第21話 淑雪の密かな願い
父と息子は恵民薬局の真向かいの中城兵馬司の軒下で雨宿りした。冕はぼそりと言った。
「私は妹があれほど元気に動いているだけで由としたい」
「ふむ」
「一年半前、彼女は出産で生死の境を彷徨った。その後も五ヶ月を寝台で過ごしたのです。私はひと月してやつれた彼女に会った。その時の驚きと悲しみはまだ消えていない。今の妹は奇跡のようです」
「私はずっと家におらず、彼女の胸の内は分からなかった。医業が彼女の天命なら支えてやるべきかな」
雨音の中、冕は眼で是と応えた。
于謙は通り過ぎていく雲を仰いだ。
「今夜は皆で東坡肉を食べよう。釈放祝いだ」
于謙が北京で暮らしたのは、それからわずか三月だった。彼はすぐに山西河南の地に戻った。かの土地の民たちが于謙を必要としたからだった。
北京を発つ前日、秋の気配がする日に于謙は淑雪を正房の書斎に呼んだ。彼女は医士試験をまじかに夜更けまで勉強していた。西廂房の奥部屋は淑雪と璚英が書いて綴じた覚書が積まれ、墨と紙と蝋燭の費用は朱驥の懐から出ていた。
「于大人、私にお話しが?」
「蔡姑娘、この三月、毎朝共に恵民薬局への道を歩き、私は北京勤務の憂さを忘れた。こたびの大理寺勤務は北京にいる間に紫禁城で権勢を振るう宦官や佞臣どもに媚びる術を学べという意図があったのだ」
淑雪は戸惑った。一介の医生に巡撫が話すことだろうか。
「于大人には屈辱だったのですね。権勢におもねる人間とみられるのは耐えがたいのではありませんか」
「そのとおりだ。今上陛下の周りの者は自己の損益しか頭にない。そのような輩の一人に罪を着せられたのは、紫禁城のある門で司礼監の宦官に私が一銭も袖の下を渡さなかったからだ。命があったのは老天爺がまだ社稷のために成すことがあると言っているのだろう」
淑雪は璚英によく似た于謙の目元を見た。真っ直ぐで邪心に染まらず、涼しい光を放つ眼だ。
「于大人は何より社稷を尊んでおられます。国亡くして人心は落ち着きません。そういえば璚英が恵民薬局に入試を申し込んだ折に同じことを言いました」
「蔡姑娘、娘は随分変わったと見えるが、あれが本来の彼女が望んだ姿だろうか」
「璚英はとても充実しています。頑固で気が強いところが好い形で彼女を守っています。恵民薬局の人たちはともかく、患者や出入りの業者から女は家にいろと言われるたび、社稷の利となるべく天命を受けたと胸を張って返しています、まるで薬王の化身のように」
于謙は頷いた。
「私は再び家を離れる。次に戻るのは正月だ。そこで、蔡姑娘、あなたに頼みがある」
「何なりと」
「医士試験に合格し、璚英の目標となってほしい。彼女はあなたに続くため、必死になれる娘だ。甘えたがりだが、よろしく頼む」
淑雪は深く礼をした。
『甘えたがりの璚英。そうよ、彼女の言動の可愛い部分はそれだもの。医生の時にそれが出なければいいの。でも、朋友として甘えてほしい。私は璚英に甘えてほしいのだわ』
その時、淑雪は自分の願望がどういうものか、明瞭ではなかった。ただ、友人の情を決して手離さないとかたく誓っていた。




