少年、老いやすし
僕はちょっと前までフツーの小学生だった。いまではイジメられっ子だ。毎朝学校に来ると椅子が引っくり返ってたり机の中に砂が入っていたりする。教科書やノートに被害が出るとお金がかかってだるいからロッカーに入れて鍵を掛けている。
イジメが始まった原因は僕がお腹が痛くなってトイレに行ったことだった。僕はお腹が痛くなったらトイレに行くのは普通だと思うけど、みんなは学校で個室のトイレに入るのは変だって笑った。みんなが言うならきっと変なことなんだろう。
ぶっちゃけた話、大したことはなかった。
机に砂が撒かれても退ければいいし、椅子が引っくり返っていても戻せばいい。そんなことより隣だったユキちゃんに机を離されちゃったのがことのほうが残念だった。
殴られたり蹴られたりしないのは僕が面倒くさがりだから先生に報告しないレベルの嫌がらせをやってるんだろう。実際その通りだから僕はみんなを少し尊敬している。さじ加減が絶妙だ。大事になってお母さんに心配されるほうがかなり嫌だ。
そんなわけで僕はそれなりに退屈しながら日々イジメられっ子としての責務を努めて、ゆるゆると生活していた。
あいつが転校してきたのはそんな時だった。
僕は最初、特に興味もなく教室に入ってきたあいつを見ていた。柔らかい顔つきで背が高くて、おんなじ制服でもあいつが着ると別物に見えた。僕とは縁がなさそうなタイプだな、っていうのが最初の印象だった。当たり障りのない自己紹介が終わって先生が「仲良くするように」と締めてホームルームが終わった。先生が一度出ていく。
休み時間。
あいつがみんなに囲まれる。僕は遠巻きにそれを見てみんなの興味がずっとあいつに移っていればいいのに、なんて考える。
あいつは「このクラスでイジメられてるのは誰?」と結構大きな声で言った。水を打ったような静寂が広がる。何人かの視線が薄く僕に向く。
「そう、彼か」
あいつは嬉しそうに一度頷いた。
チャイムが鳴ってみんな自分の席に帰って行った。いくつかの視線がまだ僕を見ていて居心地が悪かった。
あいつはスゴくワルだった。クラスで一番のワルだった飯島とツルみ出してあっという間にワルグループの中心になった。あいつは話が上手かった。ワルが好きそうな話をしながら情報を微妙に引き出して、みんなのことを把握していった。
僕のことも。
ユキちゃんもあいつとよく話していた。だから僕のことの大部分はユキちゃんがあいつに教えたんだと思う。
ともかくあいつが加わったことでいままでのイジメが発覚しない「安全ライン」は大幅に更新された。
僕の家は母子家庭だ。父さんは二年くらい出て行った。養育費は毎月ちゃんと振り込まれてるからお金にはそんなに困っていない。
けど、僕に何かあると母さんはスゴく心配そうな顔をする。
あいつは僕の事情を見越して、服の下の目立たない箇所なら暴力を行使しても問題ないことに気づいた。
二の腕、太股、胸、お腹。
攻撃は主にこの四点に限られた。
お腹を思いっきり蹴られて給食の混じった黄色い胃液を吐いた。二の腕は踏まれて靴の型がついた。太股から青アザが消えることはなかった。胸を叩かれすぎてなんでもないことで咳き込むようになった。
母さんには言えなかった。
先生は勉強のできるあいつがお気に入りで言っても無駄だろう。
友達はいなくなった。
あいつが転校してくるまで辛うじて交流のあった何人かも僕と話してくれなくなった。
さすがに辛かった。
ある日。
みんなが帰ったあといつものように僕が制服から埃を払っているとユキちゃんが教室を開けた。
ユキちゃんは僕を見ても表情を変えなかった。僕はそれでいいと思う。僕はユキちゃんが好きだ。だからユキちゃんには僕に巻き込まれて欲しくない。
あ、でもいまここには僕とユキちゃんの二人しかいないから巻き込まれるも何もないのか。
「ねぇ」
僕が声を掛けるとユキちゃんがピク、って肩を震わせる。振り返るか少し迷ったあと、僕を見た。
「どうして僕なんだと思う? クラスには十六人も男子がいるのに」
「……弱そうに見えるからじゃないかな。君って自己主張しないから」
「弱そうに見える?」
ユキちゃんは頷く。
「私は知ってるけどみんなは君の強さを知らない」
僕としては続きが気になったけどユキちゃんはそこで言葉を切ってしまった。沈黙は得意じゃない。けど話題が見つからない。
…………………
「僕はユキちゃんが好きだ」
あれ? こんなこと言うつもりじゃなかった気がする。
「私も、でもいまの状況で言われても正直困る。君を庇ってみんなを敵にまわしたくはない。君のことは好きだけど君一人とみんなならみんなのほうが大事」
僕はちょっと笑った。ユキちゃんのこういうストレートな物の言い方が好きなみたいだ。
「じゃあ僕は、強くなるよ」
「そう。頑張って」
用事を済ましたユキちゃんが教室のドアを閉めた。僕も帰ろうと思ってユキちゃんの机を横切ったら開きっぱなしのノートの端にガンバレって書いてあった。廊下にでてユキちゃんを探したけどもう居なかった。
あいつを倒そう。
僕は家からスタンガンっていうのを拝借した。昔、母さんが父さんに殴られた時に使っていたやつだ。タンスの奥に閉まってあったのを引っ張り出した。
学校までの道が遠い。足が震えてるからだろう。武者震いだ。ビビってるわけじゃない。自分に言い聞かせて、教室を開けた。
いつもみたいに教室は騒がしいはずなのに、あいつが笑ってなにかを話してるのしか目に入らなかった。断っておくが僕は喧嘩が弱い。めちゃくちゃ弱い。なぜならやったことがないからだ。母さんが殴られてる間、僕は押し入れに逃げるように言われてただそこで泣いていた。まともに殴りあいになったら絶対勝てない自信がある。
だから僕はあいつに近づいて何かされる前にスタンガンを押し当てた。
バチン!
