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新たなる旅立ちへ

「彩子…」

 筆を置くと同時に、目を閉じる。

 キャンバスに映る微笑みは、褪せることのない想いの表現。

 静かに蘇る愛しい面影…。



 年の瀬も近付いた寒い日曜日の朝。昭和という時代も、気付くと、とっくに半世紀が過ぎている。こんなに長く続いた元号ってあるのかなと、あたしは今更ながら思ってしまう。

 そして、考えてみると高校生活も余すところ三ヶ月。ほんのわずかな時間しか残っていない。

 焦る!

 もっと勉強しておけば良かった、とか…部活ももっとがんばれたはず、とか…。

 ん?あと何かあったかな…。

 まあ、いいわ。

 でも…。

「あっと言う間」だったように感じる三年間。普通の高校生として、楽しいことや辛いこともたくさんあったけど…。

 だけど…。

 あたしたちの学校にとって…そして何より、あたしにとってその「衝撃的な出来事」は、決して忘れられるようなものではなかった。いつまでも記憶の中に残る…いや、そんな生易しいものではない…頭の中のどこかに「こびり付いてしまった」ぐらい言えると思う。

 校史に残る汚点―。

 まさかの、学校内から「逮捕者」を出すという刑事事件。テレビ、新聞、週刊誌など「全て」と言っていいメディアに、あたしたちの学校は晒され、そして非難を浴びた。

 それはただ一人の「不心得者」がいたというだけなのに…。

 さらに、そこに「伊達健太郎」という世界的な有名人が絡んできたこともあり、報道熱は最高潮に達し、そのせいであたしたちは通学することさえままならない日が続いた。

 先生たちは動揺を隠すこともできず、ましてやあたしたち生徒も、その行き場のない気持ちを抱えて戸惑うばかりの毎日を過ごしていた。

 このまま、どうにかなってしまうのではないか…。

 きっと、誰もがそんな不安と苛立ちを持ちながら高校生活を送っていたと思う、明日も見えない日々は「絶望」という言葉の意味を感じたことさえあったかもしれない。

 しかし「人の噂も七十五日」とはよく言ったもので…。

 気がつくと「落ち着くべきところへ落ち着いた」っていう感じでいられるようになって…。

 そして、この慌ただしかった時間の中、あたしも少しは成長できたかなと考えるようになった。

 それは…。

「おーい、幸枝。まだ寝てるのか?」

 階段の下で呼んでる声がする。今朝は伯父さんの声で始まる。

「は、はぁい」

 あっ、いけない。寝過ごした?

 布団を跳ね除け、慌てて時計を見ると…。

「ええ、八時?遅刻っ!もっと早く起こして…」

 ん…あれ?

 今日は日曜日、よね…。

 なんか焦って損した気分。

 布団の誘惑に負けて、もう一度、今度は頭まで引き上げて被ってみた。

「天国ぅ…」

 身体全体が自分の体温に包まれていく。このままだと確実に二度寝に陥ってしまいそう…。

 でも、起こされたからには仕方ない。あたしは温まった布団の世界から、ゴソゴソと起き出そうとした。だけど、どうしても身体が引き止められてしまう。今から…十二月からこんなことでは、もっと寒くなる季節を乗り切れる自信がない…。

