見たがるのだろうか。
ここに至るまで結局彼はまったくその話には触れることはなかった。
「最も、ユートピアが現存しているかなんてわからないけどね」
ふと軽く冗談を飛ばしてみたが、青年は何も言わなかった。
不気味なほど静かに、夜は更けていく。
朝日が昇りきった直後、昨日狩った小動物の残りを食べて朝食を済ませた僕たちは、山を見上げていた。
そこそこ急な坂が続く山であり、登るのはそれなりに苦労するだろうと思われた。
その上地面が湿っているから、腐りかけの葉っぱで足を滑らせることに注意を払う必要もあるだろう。
「本当に登るのか?」
念の為、彼に確認を取った。
これ以上西に進むにしても山は越えなければならないから、不必要な確認ではあったが。
「行きましょう」
喉をごくりと鳴らして、青年は坂道を突き進む。
山を歩くにしては大分速い足取りである。遅れないようについていく。
ユートピアがあると青年は確信していても、当ての無い山道をひたすら歩き回るというのは疲労を蓄積する。
足を壊すと山歩きには致命的なので、探検は常に早めに切り上げるようにした。
それから数日間、まったくと言っていいほど何の手がかりも得られなかった。
疲れた足に鞭打って捜索をするが何も無く、もう少し山を登って捜索範囲を広げてみることにした。
ある日、坂道と格闘することに疲れた僕らは少し休むことに決めた。
僕が何気なく切り株に座っていた。
「あっ!」
青年は叫ぶ。僕は一瞬何故青年が叫んだのかわからなかったが、すぐに理解した。
切り株は自然にできるケースは少ない。大概は人が木を伐採した後にできるものである。
切り口はとても古く、新たな木が横から既に生えていたが人の居た手がかりだけは得ることができた。
木を運ぶのはそりなどの道具を使っても辛いものである。
恐らく、そう遠くない場所には集落があるだろう。それは未だに人が居るかはわからないが。
よく目を凝らしてみると、人が往来していたような跡がある。
それは最早腐葉土に埋もれて隠れてしまったようにも見えるが、確かに道の跡のようなものはあるのだ。
道の跡のようなものと、そうでないものを分けるのは困難を極めたが、なんとか辿っていくことはできた。
青年は慎重な面持ちでこちらを見つめている。期待と、不安が半々ほど混ざった顔だ。
二人して夢中になっていたら、いつの間にか日は暮れてしまっていた。
今夜は新月で、辺りは完全な闇に包まれている。
それでも青年は逸る気持ちを抑えきれず、松明を作って渡した途端、それを持って、
地べたに顔をくっつけそうになってまで道を探すことに終始していた。
僕はそんな青年をサポートするため、松明を高く掲げていた。
夜も深くなり、虫の声さえしなくなった時、唐突にそれは現れた。
突如、青年が「痛っ!」という声を上げたのだ。
初めは虫に刺されたか木にでも引っかかったのかと思ったが、それは違った。
ぶつかったのである。
僕らの目の前には、いつのまにか大きな高い壁が立ち尽くしていた。
それは松明を掲げても窺い知れぬほどの高さを持って聳えている。
青年の言葉を待たずとも、この存在は何かはわかる。町の外壁だ。
そして、煉瓦造りでも石造りでもない、未知の素材で出来ている。
「ここに違いありません。この壁の内側にあるのがユートピアです!」
興奮した調子で彼は叫ぶ。
壁の内側に入り込むことはできないかと手段を模索してみたが、壁は高くよじ登れるような高さではない。
「壁伝いに歩いてみよう。入り口がどこかにあるかもしれないから」
そのように提案すると、青年は壁伝いに歩き始めた。
足を滑らせはしないかと心配したくなるほどの早歩きである。
夜も深く、かなり危ないが止められそうにもない。
どうやらこの壁は相当な範囲に渡って張り巡らされているらしく、入り口らしき場所はどこにも見当たらない。
それでも意気揚々と進む青年の後姿にふと、一抹の不安を覚えた。
ついに、朝日が昇る時刻となった。
最早松明を持つ必要は無くなり、壁の先まで見渡すことができる。
そして一画だけ、壁の無い区間がここからでも見える。
それを確認するや否や、青年は走り出した。
火の付いた松明をそのまま捨てて走り出したので山火事にならないよう僕が足で揉み消し、急いで僕もその後を追う。
壁の無い一画から覗いた町の全景。
それは、全てが風化しかけた、滅んだ町跡だった。
崩れかけの家があちこちに見られ、東側の崩落した町壁から朝日が覗く。
「ここが、ユートピア……」
