Part3(End of chapter)
指定された小ぶりの会議室まで赴き、ドアをノックして入る。
ブラインドされた窓から、朝の光が射し入っていた。
私は挨拶をしながら、テーブルを挟んで総務部長の正面に坐る。相変わらず、太っている。彼とは、あまり話したことはないが、その巨体は社内で嫌でも目に入るので、すっかりおなじみだ。
「えっと、河成経理課税財務担当チーフマネージャー。昨日は精密検査を受けられたそうだけど、結果はどうでしたか」
総務部長は、きれいな円形の顔に笑みを浮かべながら、舌を噛みそうな私の役職をすらすらと言った。ちなみに私は言えない。
「はい。糖尿病と診断されました」
私は続けて《ポンちゃんクリニック》での出来事を報告した。
「でっ、薬はもらってこなかったの。どうするつもり」
「はあ、食事で何とかしようかと」
「大変だよう。私も糖尿病を患っているけどね。とにかく大変。まず糖分を減らした食事をつくるのが大変なんだ。奥さんは協力してくれるって?」
「協力ですか。それは不可能でしょうね。私、独り身なんで」
「あっああ、そうだったっけ。じゃあ、自炊するんだ。大変だよう。料理が好きなんだ」
「いえ、ズボラなもんで。不器用だし。自炊は今まで、ほとんどしたことがありません。料理のセンスがないんでしょうね。食べることは好きなんですが。あっ、カップ麺ぐらいは作りますよ。たまに」
「┄┄ということは外食とかテイクアウトだけで何とかするつもり」
「まあ、そう考えてます」
「できるかどうか心配だな。うちの会社にとって河成経理課税財務担当チーフマネージャーは、大切な存在なんだから、倒れられたら困るんだ。これから決算だしね。今年も大変そうだけど、まあ、しっかりまとめてよ。それにしても、大変だよう。自炊しないで何とかしようなんて」
いくら何でも倒れるとこまでは、まだいってないだろう。私は苦笑いしながら、小会議室を出た。
朝食は二日酔いで食欲がなく抜いた。昼食は、いつも地下の社員食堂で食べているが、今日は定食にして、おかずと味噌汁だけにしようと思う。お米を摂るのは、やめだ。こんな調子でやっていけば何とかなるんじゃないかな。総務部長は、あんなことを言っていたけど。
私は一日休んだだけで、けっこう溜まってしまった仕事をこなすために、自分の事務机に戻っていった。
こうして、私の糖尿病との闘いが始まった。といっても炭水化物をできるだけ少なくする程度だったが。血糖値を下げるには、炭水化物の摂取量を今までの三分の一ぐらいにしなければならない。
ご飯は茶碗で軽く一杯が基本だった。今までは、どんぶりに大盛りが基本だったのに。
コンビニのおにぎりなら一個。二個だと摂り過ぎになる。惣菜パンもひとつが限度。もはやドカ食いはおろか、普通の人の量を摂ることも許されないらしい。
会社が決算の季節をむかえ、私の仕事も極端に忙しくなり、残業も増えた。当然のことながら、腹が減る。そんな中での糖質制限である。困難なことだった。
居酒屋での晩酌をすることが多くなった。ハイボールとつまみで空腹を満たすのだった。決算の仕事で残業も多く、夜遅いとなると、どうしても居酒屋に足が向かってしまう。ストレス解消の意味合いもあるにはあったが。
定食のご飯は注文するときに「ご飯少なめで」が、すっかり口癖になった。ご飯のおかわり無料! とかの店に入っての、これはきつい。腹が減っている時は、なおさらである。やっぱりおかわりして失敗してしまうことも、しばしばだった。
ドンブリも同じように、ご飯を減らした。大好物のカツ丼は「ご飯少なめで」と言うと、お店の人はちゃんとやってくれる。うっかりしてくれてもいいのだが。すっかりカサが減ったドンブリの中は、とじた卵とカツが、どでんと鎮座していた。具の量が増えたように感じられるが、それはむろん錯覚でしかない。
麺類は、減らすのが難しかった。せいぜい、今まで大盛りだったのを並盛りに変えたぐらいだった。わけても、そばは腹持ちしないから、そうするだけでも勇気が必要だった。
小盛り、中盛り、大盛り全てが同じ値段のスパゲッティ屋とかはきつい。今までは当たり前のごとく大盛りを食らって、ニコニコたいらげていたが、それはもはや思い出の中の出来事となってしまった。
餃子を食べる時は、ご飯を食べないようにした。餃子の皮は、けっこうな炭水化物なので、ご飯を食べると普通に摂取オーバーになってしまうからだ。
食事の満足感を得るために定食の焼肉をダブル、トリプルにする時もあった。その時も、ご飯は抜いた。肉にも炭水化物は含まれているからだ。我ながら涙ぐましい努力といって良い。
血糖値を下げるサプリメントは、いろいろ市販されているが、考えてみると薬を飲んでいることと、さして変わらないので手は出さないことに決めた。けっこう、お高いし。
こうして生活していくうちに、私のお腹は、ともすれば炭水化物を求めて鳴いた。その度に私は、やさしく手でさすってやった。がまん、がまんと言いながら。
そんなこんなで、常にすきっ腹をかかえて仕事に追われる春の日々が過ぎていった。