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第11話 董明妍(とう・めいけん)の策

 夕刻に冕と康が帰宅すると、冕の四番目の娘が急に泣き出した。母の少春が「まただわ」と膝に座らせた。六歳の少女は手が硬直し、腕が動かせない。長女と次女が腕をさすってやるが、それでも動かない。


 淑雪が「よく起こるのですか」と訊くと、少春は「父親が獄を訪ねる日に」と応じた。 

 淑雪の女医の心はじっとしていなかった。彼女は女児の脈を取り「おじいさまのことが気になるのね。優しい子」と語りかけた。そして数か所の経絡けいらくをゆっくり繰り返して押していった。気が付くと硬かった腕は自由になっていた。


 璚英は「かんの病を治したの?」と言い当てた。淑雪は軽くうなずく。

「余計なことと思われるでしょうがお聞きください。皆さまは于巡撫う・じゅんぶさまの件に懸命に耐えておられます。子供なりの不安が身体症状に出たのです。大丈夫、次第に落ち着きます」

 冕は康と顔を見合わせた。

「蔡姑娘、もう少しの間、うちに居てもらえませんか?」


 数日経ち、董明妍とう・めいけんは淑雪を正房の書斎へ連れて行った。

「璚英は私を老太太おおおくさまに仕立て上げましたか。それにしても、よくぞ彼女を家に返してくれました。深く感謝しておりますよ」


 明妍は淑雪の言葉を待った。

「于夫人、私は感謝をいただく資格のない女冠にょかんです。むしろ罰せられるべきです。賢明な于夫人なら天姑小観の女冠にょかんが悪党であると察しておられるでしょう。それを思うと私は恥じ入るばかりです……」


「蔡姑娘、あなたは女冠をやめて還俗し、医術を極めたいのではありませんか」

淑雪は軽いめまいを感じた。どうやって董明妍は淑雪の望みを知ったのだろう。それは淑雪自身が手放した望みで、叶うべくもないと諦めていた。

「蔡姑娘、あなたが我が家の皆を、男も女も関係なく診察する時、なんと頼もしかったことか。あなたは自信に満ち、輝いていた。女冠であるより女医でありたいとあなたの心が告げていました」


「仰る通りです。でも、決心できません。天姑小観で私の道童が人質になっています。戻らねば売ると脅されています。でも、于家にこれ以上の御面倒をかけられません。今のことは忘れてください。于夫人!」

「蔡姑娘、私はかつて南京教坊司にいた楽戸がくこ(賤民、奴隷)でした」

「え……っ!」

「靖難の役で敗者になった私の父、董鏞とう・ようは永楽帝に仕えるのを拒み、処刑されました。あの時、何万もの南京の女子供が売られる身になったのです。反逆者の妻子は国の楽戸(奴婢)となり、屈辱に晒されたのです」


 明妍は粛々と語った。

 大明の二代目の建文帝は初代洪武帝の孫だが、洪武帝の四男の朱棣が「天を奉じて、難をしずめる」と号して南京城を攻め、甥の建文帝から皇位を奪った内乱、それが三年に及んだ靖難せいなんえきだった。

 即位した朱棣、すなわち永楽帝はその傷跡を隠すかのように首都を南京から北京に移したと言われている。

「私は当時応天府(南京の役所)の小役人だった夫に巡りあい、婚姻により楽戸から解放されました。今、あなたとあなたの道童の籍は道禄司にあって、裏では売られる危機に晒されている。そうですね?」


 道禄司は大明を建国した洪武帝が設立した宗教管理機関だ。それは洪武帝自身が前王朝を揺るがした白蓮教徒であったからだ。道観の道士や女冠は道禄司に、僧侶や尼僧は寺禄司に登録され、国家の管理下にあった。


 淑雪は董明妍の策謀を感じた。

「于夫人、何をなさろうと……」

「女が何かを成すには大きな覚悟が必要です。あなたにそれがあるなら、璚英の夫が動きます。私にとっては娘、朱驥にとっては妻、牙婆やぁぼから守ってくれた恩を返さねば、于巡撫が私を叱るでしょう」

「待ってください。私が女医の道を進むと、璚英が婦道を踏み外すかもしれません」

 董明妍はふっと笑った。

「重々承知です。いっそのこと、あなたと一緒なら真剣に取り組むでしょう。それに賭けるのは危なっかしいかしら?」

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