第26話 蔡淑雪の過去・4
実に大胆だった。淑雪は二年かけて用心深く準備した。失踪に見せかけて家から逃亡し、趙若微の懐に飛び込むためだ。彼女を師と仰ぎ、医学の修行を積むためだ。
そのために、こっそりと一回り丈の長い自分の衣を縫い貯めて隠し、靴を作っては隠した。家財帳を調べ尽くし、ほんの少しずつ資金を捻出した。父の側室が気を遣って誕辰に贈ってくれた装飾品はいざという時、金に換えるつもりでいた。
そして、八歳の正月十五日から数日、各坊の柵が開け放たれる元宵節の夜、淑雪は男児の恰好で南居賢坊の趙女医の家を目指して、一目散に走ったのだ。
当時、官吏の娘は悪い評判を恐れた。男と二人きりになったと噂され、縁談が流れる話は珍しくなく、外出には親の許可と侍女を従えるのが当たり前。結婚しても夫次第で家に幽閉される暮らしを送る女は多かった。
確かに家の外は危険でいっぱいだった。男女にかかわらず子供は誘拐され、さらに若い女は攫われて当然だった。人で溢れる広大な北京城内でも、女子供は夜は出歩かない。
紫禁城とそれを取り囲む皇城、二十九に分けられた城内の各坊は何もかもが天子たる皇帝のために存在する。皇帝以外は全て臣とその民だった。その世界が当たり前だった数千年、誰も凄まじい上下関係に縛られることを疑問にしない。それが秩序の基だったからだ。
だが、より抑圧を受ける女だった淑雪は八歳で、家から逃げた。
なんと大胆だったのだろう。憎しみしか抱けない父はともかく、母の哀しみは分かっていた。それでも徐家の娘でいられなかった。
元宵節は都中に大小の燈籠が煌めき、皇族や貴族、裕福な商家はこぞって灯篭に趣向を凝らした。その光景は普段は暗い夜の都を圧倒的な光で照らし、人々は年に一度の行楽を逃すまいと胡同から大街へと繰り出した。
美しい燈籠飾りの周りで大道芸人たちが奇術を披露し、謎かけや角抵に人垣が出来、装飾品や点心の屋台が軒を連ねた。毛皮のマントを羽織った貴人たち、その傍に貴人の用心棒が睨みを利かせ、隙を狙う腕自慢のスリたちやはぐれた子女を探す牙婆の一党がすれ違う。歓楽と危険が渦を巻く夜だ。
淑雪は夜の安定門大街を北へ走った。背に包みを括り、羽が生えたかのように足は地を蹴った。薬瓶の四角い提灯が燈る門をほとほとと叩いた。
趙若微は胆力を見せた。たびたび徐家に往来し、ある程度予想していたのだろう、一年間は男児の恰好でいるという条件で彼女を家に置くことにした。
「いいかい、江南の親類を引き取ったことにする。あたしの銭唐訛りをさっさと覚えるんだ。この親不孝な藤頭絲(ろくでなし)め!」