 それでも、なんとかその呪縛から抜け出すと、急いで着替えに取り掛かる。

 休みだから制服は着ない。セーターとジャージですます。でも、もうすぐお別れになる紺色のブレザーが掛かっている壁の方へもチラッと目を向ける。

「おはよう」

 そう言ってくれてる気もする…。

 制服とのお別れは、そのまま友人たちとの「さよなら」だ。けっこう仲が良かったクラスメイトとの別れは、やはり淋しく感じられるだろうなって、今から思ってしまう。

 卒業式には泣いちゃうのかな…。

 あたしは、得意な「朝から情緒不安定」になりながら、階段を降りると洗面所へ行って顔を洗う。それで少しはシャキッとすることもけっこう多い。

 食卓へ向かうと、漂ってくる朝食のいい匂い。

「おはようございます」

 ちょっと遅かったかな、と思いつつ顔を出すと、伯父さんは新聞を広げたまま、

「幸枝、ちょっと見てごらん」

 朝の挨拶もなく、あたしに読んでいた新聞を差し出してきた。

 あたしは慌てて来たまま、椅子にも座らず朝刊を手にした。

「え、何?」

 ちょっとドッキリ。

 寝ているところを起こしてまで、読ませたい新聞記事って一体…。

 それはいきなりの一面。見出しは…。

「え?国会で法案否決…」

 難しい話だ。高校三年生として、最低限の知識と興味を持たなければならない「政治の話題」として、追及されるのか?朝からどんなことを聞こうとするのだろう…。

 あたしの浅薄な社会的知識は、早くもギブアップ状態に陥ろうとしているが…。

「ちがうちがう…その下」

 笑ってる伯父さん。びっくりした…なんかいきなり何を試されるのかと思った…。

 すると…。

「あ、伊達さん?」

 あたしは、伯父さんが指差す「国会」よりも紙面の少し下の記事に目を向ける。そこに「伊達健太郎」の名前と、懐かしい気さえする顔写真を見つけると、心が震えるような思いになった。

「ああ、伊達健太郎。すごいな」

 新聞を渡してくれるその顔が、今度は優しい微笑みに満たされている。

 そう、一ヶ月ほど前の「出来事」で、その中心にいた世界的な画家である伊達健太郎。その人が載っている新聞記事…それも大新聞の一面に。

「ええと、これね。『伊達健太郎、世界美術賞特別賞受賞』…え、なにこれ?すごい!」

 あたし、思わず大きな声を上げる。

「あら、幸枝ちゃん。おはよう」

 あたしの声を聞きつけたのか、伯母さんが台所から顔を出してくれる。

「あ、伯母さん。おはようございます」

 突っ立ったまま新聞を読む姿は、駅で電車を待つサラリーマンのよう?

「ご飯よ。顔洗ったの?」

「あ…ああ、洗った」

 一瞬、顔を洗ったかどうかさえ忘れるぐらい、ちょっとインパクトのある朝のニュースだ。

「どれどれ、ニュースでもやってるかな?」

 伯父さんがテレビをつけようと椅子を立った。普段なら気にならないような朝のニュースも、身近に感じる人の栄光ある情報を、すぐにでも知らせて欲しいと思うのは身勝手かな…。

 ブラウン管が光を帯びて、画面が現れる。伯父さんがチャンネルを回してニュースをやっている局を探している。

 その間、あたしは新聞記事を読んだ。

 世界的モダンアートの旗手であり巴里在住の日本人画家の伊達健太郎氏が、フランス文化庁主催の「世界美術賞」で特別賞を受賞した。その授賞式が巴里の大きなホテルで行われる予定である。なお受賞作は―。

「『君がいた街』か…。きっと彩子さんのことね」

 あたしは伊達健太郎という男性が辿った運命の、その相手である中山彩子という女性を…あたしは会ったことも、これから会うこともない人…その人を思いながら描いたであろう絵を、心の中で想像していた。

 たぶん…。

「お、やってる。これか…」

「…」

 新聞には載っていなかった「その絵」が、目を向けたテレビの中で、いきなり大きく映されている。想像する時間など数秒だった。

 それは…。

「彩子さん…」


「あ、幸枝。テレビ見た?」

 早くからかかってきた電話は、あたしの幼なじみと言うか、小さいころからの「相棒」とでも言っていいのか、とにかく仲の良い友人の林とも子から。

 いつでも「情報」を仕入れるのは手際良く、そして的確だ。それ以上に、その情報を素早く喧伝することには、頭が下がる…いや、むしろ頭が上がらない。

「伊達さん?」

 今回もまた、伊達画伯の勲章の件でいち早くの電話だった。

「そうよ、幸枝。ちょっとびっくりよね」

 びっくり、か…。

 そういう言葉よりもむしろ、

「嬉しかったわよ」

 あたしはそう言い放つ。

 世界的美術家、なのだ。それぐらいの栄光を収めることなど簡単…とは言わないだろうが、でも不可能なことではないはずだ。事実、受賞したのだし。

「でも、あの絵の女性って…」

「彩子さん、よね」

「君」が「彩子さん」でなくて誰だというのだ、と言わんばかり。

「そうよね、幸枝。でもさ…」

「え、何?」

「私さ、ゲージュツには全く無頓着だからわかんないけどさ」

 とも子、何を言わんとしているのか?