稲光が爆ぜる。あいつが思いっきり仰け反って床の上に倒れる。僕はその上に馬乗りになってあいつをボコボコにした。みんなあんまり突然すぎて僕を止めることもせずにただあいつと僕のことを見ていた。
僕はホームルームのためにやって来た先生に止められるまで殴るのを止めなかった。
スタンガンは取り上げられてしまった。
僕とあいつは仲直りをするように言われて見張りの先生と一緒に教室に居残りさせられたけど、結局お互いに一言も話さなかった。
先生がたくさん説教をしてるみたいだけどそんなことは僕らの耳に全然入ってこない。
ついにはあいつの親が呼ばれてやってきた。僕はびっくりした。あいつの父親は僕の父さんだったからだ。
父さんは他人を見る目で僕を見て、あいつの手を取る。あいつが一瞬僕を振り返った。いつものあいつらしくなく視線に余裕がなかった。表情は強がってるのに。
先生が電話で連絡を取ってくれたけど母さんは仕事の都合で迎えにこれなかった。僕は一人で歩いて帰った。
母さんが帰ってきてから僕を抱き締める。痛いくらい強く抱き締める。
「理由があるの?」
「……うん」
嘘をついてるわけじゃないのに後ろめたくて僕の声は小さくなった。
「言いたくないの?」
「うん」
僕は俯いてしまう。
母さんは僕を抱いたまま「じゃあいつかちゃんと教えてね」と耳元で言った。声色でようやくわかった。母さんは気づかないふりをしてる。服の下の痣のこともみんな知ってる。僕が話すのを待っている。訊いてくれればいいのに。僕は思う。溜め込むのは辛い。でも言いたくない。実際、訊かれても僕は誤魔化してしまうかもしれない。ふと僕は母さんもそうだったことに気付いた。母さんも外で父さんに殴られてることを誤魔化していた。母さんは自分が訊かれたくなかったから僕にも訊かないんだろうか? 大人と子供は違うみたいだ。僕が父さんの気持ちなんてこれっぽっちもわからなかったみたいに。
次の日の朝に電話がかかってきた。あいつからだった。公園で会おうと言ってきたので僕は「いいよ」と答えた。もしかしたらあいつは怒って仲間と一緒に僕をボコボコにする気かも知れないけど、不思議ともうあいつのことは恐くもなんともなかった。
公園に行くと待ち合わせの時間よりも十分も早く着いたのにあいつはもう居た。すごいスピードでブランコを漕いでいた。スゴく楽しくなさそうな顔をして。
「やぁ」と僕は言った。僕はちょっと笑ってたと思う。
「やぁ」とあいつは言った。ブレて微妙だったけど。
僕はあいつの使ってる隣のブランコに腰かけた。
キィー…… キィー……
鎖の軋む音だけが公園に谺する。やがてブランコはスピードを落として、あいつが地面に足を擦って止まる。
「……お前のことは父さんから聞いてたんだ」
あいつは静かに切り出した。
自分が再婚した母親の連れ子であること。
肩身が狭かったこと。
僕がいかにダメかを父さんが語ること(余談だが「いじめられてる」というのは父さんの話からあいつが組み立てたイメージだったらしい。まったく失礼な話だ。……的中してるのが情けない)。
「俺は多分父さんの子になりたかったんだ。でもそれにはお前が邪魔だと思ってた」
「へぇ」
よくわからなかった。僕はあんな父さんの子になってよかったと思ったことは一度もなかったからだ。
「だけど違ったんだな」
あいつは続けた。
「俺は父さんの子じゃないけど、もう父さんの子だった。俺のこと迎えに来てくれたもんな。父さん」
「そりゃあよかった」
僕はテキトーに言った。照れくさそうにあいつは笑う。
「お前にボコボコにされて目が覚めたよ。……ごめんな」
僕はお守りにスタンガンをあげようと思ったけど、取り上げられてることに気づいてポケットに手を突っ込んだままにした。
いつもみたいに飯島が絡んできた時だ。
「やめろよ」
あいつの声だった。飯島は驚いた顔になる。「お前が始めたんだろ」とか二、三なにかを言った。
あいつはさらりと言う。
「事情は言わない。でも俺を敵に回したくなかったらやめろ」
飯島は怒ってたけどいまではワルグループの中心は飯島じゃなくあいつのほうだ。飯島は一人で立ち向かえるほど強いやつじゃない。
あいつは僕のほうを見てニッと笑った。僕は思わず目を逸らした。
ユキちゃんともまた話すようになった。
「ねぇ、あのとき言ったこと……」
「なにを言ってるのかわからないわ」
この平然と惚けてくるところがユキちゃんのいいところだ。……多分。
僕にフツーが戻ってきた。
破綻はあっさりと訪れた。
あいつが死んだ。
父さんがキレてあいつの母さんとあいつを殺して自殺したらしい。僕は父さんが自殺するほど殊勝な人間だったことに驚いた。
学校であいつの席が空なのを見て僕はあいつみたいになりたかったんだなぁ、となんとなく思った。優等生のくせしてワルっぽくて話が上手でよく笑う。
イジメられて、ボコボコにされて、ボコボコにして、やっと友達になったら、すぐに失って、
僕は少しだけ絶望した。
これから先もそんな風にして僕は大人になって行くんだろう。