第一章 霧の谷に響く不協和音
『ラプランティL――レベルゼロの魔法使いの弟子は奇妙な事件で悩みが多い』
〝The Sorcerer's Apprentice: Strange Case〟
第一章 霧の谷に響く不協和音
霧が谷を這う朝は、いつもより気が重いです。
神聖リヴャンテリ王国タスケスパラ辺境伯領の西の果て、誰も踏み込まない山の奥に、世界で八番目の魔法使い〈ラ・ユイティエム・ソルシエール〉――〈LHS〉の塔がそびえています。
大魔法使いは黒髪黒眼の美しい女性で身長は一七一センチメートル。村人にはボンキュボンと囁かれ、畏れと敬意を集めています。
ですが、ボク――〈LHS〉の弟子にしてレベルゼロの魔法使いの卵に言わせれば、気まぐれな嵐のような存在です。
「おお、弟子よ! 麗しき朝ではないか!」
お師匠さまの声が塔に共鳴して震わせました。
彼女が螺旋階段を舞い降り、赤いローブを優雅に翻しました。
ボクは長い緑髪を手で梳いて、翡翠色の瞳で見ました。身長一四三センチの華奢なボクに、お師匠さまの威圧感はいつも過剰です。
「お師匠さま、朝から騒がしければ、霧も逃げてしまいます」
ボクは朝食のスープをかき混ぜました。
ケラケラ笑う大魔法使いが腰を下ろしました。隣のテーブルには昨夜の実験の残骸――ヒビ割れた水晶、焦げた羊皮紙、緑色に怪しく光る液体――が散乱していました。
どう見てもゴミですが、ボクには調剤との区別がつきません。
「妾は些細な調合を試みたのだ、弟子よ。結果は、ほぼ些細な失敗に過ぎぬ!」
世界で八番目の魔法使い〈ラ・ユイティエム・ソルシエール〉が光る液体をさし示しました。それが昨夜、塔の屋根を吹き飛ばしかけたことは、記憶から消えているようです。
「お師匠さま、〈ササイ〉とは災厄の別名ですか?」
ボクは皮肉を返しましたが、大魔法使いは気にせずパンをかじりました。レベルゼロのボクに、大魔法使いの過失を正す力はありません。ただ、塔の掃除とお師匠さまの気まぐれに付き合うだけです。
ですがその朝、霧の谷に不協和音が響きました。村からの使者――使い魔の灰狼が、息を切らせて塔の門を叩いたのです。
灰狼によると「羊が空を飛び、井戸が詩を詠い、村は混乱に陥っている」とのことです。
それで村人の代わりに、灰狼がお師匠さまに助け(事態の収拾)を求めたのでした。
大魔法使いが優雅に頷きました。
「ふむ、興味深い。弟子よ、そなた村へ赴き、事態を収めなさい」
(……!)絶句。
お師匠さまの言葉に、ボクはスプーンを落としました。
「お師匠さま、ボクはレベルゼロです。魔法もロクに使えません。村の災厄を収めるなど、無謀ではありませんか?」
ボクの抗議に、お師匠さまが笑みを深めました。
「弟子の試練とは、かくも厳しきもの。行け、弟子。妾の名に懸けて、事を成せ」
世界で八番目の魔法使いの声が詩のように響きました。ですがその裏の「面倒を押し付けたい」という見え透いた本音は、ボクでさえ分かりました。
*
仕方なく、ボクは村へ向かいました。
霧深い山道を下り、木々のざわめきを聞きながら、ボクは考えました。お師匠さまの「些細な失敗」が村をこんな目に遭わせるなら、大魔法使いの大失敗は王国を滅ぼすかもしれません。レベルゼロのボクは、そんなお師匠さまに仕える運命を呪う(ふりをする)のでした。
村に着くと、噂は本当でした。羊が雲を追い、空を旋回し、村人たちが呆然と見上げていました。
井戸の縁では、水が詩を詠っています。
「おお、霧の谷、汝の真実は深く……」
吟遊詩人のような調子です。
村長がボクを見て、すがるような目を向けました。
「大魔法使いエラシェスさまのお弟子どの! どうか、この異常をお収めください!」
彼の声は震えていました。
「憂うな。世界で八番目の魔法使い〈ラ・ユイティエム・ソルシエール〉の命を受け、その弟子が事態を正す。――詳細を教えてください。何が起きたんです?」
ボクは胸を張り、お師匠さまの名を借りて威厳を装いました。
村長が、井戸の詩が聞こえ始めたのは昨日の夜で、今朝になって羊が飛ぶようになったと説明してくれました。
