第37話 徐有貞の影
「ああ……どうしよう。私は、私は……この想いをどうしたらいいの。璚英……璚英に知られてはいけない。いえ、誰にもこのことを知られてはいけない。老天爺、あなたにも知られてはならないでしょうね。いえ、もうご存知なのかもしれない。私にこんな試練を課すのですから……ああ、璚英……」
景泰年間は淑雪の懊悩を隠して過ぎて行った。
于家では于謙の孫娘たちが次々に嫁していった。
于謙は北京で朝廷の重鎮として軍の再編に取り組んだ。二十万人の兵員を失い、文武官百人が戦死した土木堡の変から数年が経っていた。
上皇となった英宗は蟄居していたが、皇太子は英宗の子のままであり、朱祁鈺こと景泰帝の立場は不安定だった。皇帝にしてみれば、兄の上皇が生きているのは目の上のたんこぶのようなものだが、この事態をどうにもできない。
そんな時、南京から北京に戻った徐程は徐有貞と名を改めた。南京に左遷されたことを強く恨み、欲深く狡猾になった男はあいかわらず出世の糸口を掴むため、ある時、于謙を訪ねてきた。
「于大人、私はいまだ翰林院侍講なのですよ。兵部尚書で少保のあなたさまから見れば、取るに足りない立場であり、地位であります。こうして北京に戻ったからには誠心誠意を尽くして陛下のために働きたい所存、どうか御口添えをいただけないものでしょうか」
于謙は景泰帝にこの件を述べてみた。皇帝曰く、
「徐有貞は上にへつらい下には厳しい。あのような男を要職につければ多くの者が難儀するであろう」
このために徐有貞に官位の高い職が付くことはなかった。せいぜい都察院右僉都御史だった。このため、徐有貞は于謙を恨むこと、海の如く深かったのである。
淑雪は父親と于謙の間にあったいきさつを知り、父を恨んだ。
「徐程は徐有貞になっても中身は同じ。情ない男だわ、于大人を逆恨みするなんて……。では、淑雪。あなたはどうなの。璚英を大切に想うあまり、彼女に近づくひとを見ては心を乱している。この執着をそのままにしていていいの? 何かあってからでは遅いのよ。
ああ、老天爺、私を璚英のただの親友のままにしておいてください! 嫉妬に苦しむのはもうイヤになりました……」
そんな淑雪に気付いたのか気付かないのか、璚英はふと漏らした。
「最近、あなたは時々怖い眼をしているわ。特に冬児に対して。もう夏児とケンカもしてないのに。まだこだわっているの?」
「そ、そんな風に見えるの?」
「どこか体の具合が悪いのか、心配よ」
「そうね、血の道が起き始める歳が近いからかも……。私たち、懸命に走り続けてきたわ。体には気をつけなくちゃね、璚英」
璚英は淑雪の手を取った。
「あなたの脈を診るの、久しぶりよ。そこに腰かけて」