「あれから…こっちであんなことがあってから巴里に戻ってさ、まだ一ヶ月ぐらいでしょ?」

「そうね…」

「そんな短い時間で、賞を取れるほどの絵を描けるのかな、って…」

 なるほど、それは言える。

「もしかしたらさ、ずっと前から描いてたのかなぁ」

「そうね、きっと…」

 以前から描き続けていた彩子さん。今回のことを機に、賞に応募したか…?

「だとするとよ、幸枝」

 相変わらず、この幼なじみはあたしの名前「幸枝」を連呼してくれる。もはや幸枝以外で…苗字でさえ呼ばれることも無い。よっぽどあたしの名前が好きなのかい。

「伊達さん、ずっと彩子さんのことを想い続けていたってことよね」

「…」

 言葉にならない…。

 一緒に巴里へ駆け落ちするはずだったのが、大変な「アクシデント」に遭い、それが叶わなかった二人。来ない女性を待ちながらも、すれ違ったまま十五年の歳月を費やしてしまった伊達さん。

 もしかすると、彼女の気持ちを疑ったかもしれない…それも一度や二度ではなく。そして、彼女のことを忘れ去ろうともしたんだろう。

 でも…でも、彼女の気持ちは伊達さんにあったままだった。そのまま、もう会うことのできないところへ行ってしまったのだ…。

 そしてまた、伊達健太郎の想いも変わらぬまま…。

 十五年経ってわかった事実は「中山彩子は伊達健太郎を愛し続けた」ということ。

 そして「伊達健太郎も中山彩子を愛し続ける」、そういうこと…。

 ただそれだけのこと…。

 何もわからない…人のそれを「愛」と呼ぶのなら、その温かさなどもまだ知らないあたしが、偉そうなことをしでかしてしまった中で、伊達さんとクラス担任の正木浩先生という二人の男性が、長い時間をかけて重荷を下ろすことに協力できたことだけ…それだけがまぎれもない事実。

 しかし…。

「またわかっちゃったみたいだね、伊達さんの彩子さんへの気持ちの深さ…」

「そうね…」

 なんだか少し、気後れしていた。

 よくわからないところで、いろんな知らないことが、あたしのことをどんどん追い越していくみたいな感じだ。

「ねえ…」

 あたしたちはこれから会う約束をした。電話で話すだけでは済まされないような、そんな気持ちが二人に共通していた。

「皆んな、呼ぶね」

「うん。ありがとう」

「あの件」で時間と空間を共有したクラスメイトたち。気がつくと離れ難い仲間として、身近に感じるようになっていた。

 同志たち?大袈裟!


 とも子の家は、あたしのうちからすぐ近く。歩いても五分ぐらい。だから部屋着のまま出かけてしまう。今日はジャージの上に半纏。女の子としてはまずくないか…まあ、いいか。

「こんにちは」

「いらっしゃい、幸枝ちゃん」

 とも子のお母さん。あたしが小さい時から知っているので、すっかり顔なじみ。いつでも優しく接してくれる。とも子によく似て丸顔で笑顔が温かい。

 勝手知ったる他人の家。あたしは玄関を上がると、ササっととも子の部屋へ向かう。

 一番近いあたしが誰よりも早く着いているはずだったが、なぜか他の皆んなが先に来ていた。

「お、名探偵登場。今日は金田一さんだな」

 あたしの格好を見て、真っ先に茶化してくるのが、クラス一番のお調子者で食わせ者・森崎伸司君。細くて背が高く、眼鏡の奥の(皆んなが言ってる)寝てるような小さい目。小さくて丸顔で目の大きいとも子とは漫才コンビのようだと、クラスでも評判のコンビネーション…だったが、最近少しだけ状況が変わって来ている。

