第2話 人が氷になる理由
窓のカーテンを開けると、もう初夏の日差しと青い空が見える。
まるで今の私の気分だ。
突然始まった侯爵令息への教育係の仕事も早一ヶ月、極めて順調。
男として生活していると言うことを除けばだけど……。
毎朝、全身が映る鏡を見ながら入念に準備する。
多少だがふくらみのある胸は布を巻いて押さえる。
少しはあるボディラインを目立たせない少しゆったり目の白いシャツとストレートの黒ズボン。
全身を鏡で映すと、りりしい美青年とも言えるできばえに自分でも見惚れてしまう。
若いメイド達の間で”レイ様ファンクラブ”ができたと耳に挟んだこともある。
使用人に偉ぶらない態度もステキ、だとか。
いやいや、そもそも偉ぶり方を知らないだけなんだけど。
小さい男の子との付き合いは弟二人で経験済み。
パットは育ちがいいからか素直な性格。ずる賢いのは賢さの表れ。
剣の筋もいい。全く手が掛からない。
侯爵がいないときは、パットと夕食を食べるが毎食がフルコースのような豪華な侯爵家メニュー。
当然、上げ膳据え膳。
父と二人の弟にこき使われる我が家の暮らしに比べれば天国である。
ただ、フォークとナイフで音を立てずに上品に食べるのは”がさつ姫”の苦手なところだが、食欲旺盛な若い男性の食べ方ということで大目に見てもらっている感じがする。
めんどくさそうな侯爵との付き合いは全くない。
家にいるときは、たいてい、庭の花壇のそばに置かれたテーブルで、ワインを召し上がっておられる。
ほとんど毎日、真っ昼間から優雅に高級ワインをたしなむとは、侯爵の生活とはなんと優雅なものか。
人に見せる氷のような無表情な顔は、実は二日酔いで無愛想なだけではないかと思ってしまう。
私はもちろんだが、使用人はおろかパットとの会話もほとんど無い。
まあ、わたしにしてみれば気が楽なのだが……。
◆
「あれは、亡くなられたエミリア様……、奥様が愛された花壇なんですよ」
ある日、また飲んでるのか、とあきれて侯爵の姿を見ていると、メイドとしては古手のベリンダさんが教えてくれた。
奥様のエメリア様はもともと侯爵令嬢で幼なじみ、親同士が決めた結婚だったが相思相愛。
しかし、四年前、パットが一歳の時に病気で亡くなったと。
「それ以来、坊ちゃま、いえ、だんな様は笑わなくなりました」
ああ、人が氷になるのには理由があるのだ。
優雅に見えたワイングラスを傾ける侯爵の姿が寂しそうに見えてきた。
◆
「これが、お母様なんだって」
パットが廊下に飾ってあるエミリア様の肖像画を見せてくれた。
『なんだって』、そう言うパットには母親の記憶がないそうだ。
フワフワとカールした長い金髪に青い目。優しそうな笑顔。
自分の死後、愛した花壇をずっと見続けるほど愛し合っている夫、一歳の子供……。
二人を残して旅立った心を思うと、同じ女として胸が張り裂けそうになる。
◇◆◇
その日も侯爵は昼間から庭でワインを飲んでいた。
いったい、どんな顔で亡くなられた奥様の花壇を見ているのだろう。
そんな興味でいつもより、近くに寄ってしまった。
「誰だ?」
しまった、近付き過ぎた。
「ああ、レイか」
「侯爵、失礼しました」
足早に歩き去ろうとしたのだが……。
「少し、話さぬか」
テーブルの空いていたイスを勧められた。
なんだろう……。
パットの剣は順調に上達している。
読み書きも五歳の子供としては悪くないレベルと思うのだが。
小さな丸いスチールの白いテーブルにイスが二つ。
以前は、ここで侯爵とエメリア様が座って仲良く花壇を眺めていたのだろう。
花壇には初夏の花が咲き始めている。
きっと四年間、同じ花を同じ場所に植えて、同じ美しさを保っているのだろう。
そして侯爵は四年間、同じようにこうして花壇を眺めているのだ。
エメリア様を思いながら……。
座ったものの会話は始まらず沈黙が続いて耐えきれなくなってきた。
「美しい花壇ですね。奥様が手入れをされていたそうですね」
あっ、しまった。表情が陰った。
これだから『がさつ姫』などと呼ばれるのだ。
また沈黙が続いた。
「……パットから聞いたが、母親を亡くしているそうだな」
突然の意外な話題。
「え、ええ、もう七年も前ですが」
「どうやって忘れた?、やはり、時間が必要なものなのか?」
奥様を亡くされて四年も経ったが、まだ忘れられない。
それが苦しいのだろう……。
気持ちは理解できる。
だけど、侯爵、それ間違っています。
「忘れてなどいませんよ」
侯爵は驚いたように私を見た。
「愛する人が死んだからといって、忘れることは無理でしょう。そうではないですか?」
侯爵はうつむいた。
「では、どうすれば良いのだ?、お前はどうやって乗り越えたのだ?」
救いを求めるような目で見つめられた。
その目には氷の冷たさはもうない。
十歳近く年下の小娘にまでアドバイスを求めるとは、よほど苦しいのだろう。いや、今の私は若造だったっけ。
母が死んだ当時、誰かが教えてくれた方法がある。
愛する者の死にどう向き合うか。