「だった、ものだろうね」
発見を感動しているからなのか、滅んだユートピアを見て失望しているからなのかはわからない。
彼は膝をつき、涙を流していた。
そして、小さく呟くように語り始めた
それはユートピアの王国譚。
かつて、最も自由で、最も先進的な国が存在した。
そこでは信仰の自由が許され、かつ宗教に関していかなる制限も受けることはなかったという。
近くの鉱山で金が採掘されることで国は潤い、肥沃な大地によって最も神の恵みを受けていたと言われていた。
国民は自由を与えられ、好きな職業に就くことが許された。国民には税金すら課せられなかったという。
自由の風潮は自由な研究を許し、技術は止まることなく発展した。
しかし、遅くなく破綻の時は来る。
私腹を肥やした一部の国民は貧しい者を従え、政権を寄越せと王に迫る。
王には軍事力も、そして大きな権力も無く、暴走を止めることはできなかった。
また別の者たちは暴動を起こし、好き勝手に振舞う。
貧富の差は拡大し、最下級の飢えた貧民達は死体を貪るしかないという有様。
そうした内部の者たちによって、理想郷とまで言われたその国はあっという間に滅んでしまったのだ。
王はそれを深く反省し、残り少ない住民たちと新天地を求めて東に旅立った。
そして、真に彼らにとっての本当の理想郷を立ち上げたのである。
過大な自由を国民に与えると、それはいつか暴走を始める。
貧富の差は常に民衆の不満の元となってきた。
そして宗教はつまらぬ諍いをいつも起こす。
彼らはそれら腐敗の元凶を全て撤廃し、徹底的な平等社会を築いたのだという。
「これが、我々に伝わっているユートピアの伝承です」
実に驚いた。
貴族の末弟辺りの趣味だろうと思っていたが、こうも複雑な事情があるとは。
妙に旅慣れしていて、尚且つ世間ズレしているのはそのせいだろう。
「あんたの話を聞いて、あんたが新しく作られた方のユートピアの住民だってことはわかる。
だけど、一つ聞かせてくれないか」
「……なんですか?」
「なんで、滅んだはずのユートピアなんて見たかったんだ?」
彼は、護衛を雇える可能性は少なかったはずだ。
そもそもユートピアという御伽噺に付き合う人間というのは、余程の物好きである。
多大なリスクを冒してまで滅んだ場所に行く意味なんてものは無いに等しい。
「認めたくなかったのかもしれません。ユートピアが滅んでしまったということを」
「なんでだ?あんた、今のユートピアが気に入らないのか?」
「我々の国では、徹底した合理的な社会が築かれています。
皆は勤勉に労働に勤しみ、財産を私有することは禁止される……それは、正しいのかもしれません。
けれど、そこに個人という枠組みは存在しないのです。
私には、あそこが新しい理想郷と名乗る矛盾に耐え切れなかったのです」
そう言い切った青年の顔は真剣で、とても精悍な顔つきをしていたように思う。
成る程、彼が妙に理不尽に対して怒りを露にしていたのはその鋭い感性が原因というわけか。
彼の住んでいた国の形というのは、貧困に飢える人間にとっては正に理想的なのだろう。
貧富の差というのは長い歴史を見ても、常に国の運営には付きまとう問題でもある。
人間を画一化し、全てを平等に、合理的に動かす。
理論上では理想郷なのだろう。傍目には理想郷に見えるのだろう。
だが、あまりに味気の無い話ではないか。
「じゃあ滅んだユートピアを見たあんたは、これからどうするんだい?」
それを聞いた青年は困ったように笑いながら、言葉を捻り出した。
「私は、自分の国へ帰ります。それしかないんです。
誰もが笑えるユートピアは、どこにも無かったのだと痛感させられましたから」
その時、完全に昇った朝日によって僕の目にはあるものが飛び込んできた。
なあんだ、あるじゃないか。
「そうでもないんじゃないか。そこを見てみなよ」
僕が指差した方向に青年は首を向けるが、それが何なのかはわからないようだ。
その光景のあまりの現実感の無さに、僕はひたすらおかしかった。
「何のことを言っているのですか?」
「そこの廃墟の建物、シンボルをよく見るとさ。
両方とも教会なんだよ。異教と、正教のね」
「え……?」
既に廃墟になってしまった、仲良く並んでいる異教と正教の教会。
現在最も仲の悪いと言われる二つの宗教が、である。
正教の坊さんが見たら発狂してしまいそうだ。
もう、滅んでしまったのかもしれない、廃墟になってしまったのかもしれない。
だけど、確かにここにはユートピアがあったのだ。