時間的に大魔法使いの調合薬が、こんな馬鹿げた結果を招いたのは間違いないようです。ボクは内心でお師匠さまを呪う(ふりをする)のでした。
調査を始めようとした時、馬蹄の音が響きました。
村の広場に現れたのは、赤髪碧眼の女騎士でした。〈観〉る――魔術で観察すると身長一八八センチ、体重八八・三六キロ、体脂肪率一二パーセント、BMI二五でした。とても健康的です。
彼女の鎧の輝きは魔術で磨かれたものです。腰の剣が持ち主の意に従って静かに唸りました。魔法剣です。
村人たちが息をのむ中、彼女はボクに視線を向けました。
「お前がエラシェスの弟子、ラプランティか?」
彼女の声は鋼のように冷たいですが、詩のように美しいです。
ボクは頷き、彼女の名を問いました。先に名乗らないのは無礼です。
「我が名はキムキス、〈不破〉の二つ名を持つ剣聖だ。タスケスパラ辺境伯の命を受け、この地に来た。異常の原因を探るが、お前の師匠が関与しているのか?」
聞き及んでいないお前のほうが悪いと問う彼女の目が、ボクの魂を貫くようでした。ボクは(ちっちゃいですが)さらに背筋を伸ばしました。
「大魔法使いの命により、ボクは村の災厄を正します。キムキスさんも、ボクといっしょに調べませんか?」
ボクの提案に、彼女はわずかに眉を上げました。
「フン! レベルゼロの小僧が、何を成せる?」
レベル1になって初めて杖がもらえます。権威の象徴を持っていないとすぐにバカにされるのが世の常です。
「だが良かろう。エラシェスの名に免じて、共に進むことを許す」
世界で八番目の魔法使いの称号は伊達ではありません。
「だが、我が剣は裏切りを許さぬ。覚えておけ」
彼女の言葉は、霧のように冷ややかでした。
(他に密命が……?)
先ほどボクは、彼女の背に辺境伯という重い影を〈観〉ていました。
村の広場で、ボクとキムキスは調査を始めました。
いまだ羊は空を飛んでいましたし、なおも井戸は詩を詠み続けていました。
ボクはお師匠さまの調合薬の痕跡を探しましたが、魔力があっても使い方がままならないレベルゼロのボクには、その手がかりすら掴みようがありません。すべては霧の中です。
「おい、お前!」
キムキスが剣の柄を握り、村人たちに鋭い質問を投げました。彼女の動きは舞踏のように優雅ですがとても危険でした。
「ラプランティ、お前の師匠はかくも杜撰なのか? この異常は、単なる失敗とは思えぬ」
キムキスが訊ねました。ボクは苦笑しました。前回のようなお師匠さまの失敗とは別だと言っているのです。
「お師匠さまの杜撰は、霧のごとく日常。されど、大魔法使いの魔法は深遠。――この混乱も、意図しない結果に過ぎないと信じたいです」
ボクの言葉に、彼女は鼻を鳴らしました。
「信じるか否かは、証拠が決める。我が剣は、ただ真実のみを求める」
彼女の言葉が、ボクの胸に突き刺さりました。レベルゼロのボクに、真実を見抜く力があるか否か。正直ボクには自信がありません。
霧が濃くなる中、ボクは一歩を踏み出しました。
井戸のそばで、ボクは詩を聞きました。
「おお、霧の谷、汝の真実は深く、されど光は闇を破る……」
その言葉に、ボクは何かを感じました。お師匠さまの魔法ではない、別の力がこの村に潜んでいるのではないかと。
「ラプランティ、何か見つけたか?」
キムキスの声が、霧を切り裂きました。彼女も同じことを感じたようです。剣に手をかけています。
「詩です。井戸の詩は、ただの呪いの残響ではありません。お師匠さまとは別の、魔法の匂いがします」
ボクの言葉に、彼女は頷きました。
「ならば、調べる価値ありだな。――進め、小僧。我が剣は、今はお前を守ってやろう」
彼女の笑みは、霧のように不確かです。
霧の谷に、不協和音が響きました。
*
羊が空を舞い、井戸が詩を詠う――お師匠さまの失敗が招いた混乱は、ボクを奇妙な事件の渦に引き込みました。キムキスという〈不破〉の剣聖とともに、ボクは真実を追います。レベルゼロの魔法使いの弟子に、こんな仕事が似合うとは思えません。ですが、霧が晴れるまで、ボクは歩み続けます。