第32話 混乱の北京城
京師は朝廷以上に大混乱に陥っていた。
于璚英は騒乱状態の北京城崇文門を走り出た。土煙の中で彼女の心に父の口癖が浮かぶ。
「世の中、何が起こるか分からないものだ。その時、自分に何ができるか分かっていれば良い」
父は紫禁城から一度だけ知らせを寄こした。
『城外は戦場になる。籠城に備えよ』
それきりだ。彼は自宅にも戻らない。璚英は父が修羅場に居ると確信し、自分の役割のために走っていた。崇文門橋の南にある牌楼の下で淑雪と落ち合った。彼女は天姑小観の陳三娘に城内への非難を促しに行っていたのだ。
「どうだった?」
「南の大興村に避難できる廟があるらしいの。オイラトは北からくるでしょ? 南に逃げればひとまず安心よ」
「そうかしら。この辺の川なんてオイラトの馬なら、すぐに飛び越えるわ」
「とにかく、天姑小観の心配はなくなったわ。恵民薬局へ行きましょう、きっと金瘡など外科治療の手が必要なはずよ」
足元を流れる堀とその向こうの通恵河はあいかわらず泥の中に細い水脈が光るばかりだ。
「運河が使えないから、父上は通州の穀物庫から荷車で北京城に食糧を運ばせているわ。昼夜を問わずよ。隣りの明時坊草場の倉庫にも荷物を入れてる物音がすごくて、昨夜は何度も目が覚めたわ」
「劉大使も程副使も、いつもと顔つきが違うわね。城外で戦になったら、きっと傷の手当が大変だわ。男装にしましょう、璚英」
二人は荷馬車や軟轎でごった返す崇文門橋を我が家へと引き返した。
いつもなら中秋の月を愛で、菊花の香りを楽しむ季節だが、それどころではなかった。北京は間もなく戦場になるのだ。避難する人、籠城に備える者、それぞれに秋を楽しむ余裕はない。
璚英が声を上げた。
「危ないわ、淑雪」
官営製瓦地区の瑠璃廠からきた大車を避けた。続いて劇団の一座や酒楼の女たちが笠を被って城内へ向かっていた。
璚英はその中に張玉芳を見つけた。大柵楼の妓女である彼女は、程副使のつてを頼って来院し、婦人病の治療を受けていた。回復しただろうか。半年前に比べたら元気が出たようで、処方した薬は効いているようだ。玉芳の腕は錦の袋で包んだ琵琶を抱えていた。
淑雪も気づいていた。
「玉芳さんの足どり、しっかりしてるわ」
璚英は小声で言った。
「玉芳さんに付け髭をもらっておくべきだったわ」
「璚英、あなたには似合わないわ。無理に男になってもすぐにバレるんだから」
「患者を笑わせるくらいなら出来るかも」
二人はどんな時も医術のたしになることを考えていた。
「笑う門には福来るというでしょ、淑雪。そうだわ、徐家のことは気にならないの?」
「大丈夫、こういう時には抜け目なく避難してるわ。それに徐程は南遷を主張しすぎて南京勤務になったという噂よ、出世の見込みがなくなって悔しがっているでしょうね」




