第31話 土木堡(どぼくほ)の変
「まぁ、そうではある。今度の戦は我々が経験したことがない戦だ。モンゴルと戦ったことがある古参兵はそう多くない。民草が何と言っているか、少々気にかけておかねば。流言は時に社稷を危うくする」
「明軍は二十万ですよ、勝って戻ってきますとも」
「ああ、それを祈願しに行くのだ」
「私、戦勝祈願以外にも東岳廟では老天爺に申し上げたいことがあります」
「何だ?」
「御礼ですわ。あなたがこうして夫でいてくれて、本当に感謝しています。宸と宏が大きく育っているのもあなたのおかげ、恵民薬局の仕事を続けられるのもあなたのおかげ。その感謝を天に報告したい」
「大袈裟だな。お前がこの家の主治医をやってくれるから、皆、安心して暮らしていると私は考えている。もちろん淑雪もだ」
「あなた、もっと子供が欲しいのではありませんか」
朱驥はふっと空を見詰めた。
「側室は……考えてない」
「今のところは。でしょ? 私、妻としては充分でないと重々承知しています。誰か好い女人がいるといいのですけど」
「お前の嫉妬が怖い。お前は結構情が深いからな」
「あら、イヤだわ。そんなことしないわよ!」
璚英は思わず夫の肩に頬を預けていた。
それを遠くから淑雪が見ていた。
『私は……璚英が朱驥の妻で安心している。彼女に言い寄る男がいなくてホッとしている。私は……いつまでも璚英の親友でいたい。命が尽きる時まで彼女の友でいられるなら、こんなに幸せなことはないわ。今度の戦がどうか早く終りますように。大明が勝利しますように」
明軍は大敗した。
一ヶ月も経たずに、遠征軍はオイラト軍の罠に嵌まった。北京から北西に伸びる幾つかの街道のはずれに土木堡という高台の陣地があった。そこに追い詰められた明軍は壊滅の憂き目にあい、皇帝はオイラト部族に囚われるという中国史上にも類を見ない大敗であった。これを「土木堡の変」という。
二十万の軍勢は死体になり、僅かな生き残りがぽつりぽつりと北京にたどり着く。そしてオイラト軍は騎馬という恐るべき機動力で北京に肉薄していた。
朝廷は皇帝が不在という事態に加えて、オイラト軍の北京包囲に備えなくてはならなかった。九月になり、于謙は兵部右侍郎から兵部尚書(軍務大臣)に任命され、河南から北京に急ぎ戻った。
文武百官を失った朝廷は混乱に拍車がかかっていた。翰林院侍講の徐程が京師を北京から南京に遷都すべしと主張していたからだ。早速、于謙の大音声が徐程を襲った。
「京師を南に移せば、かつての宋のようになるは必定! 忘れたか、大宋が女真族の金国の軍事力に屈して南遷し、そのあげくに南の都までモンゴルに滅ぼされたことを!
決して南遷してはならぬ! これ以上南京遷都をいえば容赦せぬ! 遷都を口にした者は首が胴から離れると思え! 徐程、お前は腰抜けである! 北京城は必ず守り抜かねばならんのだ!」
英宗の弟、朱祁鈺は即位したばかりだった。その新皇帝の前で、徐程はさんざん于謙に叱責されたのだった。




