Part2
「あっ、どうしてここはポンちゃんという名前が付いているんですか」
私は振り向いて、気になっていたことを女医さんに訊いた。
こわばっていた女医さんの顔がニコッとなった。
「ポンちゃんは、わたしの青春そのものなの。いつもずーっと一緒だったの。医者になるためのとっても辛い勉強が耐えられたのも、ポンちゃんのおかげだったわ。あの子は癒しそのものだった。でも医師免許を取得した時に死に別れてしまって┄┄。わたしはポンちゃんのことを決して忘れたくなかった。だから、ここを開業する時にポンちゃんって名前にしたの。可愛いでしょ」
「ポンちゃんって?」
「ポメラニアンですけど」
私は彼女の顔が急に子犬のそれに見えてきたので、受付でそそくさと診察代を払い、次の予約を取って、足早に診療所を出た。
数時間後、私は雑居ビルの二階にあるコーヒーショップにいた。平日の昼下がりだ。今日は会社から休暇をもらっている。精密検査のために、朝から何も食べていなかったので私は行きつけのトンカツ屋にぷらっと入り、大盛りのカツ丼を食べてから、ここにやって来た。
テーブルには、ミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーがある。コーヒーは過剰なほど甘くして飲むと決めているのだ。
私は、それを一口すすり、バッグからスマホを取り出して糖尿病のことを調べ始めた。
わずらわしい広告が頻繁に出てくる動画サイトで、糖尿病の説明をしているものを、いくつかぼんやりと眺めた。イヤホンを持ってないので音は無しで。字幕だけで、けっこう判る。
糖尿病は一言でいうと、血液中の糖分が増える病気だ。だから何? という感じだが、ほっておくとやがて血管がボロボロになり、様々な重い病気を引き起こす原因になるらしい。腎臓が機能しなくなって人工透析とか、眼の網膜がやられて失明、心筋梗塞や脳梗塞┄┄。
何とかしなければならないのだろう。まずは炭水化物の摂取量を減らすところから、やってみるか。炭水化物って、米とか麺類とかパン、まあ主食ってことだな。主食┄┄。大盛り好きなんだよなあ。あと甘いものか。お菓子とかケーキ。これもちょいちょい食べる。これらを制限するとなると、不自由になるなあ。耐えられるだろうか。しなければ。
まずは目の前のコーヒーを、あきらめるところから始めよう。私はカップをテーブルの隅に追いやった。
お米や麺類は、大盛りを止めて並盛に。いやこの際、小盛にしよう。これは痩せられる気がするぞ。ダイエットになって一石二鳥だ。
さらにネットに散らばっている断片的な情報を深掘りしていく。
血糖値を下げるには摂取量を減らすだけではダメらしい。食後に血糖値は確実に上昇する。それを抑えることも重要らしいのだ。急激な上昇は血糖値スパイクを引き起こす。血管を痛めてしまうので、非常によろしくない。だが、どうやって抑えればいいのだ。
┄┄野菜を先に食べるといいらしい。次に野菜以外の肉とか魚。最後に主食の炭水化物。おいおい、食べる順番くらい自由にさせてくれよ。焼肉定食だったら、まず肉にかぶりつきたいだろ。ぐがっと野性的に。
そのほかジーアイ値ってのもあるようだ。ややこしくなってきました。ジーアイ値ってのは、各々の食品が胃の中に納まってから、糖に変わるまでの時間を数値化したものだ。その時間が長ければ長いほど、血糖値の上昇を抑えることができる。ジーアイ値はゼロから百の数字で表されていて、低ければ低いほど上昇が緩やかになる食品ということだ。
主食では中華麺が一番低いようだ。じゃあ、ラーメンばっかり食うか。待てよ。中華麺って炭水化物の量が多いぞ。つまり糖質が多い食べ物ということになる。血糖値の急上昇は抑えられるが、上昇した血糖値の高い状態が続くわけだ。どうしたらいいんだ。
私は、そこで思考停止の状態になった。コーヒーショップの窓から見える街の景色を、しばし眺める。
きりっとした早春の陽射しに照らされている街並み。私鉄沿線の駅が見える。ビルがひしめく繁華街。スーツを着たサラリーマンやジャージ姿の若者のカップルや、ゆっくり歩くおばあさん、学生服の集団などが行き交う横断歩道。そこには、いつもと変わらない日常があった。まったくなんで私は糖尿病なんかに┄┄。
まっ、血糖値の急上昇は、とりあえず深く考えないでおこう。ようするに炭水化物を一度に大量に食わなければいいんだろう。
私は立ち上がった。飲みかけのコーヒーが入ったカップを返却口の棚に置いて、それから喫煙室に行きタバコを吸った。
これから酒を飲みに行こうと思っていた。飲まなきゃ、やってられん。
最近は昼間からやってる居酒屋が、けっこうある。串カツ屋とうなぎ屋が合体している店にするか。いろいろ食えるしな。酒はハイボールにしよう。どんなつまみにも合うし。ビールは糖質が多いらしいから、とりあえずやめよう。つまみをたくさん食べて、主食は抜きにするぞ。いいな。一杯やるだけで糖質制限だ。これは続きそうな気がしてきた。
翌日。私は二日ぶりに出社した。少々、頭が痛い。まだ酒が残っているようだ。糖尿病になったショックで、メガハイボールを四杯も飲んでしまったのだ。
私の勤務先は、ゴミゴミしたビジネス街の一角にある。ビル一棟、全てが私の勤める会社なので、まあ大企業の部類に入るのかもしれない。
出社して早々、私は総務部長に呼ばれた。