Part2
ふうっと、大きな溜め息の音が診察室に響いた。女医さんは、心底困ったような顔つきをしていた。
「判りました。では、今回処方する薬は血糖の薬だけにしておきます」
そう言って薬の処方箋と、今日の検査の診断表をプリンターで印刷し、私に手渡した。診断表の総合判定欄には、『糖尿病』に加え『高血圧症』が新たに記載されていた。
それから女医さんは看護師さんの方を向き「あれをお願い」と言った。
「了解いたしました」
看護師さんは、診察室の奥にある両開きのロッカーを開いた。書類がたくさん入っている。彼女は、その中からメモ帳のような縦長の冊子を取り出した。それを私に手渡す。
表紙には、紺色の地に白い文字で『高血圧管理手帳』と書かれていた。
「血圧を毎日測って、この手帳に記録してください」女医さんは言った。
そんなめんどくさいこと、できるか。私は忙しいのだ。
「いくら測っても、それで血圧が下がるわけではないですよね」
「まあ測ってみてください。ではまた三ヶ月後に、お会いしましょう。お帰りになって、けっこうですよ」
「ラーメンのスープを飲まないだけでも、違いますよ。お大事に」看護師さんが言った。
はて。ラーメンのスープか。そう言えば、ラーメンのスープを飲むのは大好きだった。とりわけ最近は空腹を満たすために、ドンブリを持ち上げて、ずずいと飲み干していた。それがよくなかったか。
私は立ち上がり、処方箋と手帳をバッグに入れる。
「この近くに薬局って、ありましたっけ」
「ここを出て、道路を挟んだ正面にありますよ。最近オープンしたばかりですけど」看護師さんが微笑みながら言った。
受付で診察代を支払って、また次の予約をし、看護師さんに教えられたとおりに行ってみると、はたして住宅と住宅の間に小規模な薬局が有った。出入口の上の看板にピンクの文字で《トルちゃんファーマシー》と書かれている。
《トルちゃんファーマシー》という名前を見て少しためらいが生じたが、他に探すのも面倒だったので、私は薬局の中に入った。
若い女の薬剤師さんが、受付のところに独りぽつんと立っている。彼女の背後は倉庫のようになっていて、薬が所狭しと並べられていた。
薬剤師さんは、女医さんの顔に似ていた。女医さんを少し若くしたような感じだ。やはり、どこか子犬っぽい顔をしている。
処方箋を彼女に渡し、しばらくして薬が入った小さな紙袋を受取った。三ヶ月分なので、パンパンだ。これを全部飲むのか。私は、うんざりした。
帰り際、店の名前の由来を聞こうと思ったが、やめにした。トイプードルという単語が頭に浮かんできたからである。
数時間後、私は居酒屋にいた。串カツ屋とうなぎ屋が合体しているお気に入りの店だ。
そこでハイボールを飲みながら、高血圧に対峙する作戦を練っているのだ。といってもスマホで、高血圧に関する記事をひろい読みしたり、動画をチェックする程度だったが。
高血圧症は、血液の流れが悪くなってしまった病気だ。放置するとやがて動脈が硬くなって、心臓や腎臓などの臓器に負担が掛かり、重篤な病気を引き起こす。塩分の取り過ぎが主な原因らしい。取り過ぎても、塩分を排出する力が有れば、つまりおしっこで塩分を外に出せれば問題ないらしい。私の場合、その力が弱くなってしまったことになる。老化で。
「まったく。年は取りたくないもんだねえ」思わず、独りごちていた。
それはさておき、塩分┄┄。塩の入っていない料理など、この世には、ほとんど存在していない。塩分ゼロの食生活など実現不可能だ。仮にできたとしても、健康には、すこぶる悪そうだ。治療をしているはずが、逆に体を壊しかねない。では、どうするか。
ネットでは減塩食のレシピを紹介したものがあふれていたが、それは自炊をしなければ食べることができない。食器すら満足にそろえていない私が、無理して始めても長続きしないのは目に見えていた。
悩み続けている炭水化物にも塩分は含まれている。うどんやそばや中華麺、パンにだって。白飯は、さすがにゼロだが。これからは、ますます定食をチョイスすることが増えそうだった。麺類や丼物は塩分が多いのだ。
酔いが回ってきて、だんだん考えるのが、めんどくさくなってきた。
要するに、塩分を摂らなければ良いのだろう。看護師さんが言っていたとおりにしよう。まずラーメンのスープは飲まない。ラーメンだけではなく、うどんやそばの類いも。それだけではない。汁物の全ては具だけ食べる。これから暑くなる季節だし、クリアーできそうな気がする。冬場になってまで耐えられるかどうかは分からないが、それまでに血圧が下がればいいのだ。
それだけで何とかなるか。ダメなような気がする。┄┄そうだ。調味料のカットだ。既に味付けされている料理は仕方ないとして、食べる直前に自分でかける調味料は調節できる。私は調味料に含まれる塩分について、さらにスマホで調べた。
調味料の中では、醤油がダントツで塩分を多く含んでいることが分かった。ちょっと待て。醤油は日本人にとって魂ともいえる調味料だぞ。本当にカットできるのか。とりあえず、やるしかない。できなければ降圧剤と呼ばれる、いかめしい名前の薬が手ぐすね引いて待っている。