 それは…。

「ねえ、幸枝。伊達さんの絵、見た?」

「え、ああ絵、ね。テレビでチラッとだけ」

 いきなり話しかけてきたのは、同じ女性なのに時々「ドキッ」としてしまうこともある、クラスで…いや学年でも…ううん、校内でさえも一、二を争う美人の石関麗子。目鼻立ちの整った正統派美女で男子生徒からの人気はおろか、先生にもファンがいるとかいないとか…。

 そんな彼女だが、最近どうも森崎君に心が傾いているような気がする。

 元々は森崎君が例に漏れず麗子に気があったと、あたしは見ていたのだが「あること」をきっかけにして、一気に好転してしまったようで…。

「とも子が言ってたけど、やっぱり前からずっと描き続けてたのかしら?」

「ううん、よくわからないけど…」

「だってずっと想い続けてた人、でしょ?」

「そうね…」

 あまり話に気持ちがのっていけない。

 あたしにはどうにも二人の様子が気になって仕方ないのだ。少し覗き見根性だけど、ね。

「だけどさ、十五年前に駆け落ちできなくて、それから伊達さんは気持ちが途切れたんじゃないかな?」

 横から口を挟んできたのはクラス委員で秀才の誉れ高い神谷聡君。「成績優秀将来有望」の熟語が並ぶ。色白でちょっと見は弱々しい感じだが、芯の通った真面目な男子だ。いわゆる「ガリ勉くん」ではない。

「そうよね、確かに。伊達さんもそんな感じでもあったみたい」

「でもよ、絶対に忘れていなかったって、そう言ってたよな」

「確かにな。教室で話してくれた時に言ってたな」

 本当は、以前に教鞭を取っていた縁もあり、世界的な画家である伊達健太郎が我が校の文化祭で講演をしてもらうという「ビッグイベント」が予定されていたのだ。しかし「その事件」が起きてしまったせいで、せっかくの講演会は文化祭もろとも中止せざるを得なくなったという経緯があったのだ。

 しかし、あたしたちのクラスでだけ話をしてくれるという「幸運な機会」に恵まれた。それは十五年という長い時間がかかった大きな宿命の結末を迎えることに、あたしが少しでも役に立ったからというだけではないと思う。

 一人の人間として、一人の男性に対しての「謝罪」の気持ちがあったのだと、あたしは感じていた。

 そして彼の、いや彼らの時計は再び動き出した…。

「はいはい、皆んな。どうぞ」

 少々しんみりしてきた雰囲気を破り、とも子がお盆にたくさんの飲み物やらお菓子やらを載せて部屋へと入ってくる。

「サンキュー!」

「どうもありがとう」

 あたしの部屋なんかよりもずっと広いとも子の自室は、彼女の他に四人の客人を迎えてもまだ余裕があるぐらいだ。ゆったりと絨毯の上に座り込んだあたしたちの前にお盆を置くと、部屋はちょっとしたパーティー状態に。

「ねえ、なんか気になったのよね…」

 持ってきたポテトチップスをまず頬張りながら、とも子が言い出す。

「いつから描いていたかってことよね?」

「違うのよ、麗子…」

 とも子が神妙な顔付き…ではないが、少しいつもと違う感じだ。

「お、林も名探偵か?」

「何言ってんのよ。幸枝だけで十分よ」

「だよな、お前には似合わないぜ。むしろ犯人だな」

「ホントうるさい!森崎、黙ってろ」

 どうも「森林コンビ」が始まってしまった。

 ふと見ると、どこか寂しげに見える麗子の顔。考え過ぎ、かな?