十二歳の少女には効果があったが三十前の男性にも通用するかはわからない……。
「効果があるかはわかりませんが……」
「どうするのだ?」
私に教えられるのはこれしかない。
「まず、目を閉じて下さい」
「目を?、こうか?」
侯爵は不思議そうに、しかし、両目をしっかり閉じた。
「大きめのツボをイメージして下さい。栓ができるように口が小さいのがいいです」
「ツボ? 口の小さいツボ……」
「ツボに、奥様への思いを全部入れて下さい」
「難しいことを言うな……」
それでも侯爵は目を閉じて思案顔。イメージを作ろうとしているようだ。
わたしの言うことを一生懸命に頭の中で再現しようとしている侯爵、不謹慎ながら、とても可愛く思えてしまう。
「ツボに栓をして、心の一番奥に置いて下さい」
「栓をして、心の奥に……。うん、できたぞ」
「はい、目を開けて下さい」
侯爵は目を開けたがキョトンとしている。
「これだけか?」
「はい。奥様を思い出したいときだけ、栓を開けて中から思いを取り出して下さい。終わったら、またツボに戻して、思い出すのをやめて下さい」
侯爵はキョトンとし続けている。
「思いを無理に忘れる必要はありません」
やはり、十二歳の子供用だっただろうか……。
助けになれなかったことに自分でもがっかりしてしまった。
ところが、侯爵の目から涙がこぼれ始めた。
「無理に忘れる必要はないのだな……」
「はい、そうです。思いは、ずっと心の中にしまっておいていいのです。ただ、一日中思い出していてはいけません。生活ができなくなりますから」
侯爵の目からポロポロと涙が流れ続けた。
よかった、少しは効果があったのかもしれない。
愛する人を失う悲しみに年齢は関係ないのだろう。
そう思うと急に侯爵が子供のように見えてきてしまい、思わず、頬を流れる涙をハンカチでふいてあげてしまった。
「あんまり泣くと、エミリア様が心配されますよ」
気の利いた慰めのつもりだったが全くの逆効果。
涙の量が増え、泣きじゃくり始めた。
やってしまった。
『がさつ姫』本領発揮、慰めの言葉もうまく言えない。
ハンカチが涙で湿り始めた。
ちょっと待った!
二十歳前の若造が、泣きじゃくる侯爵の涙をハンカチで拭いている、そんな妙なシーンを作っているのに気づいた。
あわてて手を引こうとするが、侯爵の手に握られてしまった。
「すまぬ……」
侯爵の手からぬくもりが伝わってくる。
顔が赤くなっていくのがわかる。
でも、そのまま、握られるままにした。
人は時に涙を流した方がいい、そんな理由を付けて……。
「レイの手は、ずいぶん華奢で柔らかいな」
ようやく落ち着いた侯爵に不思議そうに言われた。
ギクッ……。
身長見合いで女性としては大きい手だが、男性らしいゴツゴツした感じは全くない。
そもそも、設定に無理があるのだ。
手を握られるような想定はしていない。
「ははは、よくそう言われます。だが、手の平はマメだらけ、ほら、カチカチですよ」
笑ってごまかそうと、手の平を開いて差し出して見せたのだが、何を思ったのか侯爵はその手を握り、しかも、優しく手の平をなで回し始めた。
こ、侯爵、なにをなさるのですか……。
表面が硬くなったマメとは言え感覚は当然ある。
優しく撫でられる心地良い感触が伝わってくる。
顔にカーと血が上っていくのが感じられる。
「なるほど、さすがだ。よく鍛えているな。俺も剣を学んでいた頃は、こんな感じだったな」
そうそう、今の私は剣の先生の若造。動揺することはない。
ん?、侯爵も剣を学んでいたのか。
『がさつ姫』らしい励まし方を思いついた。
「どうですか、私と剣の立ち会い稽古をしてみませんか?、久しぶりでしょう」
◆
稽古用の木剣を構えて、私と侯爵は向き合った。
構えを見るとわかるが、そこそこできると見た。
「手加減はしませんよ」
「ああ、そうしてくれ」
カチッ、と剣の先をぶつけて打ち合いが始まった。
カンカンカン、激しく剣がぶつかる。侯爵の剣は荒いが力強い。
しかし、時間が経つにつれ、侯爵の息が荒くなっていく。
ほぼ毎日、酒を飲むという不摂生の結果だろう。
疲れがスキを生み、そこを突いた私の打ち込みを防いだ際に、侯爵はバランスを崩して地面に倒れ込んだ。
「侯爵!」
やりすぎた……。
あわてて手を差し伸べて立ち上がるのを助けた。
侯爵は私の手を取り、立ち上がった。
手を取られて気がついた。侯爵に手を握られることへの抵抗がなくなっていた。
「久しぶりだが、身体を動かすのは気持ちがいいな」
「酒を飲みたくなった時は代わりに身体を動かしましょう。いつでも付き合いますから」
「それはいい。頼むとしよう」
そう言って侯爵は笑った。初めて見る笑顔だった。
優しい笑顔。
おそらく、エメリア様もこの笑顔に魅せられたのだろう。
女の私にはわかる。
それが若造に向けられた笑顔とわかっていながら、私は胸が高鳴るのを感じた。
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