最終話 老天爺だけが知っている
「心が壊れていた……そうね、そのとおりよ。私の父があなたの父を死においやった。私は徐有貞の娘なのよ」
「違う。あなたは私と同じ、石灰吟の娘なの。それでね、聞いてちょうだい、淑雪。私は徐家を仇と思ってない。兄も夫も康も仇と思ってないの」
「璚英、どうして……」
「父は清廉な官僚だった。それがいかに危険な立場か、良く知っていたの。上に媚びへつらいをしないことがいかに敵を作るか、いかに憎まれるか、父も私もよく知っていた。だから、罠に落ちる覚悟をしていた。母上が生きていたら、きっと同じことを言うわ。
淑雪、あなたの徐家の血はもう流れ出てしまった。老天爺がまだ生きてすることがあると言ってるの。さあ、食べるのよ。新しい血があなたの体に流れるように」
「璚英……」
「苦しかったでしょう。もういいのよ。苦しまないで。私の親友でいるという誓いを忘れたの?
私はあなたがいないと腑抜けになっちゃうわ」
璚英が差し出した匙には胡桃汁粉が載っていた。それを口に含むと淑雪の顔が歪んだ。
「変ね、泣きたいのに涙が出ない……」
「体が余分な水分を出すなと言ってるのよ。さあ、もっと飲んで、淑雪。私の大切な親友さん」
淑雪が涙を流すまでに恢復するのにひと月かかったが、朱驥に言わせると「早かった」らしく、璚英は胸をなでおろした。その間、于謙の棺は北京を出発せず、于家の正房に置かれたままだった。
名残雪が降る日、淑雪は于謙の霊に拝礼し、彼の死を真正面から悼んだ。
「于大人、あなたの言葉を忘れるところでした。あなたは璚英を頼むと仰った。良き友であってほしいと……それが于大人の願いでしたのに、私は冬児が現れてから、それを忘れていたのです。
于大人、やっと私の役目が分かりました。私は璚英を愛しております。しかし、その情に溺れることなく、友人であることが大切だと分かりました。私の想いは友愛の延長上にあるとしておきましょう。この先で再び嫉妬に苦しむことがないよう気をつけますわ。
于大人、朱驥があなたの遠縁というだけで、渭水に流罪となりました。朱宸と朱宏も一緒に……。ですから、璚英も渭水のほとりに住まいを移します。表背胡同の清白医館も閉めねばなりません。
私は……私も璚英と共に遠くへ参ります。夏児も一緒です。于家に集った医女たちは力を合わせて生きていきます。
どうぞご覧になっていてください。どこへ行っても、璚英と私は医女であり続けます!」
英宗が再び帝位に戻った天順元年、北京城から于家は消えた。于康は于謙の棺を杭州へ運び、西湖の西に葬った。于冕や朱驥が賦役から解放され、于謙の名誉が回復されたのは天順八年に英宗が死に、その子の成化帝が即位した時であった。
于冕は南京で官僚を勤め、のちに応天府の長官を務めている。父の于謙と同じく、清官として生涯を送った。
朱驥は北京に戻り、錦衣衛の改革に力を注いだ。彼は盗賊や政治犯が根城にしそうな場所を北京から排除することで、治安の安定に努め、また、証拠が不十分な誣告事件は取り上げず、冤罪をなくすよう務めた。側室を迎えているが、彼自身は過労死したといわれている。
璚英と淑雪は生年も没年も記録がない。ただ、二人はどこにいても医女を続け、生涯にわたって助け合い、共に医療にたずさわった。それを知っているのは老天爺だけかもしれない。




