第20話 都察院獄の笑い声
于謙の大きな手が何かを捧げるかのように広がった。
「蔡姑娘、璚英があなたを困らせることがあれば私が叱りましょう。彼女は好い娘だが、恵民薬局で好き勝手をしないかだけが心配です」
淑雪は頷いて言った。
「彼女はもう『嬌痴態度亦堪憐』を脱して良き妻、良き母親になりました。また『未解知音節』はすっかり直り、『惟應破俸錢』も悪阻が酷くて我儘を言いたくなる一時期のことです。于大人のご心配は杞憂と存じます」
「悪阻?」
とたんに于謙の肩が震えた。こらえきれずに彼は都察院獄の外にまで届く笑い声をあげた。
「璚英、私の信を託すほど心許せる友を得た。そして朱驥はお前を快く送り出す度量がある。なんという果報者だ」
璚英が「仰るとおりです」と誇らしげに応えた。父親は「ふむ」と娘の肩に手を置いた。
淑雪はその光景に安らぎを覚えた。趙師傅の家に駆け込んだ八歳の時まで育った徐家、そこにその安らぎは皆無だったと思い出した。
彼女は自分に言い聞かす。
『淑雪、あの家とは縁を切ったの。もう思い出す必要はない。これからは過去を振り返らず、未来の心配をせず、今をしっかり生きるのよ。
徐淑雪はこの世にいない。徐家の末娘は消えた。母の蔡妙真でさえ、今の私を我が娘と分からないだろう。婦徳の権化のような蔡妙真は男装の女を軽蔑してやまないはずだから』
端午の節句から半月後、于謙は兵部右侍郎の職を解かれ、新たに大理寺左少卿を拝命して、牢を出た。
彼は巡撫の仕事に戻りたかったが、皇城外の南西にある大理寺(最高裁判所)に勤めねばならない。
急ぎ于冕が迎えに来た。
父と息子は初夏の陽気の中、恵民薬局に向かった。
都察院前の刑部街を東に歩き、宣武門里街を横切って西長安街に入る。すぐに街路北側の小時雍坊内の胡同を北に抜け、皇城西大街に出て、そのまま北上した。
于謙は右手に聳える皇城壁を見上げず、城壁をぐるりと回って皇墻北大街を東に進む。皇城の北の出入り口、北安門の搬入搬出をかき分ければ、恵民薬局はもうすぐだ。
「冕、少し様子を見るだけだ。決して足を踏み入れてはならん。それに声も立てるな」
皇城の北東の角を曲がり、火講河畔街を五十歩南下した。
二人は恵民薬局の裏庭を囲む低い塀に近づいた。薬材を干す棚がずらりと並んでいるのが見えた。その間を白い官帽の医生が行きかう。
于謙は悠々と声のする方へと首を巡らせた。
「于医生、薬材に混入の虫はすぐに取り除け」
「はい、程師傅」
いきなり璚英の返事が飛んできて、父と兄は眼を見張る。
璚英は棚の上から順番に薬剤になる葉や茎や根っこの籠を調べていく。その速さは縫物の運指と比べ物にならないほど速かった。
彼女は周りの医生に気安く質問していた。
「楊医生、大黄はもう裏返しておきますか? 表はよく乾きました」
「それは乾きすぎると良くない。指で押して僅かにへこむくらいがいい」
「分かりました」
楊医生は既婚者である璚英を近所の小母さんに対する敬意と先達という立場で接していた。そこに劉大使が来て咳払いをする、
「楊医生、于医生をあまり外に出すな。人目がある」
璚英は「大使さま」と反論した。
「遠目に見れば私は少年です。それより生薬管理を覚える方が大事です。楊医生はよく教えてくれます」
于謙と于冕は璚英の口ぶりをその場で叱りたかった。が、騒ぎを大きくする必要はない。
楊医生は無関係だと言いたげに棚の生薬をつまんでいた。劉大使は袖を振ると去って行った。
遠くで雷鳴がした。俄かに医生が総動員で生薬の棚を空にしていく。璚英と淑雪も男に交じり、数段重ねた箱を屋内に何度も運んでいた。間もなく大粒の雨が落ちてきた。




