Part1
私は《ポンちゃんクリニック》という診療所にいた。
名前は変わっているが、診察室の様子は、いたって普通だった。でかいモニターのパソコンが広々とした机に乗っかり、とってもやわらかそうなピンクの椅子に坐っている女医さんの背後には、直立した看護師のおばさんがいる。
うら若い女医さんは、ゆで卵をむいたような、つるつるっとしたおでこが印象的な顔をしている。
間もなく私の精密検査の結果が出ようとしていた。
一ヵ月前に受けた職場の健康診断の血液検査で、ヘモグロ何とかという数値に異常がみられたために、この診療所で精密検査を受けることになったのである。精密検査といっても、尿検査をしたり、体脂肪も測れる体重計に乗ったり、血液を小さな試験管に少量とられるだけの簡単なものだったが。
女医さんはモニターの画面を見つめながら、長い黒髪を勢い良くバサッと手で上げた。黒縁メガネの奥の瞳が、きついものに変わる。
「河成さん。あなたはこのままだと、いずれ血管が壊れますね。確実に」
「へっ?」
「あなたは糖尿病です。ヘモグロビンエーワンシーの数値が七・二です。まだ危機的な状況では、ありませんが投薬が必要なレベルですね」
いきなり糖尿病の宣告を受けて、私は狼狽した。
「ど、どうして、私がそんなことに?」
「老化ですね」
随分とあっさり言われたものだ。自分は今、五十七才だが、まだ老化が始まる歳ではないだろう。おそらく。
「ちょっと待ってください。糖尿病って血糖値で診断するのでは?」
「ああ、よく質問されますね。血糖値というのは、今、この瞬間の数値なので、これでは判断できないんです。その点、ヘモグロビンエーワンシーは、過去二か月間の血中に含まれる糖分の状態が現れている数値なので、通常、これで診断します。ちなみに河成さんの先ほどの空腹時血糖値は、百十三で、こちらも高い数値になってます」
「そんなものですか」
「ということで、投薬しましょう」
女医さんは明るい声で、言い放った。
「そうした方が、いいですわね」
彼女の傍らにいた看護師のおばさんが言った。
「いやいや、待ってください。糖尿病って太っている人が、なるもんでしょう。私は、どっちかというと痩せてますよ。何かの間違いなのでは」
女医さんと看護師さんは私を頭から足元まで、まじまじと見つめた。
「普通の中年太りと評して、よろしいかと」
「小太りといったところかしら」看護師さんも口を開いた。
さすがに失言だったかもしれない。
「糖尿病は、もちろん体型でなってしまう人がいますが、痩せていても、老化によってなる人もいるんです。その原因は、主に遺伝ですが」
「遺伝┄┄」
私は数年前に亡くなった母を思い浮かべた。たしか母はガリガリに痩せていたが、やっぱり五十代くらいの時から糖尿病を患っていた気がする。薬を飲んでいたのも覚えていた。
「ということは、痩せても治らないってことですかね。不治の病?」
「基本的には。血液中の糖分を吸収するインスリンの出が悪くなってしまったので」
「なるほど。じゃあ、そのインスリンとかの出が悪ければ、良くすればいいだけの話じゃないですか。それはどこから出てるんですか」
「膵臓ですけど」
「なあんだ。脳の奥の奥とか、ややこしい所から出てるんじゃないんだ。それ、やりましょう。インスリンの出を良くしましょう」
「残念ながら、一度悪くなってしまうと回復しないんです。なので、インスリンを外部から取り入れることになります。つまり──注射を、あなた自身で打つことになるんですけど、それでもいいんですか」
注射┄┄。しかも自分で? とんでもないことだ。まだ薬を飲んだ方がいい。
女医さんはフッと笑って、また口を開く。
「注射を打つのは、糖尿病が進行した患者さんがする療法です。河成さんは、まだそこまで悪くなってないので安心してください。投薬をしましょう。さっそく今日から」
「そんな。とにかく薬は飲みたくないです」
私は今まであまり薬を飲まない人生を送ってきた。風邪をひいて熱が出た時も飲んだことはない。というのも、若い時から頭痛持ち、腰痛持ちなのだが薬を飲んで痛みが和らいだという経験がなかったのだ。薬を信用していないのだ。
「しかたないですね。薬を飲まないとなると、食事制限と運動で何とかするということになりますが」
「それだ。やります、やります。飲まないで済むんだったら」
「きついダイエットみたいなもんですよ。服用した方が、楽に下がるんですけど」
薬は効くかどうか分からないし、効いたとしても副作用が怖い。もちろん安全性は確認されているかもしれないが、自分が飲むとなると、それはまた別の話である。
押し黙っている私を、しばらく眼鏡越しの瞳が見つめていたが、やがて溜め息をつき口を開いた。
「とにかく炭水化物の摂取を減らして、継続的に運動をしてください。タバコは吸われるんでしたっけ?」
「一日に十本ぐらいですけど」
「では、そちらもできるだけ控えてください」
「あのう、タバコは関係ないように思えるんですけど」
「あれは百害あって一利無しなの。血液はもちろん、ほかにも体に悪い影響を与えるものだから、この際やめた方がいいわ」
「はあ」
いろんなところで、そういう話を聞くがタバコをやめようと思ったことは一度もない。タバコには鎮静作用という立派な効用があるのだ。あの煙を吸っていなかったら、私の胃は人生のストレスで、とっくの昔に消失していたことだろう。
女医さんは、モニターの傍らにあるプリンターで何やら印刷をし、私に手渡した。今日の検査の診断表だった。総合判定の欄には『糖尿病』と、はっきり書かれている。
「では三ヶ月後に経過を見させていただきます。お帰りになって、けっこうですよ」
「お大事に」
看護師さんが抑揚のない声で言い、私を出入り口に案内する。