Part6
ゆったりとした時の移ろいに、運動の疲れもあって、まぶたが重くなってきた。ちょっと昼寝してから、ゆっくり読むとするか。今日は時間が、たっぷりあるのだ┄┄。
血圧計を買って闘病の態勢を整えてから、一ヶ月の時が流れていた。
私は今、例のお気に入りの居酒屋にいる。仕事の帰りに、スポーツクラブに行こうとして、何となく気乗りせず、ここに久しぶりに来て一杯やってしまっているのだった。
酒は、いつものメガハイボール。真夏らしく、グラスの外側は濡れて、いくつもの水滴がゆっくりと下に落ちている。
つまみはスナップエンドウ、オニオンスライス、切り分けただけのかぶ。この店のメニューは呆れるほど豊富なのだが、塩分のことを考えると安心して食べられるのは、それくらいしか無いのだった。しかしながら、ついさっき塩分の高い主食を、私は過失気味に頼んでしまっていた。我ながら情けないものである。
真剣に考え、それなりの研究をして臨んだ高血圧症の治療は、ここのところ行き詰まっていた。
食事療法も運動療法も、すっかり飽きてしまったのである。
食事の方は、やはり生で野菜を食べるのがきつい。青虫に変身したのではないかと思ってしまう。麺類はスープやつゆを極力飲まなければ、普通に塩分を抑えられるのだが、いよいよ真夏を迎え、塩分の濃いタレに浸った冷やし麺をチョイスすることが増えて、それは難しくなっていた。定食は揚げ物ばかりとなり、フライはソースなしでも食べられるようになったが、天ぷらはダメだった。天つゆが付いてくると、つい使ってしまう。大根おろしをパッと散らした茶色いつゆに、天ぷらたちは抗うことなく吸い込まれてゆくのだった。
運動もダメになっていた。始めは週三回通っていたが、ここのところは週二回に減っている。筋トレによる筋肉痛もつらいが、何よりランニングに飽きた。マシーンに乗って、同じ所を走っていると、輪転機を回すモルモットを想起してしまう。もちろんそれなりの意義があることは頭で理解しているが、五分ぐらい走ると体が拒否し始め、やがてマシーンのベルトから降りることがしばしばだった。
そんなわけで、私の血圧は一向に下がらなかった。上は百四十台で、下が九十台。このままでは次の検診で、あの女医さんから降圧剤を処方されるのは必至だった。
「へい、お待ち」
店のお兄さんがやって来て、先ほど頼んだ料理を置いていった。新発売の、豚肉てんこ盛り太麺ソース焼きそばである。
新発売のメニューをチェックするのは、昔からの癖である。加えて、ソース焼きそばだ。焼きそばといえば、最近はカップ麺ばかりだったから、なおさら食いたい。塩分を減らすために、ビニール袋に入っているソースを三分の二ぐらいに調節して食べていたのだ。
私はメニューの写真を見た瞬間から記憶が飛び、気が付いたら手を挙げて注文をしていた。
様々な食材が溶け込んだソースの香り。まだ野菜しか食べていない、この夜の胃。がまんできるはずはない。ここからは掟破りの時間としよう。
箸で麺を多めに持ち上げ、ぐばっと口に入れる。あれ? 思ったより旨くない。というか、ちょっと塩辛い┄┄。
どうやら減塩したカップ焼きそばの味に慣れてしまっていたらしい。慣れというものは恐ろしいものだ。とはいうものの、一応最後まで食べてみた。おいしいという感覚は、最後までやってこなかった。
私は塩辛くなった口の中を、ハイボールとつまみの野菜で緩和した。野菜には、それぞれ調味料の小皿が付いている。スナップエンドウにはマヨネーズ、オニオンスライスにはポン酢、かぶには味噌といった具合だ。もちろんそれらは使わない。
んっ? 味噌? そういえば味噌って、どのくらいの塩分だったっけ。感覚的にはソースと同じくらいか、それより上┄┄。調味料については、ネットで調べ尽くしたつもりだったが、卓上に並んでいないこともあって、詳しく調べるのを忘れていたかもしれない。私はスマホを取り出して味噌のことを調べ始めた。
あくる日。私の高血圧に対する食事療法改が始まった。
牛丼チェーンの朝定食では、少々行儀が悪いとは思ったが、生野菜サラダを味噌汁にぶっこみ浸して食べてみた。少しやわらかくなり、ほのかに味噌の味がついて、大変よろしい。味噌汁は、久しぶりに全部飲み干した。気分が良かった。
昼は味噌カツ丼。夜は中華にしてホイコーロー定食を食べた。
なぜ急に塩分の高い味噌を食べ始めたのか。その理由は昨夜のネット探索で、衝撃的な記事を読んだからだった。
なんと味噌は、血圧の上昇に影響を与えないらしいのだ。それどころか逆に下げる効果さえあるのだという。ほんまかいな? 味噌の成分を細やかに分析し、ラットと人間で実験した結果だということである。ただ、その記事を発表しているのは、味噌の某大手メーカーだった。
そのメーカーが、減塩味噌も発売している点でかなり信憑性が疑われたが、私はその記事を全面的に信じることにした。信じる者は救われる。その記事では、味噌汁のことしか書いてなかったが、この際、思い切って記事の拡張解釈をして、味噌味の料理は血圧に影響を与えないと思い込むことにした。