第2回 四姑集
淑雪の足は勝手に住持室に向かっていた。
暗い考えが次々湧いて止まらない。
「いっそのこと天姑観を燃やして逃げたらどうだろう。馬鹿ね、淑雪。行く当てもないのに。身元不詳ではまともな仕事につけない。医女修業を続けたくても誰も弟子にしない。北京城の物乞いになるか、人買いに捕まって奴婢になるか、野垂れ死にするだけ」
ふと明るい空を見上げた淑雪は呪詛のようにつぶやいた。
「この世に居場所がないなんて。この世が間違っている。老天爺、そうでしょう。あなたはいつも女を犠牲にして知らん顔してる。天が間違ってるのよ!」
彼女は考えるのを止めて、住持室の扉を叩いた。先に管理総監の黄沁華と金庫管理を勤める陳三娘が来ていた。
黄沁華は痩躯にもかかわらず、凄まじい筋力を道衣の下に隠している。
金庫番の陳三娘は巧娘の信頼が篤い。子供の頃から天姑小観で育ち、本気で登仙を目指しているという変り種だ。
二人は慣れた様子で杜巧娘に進言する。
「いつものように蔡知堂が一服盛れば問題なし。薬の量を計らせたら天姑観の薬王ですからね」と陳三娘。
「こたびの標的の歳は十六か十七、辰の刻頃に来て思い詰めた顔で『静かな場所で瞑想したい』というから奥の院子の四阿に衝立をかけ回して座らせている。どうみても訳ありのお一人さまだよ」と黄芳華。
淑雪は無言で誰とも視線を合わさないでいた。
杜巧娘の薄い唇が少し歪んでいた。
「あの女の衣はお屋敷のお仕着せじゃない。かといって上等でもなし。アタシの勘が引っかかるんだ。もし城内の官僚家の女僕なら後で面倒だからね。まずは蔡知堂が標的の身元を探るんだ。薬はそのあとで考えよう」
淑雪から返事がなかった。杜功娘はバンと机を叩いた。淑雪の肩がピクリとする。
「蔡知堂、しっかりやりな。しくじったら、罰は私の閨で受けることになるよ」
黄芳華と陳三娘が「うひひ」と下卑た笑みを投げてよこした。
淑雪が部屋を出たあと、黄沁華が言った。
「蔡知堂はそろそろお役御免にしてはどうです。この仕事に向いてません。あの顔を見ましたか、城内に駆けこんで順天府(行政裁判所のこと)の太鼓を叩きかねませんよ」
杜巧娘は全く気にしない。
「お役所に直訴? ははっ、道禄司が管理してる道観に手が出せるもんか。それに蔡知堂の医薬の腕があればこそ、傷をつけずに高値で売買できるんだよ。彼女はそれだけの価値がある。裏切れないように策を講じておかないとね。彼女の下に付いてる道童がいだだろ?」
「夏児ですが」
「あの子を人質にすればいいさ」
淑雪は四阿へ向かった。住持室で浴びた毒気で心は麻痺していた。杜巧娘の閨から逃げおおせることしか頭になかった。
「杜巧娘の閨に入るくらいなら死んだ方がマシだわ。砒素を使えば簡単よ……簡単に趙師傅のところへ行ける。あの世でも女医の弟子になれるかしら。
いいえ、死ぬのは怖い、怖いわ。私はまだ生きたい。罪を犯しているこの身でも、生きていたい」




