第29話 石灰吟の娘
「そうだ、あなたと出会ってから璚英は変わった。心身ともに強くなり、浮つきがちな心根がすっかり消えている。あなたのおかげだ。冕も朱驥も声を揃えて、あなたの存在なくして今の璚英はないと言っている。彼女の志を完遂させたのはあなただ。父としてこれほど嬉しいことはない」
「于大人……」
「私はまた遠くへ行かねばならない。璚英を頼む」
「また軽装軍装で騎乗なさるのですね。山西河南は于大人を待っているのですね」
于謙は微笑んだ。
「冕はあなたのことを手紙によく書いてくる。恵民薬局で楊医生に想いを寄せられたとか」
淑雪は淡々と応えた。
「それは楊医生殿の気の迷いです。私は一生を医学に捧げましたので、殿方との縁はないのです。璚英は私に婚姻するつもりが毛頭ないのを知っているはずです」
于謙はうなずいた。
「それも人生であるか。そのせいか、息子も私の手紙をあなたの前で披露しているようだ。于家にあなたがいて当たり前になった。それはそうと恵民薬局で働き続けるのかな?」
「はい、もう何年か修業を積みたいのです。璚英も同じ考えです」
「そうか。医館を設けるのなら、つてを頼ろうかと考えていたが、少々気が早かったか」
「い……医館を?」
「いずれは恵民薬局から一人立ちする時が来る。その時のために備えておくのは大切なことだ」
「あ、ありがとうございます。そこまで考えていただけて望外の喜びです。期待にそむかないよう精進いたします」
「医術の道も官衙とおなじくらい大変なものだ。女の身でありながら、恵民薬局の医士となる娘が二人もいて、私は誇りにしていいだろう」
「今、娘と仰りましたか……」
「そう、あなたと璚英は、石灰吟の娘なのだ」
于謙は厳とした声で告げた。
「医館を開く時、私は医館の名をあなたと璚英に贈ろう」
だが、医館を設ける前に北京城に、いや、大明に大きな試練が降りかかった。
正統十四年八月、于謙にとっても試練が降りかかった。
この年、朝廷は周辺属国からの朝貢を受けた。大明皇帝は周辺の国王を臣下として封じることにより、威信を堅持した。臣下となった国は使者を派遣し、物品を明国に贈る。それが朝貢である。
それほどに中華の威光は凄まじく、朝鮮王朝やベトナム、そして北方のモンゴル族や女真族、さらに西方のティムールなど遊牧やイスラムの民も大明と深い関係を持っていた。その中にモンゴル高原南部のオイラト部族がいた。
彼らはモンゴル族の弱体化に応じて台頭してきた遊牧民で、毎年のように馬を中心に交易を行い、北京に朝貢使節を送り込んできた。




