第10話 于家の日々
淑雪は寝台に横になった。
今頃、杜巧娘たちは算盤勘定に余念がないだろう。于家に旨味なしと知ったらがっかりするわね。その上、錦衣衛副千戸がいると知ったら仰天だわ。
「何を笑ってるの?」
璚英が横にいた。布団を引き寄せ、体が近づくと温かい。
「私、笑っていた?」
「ええ、観音さまみたいに微笑んでいたわ」
翌朝は剣の音で目覚めた。勤めを終えて帰宅した朱驥に冕と康の三人が稽古していた。蓮児と冕の娘たちは五禽戯(健康体操)をし、厨房に少春がいた。
皆、粗末なマントを羽織っていたが、体が温まると東廂の上がり口に積んである。璚英は鶏小屋で卵を探していた。胡同からは包子や豆乳売りの歌うような声が流れてきた。
「忘れていた……鍛錬の時刻だ」
淑雪は寝台の布団を片付け、日課の深い呼吸法を始めた。集中していた彼女の意識が急に途切れた。今は彼女の気が動転していた。
璚英が朝の暖かい豆乳を盆に載せてやってきた。
「嫂々(あによめ)が作りたてをあなたにって。どうしたの、淑雪」
「何でもない。いただくわ」
二人は寝台に座って豆乳を食べた。濃い汁と浮かべた薄い餅の切れ端で体を温めながら、璚英が聞いた。
「あなたの師傅は城内の人だったの?」
「なぜそう思うの」
「あなたは読書人並みに字が読めて、医女で女冠で父の詩を解す。只者じゃないわ。相当の勉学を積んで育ったはずよ。私は冕に習ったけど、兄の教え方では分からないことが多すぎる。習う道筋が違ってるんだわ。
医学書を解するなら、あなたの方が優れているはずよ。私の師傅になってほしい」
淑雪は豆乳の椀を見詰めたまま「褒めすぎよ」と返した。
「師傅は城内の北の方に住んでいて、私もそこで育った。たまたま勉強が性に合ってただけ。この豆乳、ほのかに甘くていい香りね」
于家は別世界だった。
董明妍は夫が二十年近く単身赴任の間、父親でもあった。要らないことは一切言わず、寡黙なかわりに穏やかな笑みを武器に、まず冕を育てた。彼女は自ら鍬を握り、畑を管理していた。
巳の始め刻になると、門が開かれ、十人以上の若者が入ってきた、淑雪は驚いて璚英の背中の後ろに隠れた。
「彼らは冕兄さんの塾生よ。門房で私塾をやってるの。科挙ほど難しくない任官試験を受ける人や千字文から始める子もいて、いろいろよ。塾がない日は康と蓮児と姪っ子たちに字を教えてるわ」
朱驥は昼過ぎまで眠ると剣を磨き、敷石を修繕した。蓮児は鶏にミミズをやり、双子のむつきを干す。冕と康は門房を片付け、紙と筆の買出しに行く。璚英は父の官服を手入れし、邵少春は蜈蚣や蜥蜴に備えて害虫退治の薬を練った。
蒸しカステラが出来た日、冕と康は包みを抱え、都察院獄へ行った。家に残った女たちは刺繍や小物作りをした。少春が図案を描く。
「これは宮中で大人気の柄。東安門外の小間物店で売ってもらうと結構いい値になるのよ」
蓮児がすっと針に糸を通した。
「持っていくのは康と私。店子と交渉するの、上手いんだから。朱哥々(しゅ・にいさん)、武官の持ち物に流行りはないの?」
「武官は贈答用に買う奴は多いから、女物をたくさん作るといいぞ。蓮児は得意だろう?」
璚英の夫を姐夫と呼ばず、姓付きの哥々(にいさん)と呼んでいいのだろうか。淑雪の疑問に答えるように董明妍が言った。
「朱驥は于家の家族になったのです。彼の御母堂の祭祀は私たちのつとめですから」
淑雪には于家の何もかもが型破りに思えた。
不思議と嫌でなかった。