「何よ、何が気になるの?」

 見兼ねたのか、気に障ったのか、麗子が促す。森崎君に向けた時の顔と、やっぱり違う…。

「ああ、あのね。テレビでチラッとしか映ってなかったからなんとも言えないんだけどね」

「あの絵、彩子さんを描いてるんだよね」

「そうだと思うけど」

「『君』って呼ぶの、本当に親しくないと使わないような気がするの。伊達さんにとって、それが彩子さん以外の人であるとは思えない」

 そうだろうなぁ…。

「教師と生徒」から「恋人同士」になり、そして絵画の世界の中、どこかで「共闘者」でもあったのかもしれない二人。

 愛情だけでない、もっと多くのもので結ばれていたんだと思わざるを得ない。

「どっかで会ったことある人のような気がしたのよ…」

「え、彩子さんに?」

 もう会うことのできない人に会ったっていうの…?

 少し違う空気が流れてくるような気がして、寒さが増してくる。冬だというのに「そんな話」は、ちょっとなぁ…。

「違うわよ。あの絵の彩子さんに会ったことがあるわけないでしょ。誰か他の人よ」

 そうか…。

「そういえば俺たち、誰か彩子さんの写真でも見たやついるか?」

 森崎君の言葉に、あたしたちはお互いの顔を見合った。別にあたしたちの中に彩子さんがいるわけでもないのに、ね。

「幸枝は?」

 先般の件の「責任的立場の人間」として、あたしが選ばれたか?「告発の場」にいたのも、この中ではあたしだけだし、警察にも近い立場だから何かの機会があってもよかったかもしれないが…。

「ないわ。あたし結局、彩子さんの写真も見なかったんだわ…」

 いまさら…。

「正木さんに当たってみっか?」

「やめようよ、それは…」

「そうか…そうだな…」

 お調子者ではあるが、人一倍のおセンチな彼。そこが麗子の琴線に触れたと思っているのだが…。

 彩子さん…中山彩子という女性を巡り、辛い気持ちを味わうことになった正木先生。その先生に「彩子さんの写真を見せてください」とか言うのは、あまりにも情のないことだ。

「俺たちには、その絵の中の人が彩子さんの全てっていうことで」

「なに一人で締めようとしてるのよ、森崎」

「あ、でもいいわ。素敵…」

「そ、そうか…」

 また株を上げ、やに下がる森崎君だ。

「でも、どこかで会ったことがあるっていうことは、誰かに似てるってことよね?」

「まあ、そういう考えが正しいだろうね」

「そうよね、神谷君」

「でもさ、林。誰かって言ったって幅が広いからな。身近な人だけじゃないし…」

「え?」

「芸能人とか有名人とか…テレビで見た人かもしれないよ」

 秀才の神谷君の意見は論理的で当を得ている。

「そうか…そうね…」

 なんとなくまとまりのない結論のみ、あたしたちの中で生まれると、その後はいつものように大騒ぎの日曜日の午後だった。


「へえ、そうか。皆んなでそんなことを思って話していたのか」

 晩酌をする伯父さんに、とも子の家であった三年二組の「元探偵団」の会話の内容を伝えた。

 ただし、最初の方の真面目な話だけで、後半の大騒ぎは割愛させてもらったが…。

「幸枝たちも高校三年になって、いろんなことを考えるようになったんだな」

「ええっ?」

 もっと前から考えてました…とも言えないか。

「それじゃあ見てみないとな」

 まるで朝の再現のように、伯父さんがテレビを点けに立ち上がる。いつか手元でスイッチを入れられ、チャンネルも変えられるような操作ができるようになるといいなぁ。

「お、ちょうどいいな」

 伯父さんのテレビに対する勘って鋭いのか、すぐに伊達さんのニュースが目に飛び込んできた。

 朝のニュースと同じような原稿を、違うアナウンサーが読んでいた。画面には伊達さんの、これも朝と同じ写真が映され、そして…。

「彩子さん…」

 それは絵だ。テレビ画面の中に映された絵なのだ。

 でも、あたしはなんだかそこに生きている人のように呼びかけてしまう。

 朝に見た時よりも時間をかけ、そしてズームアップされた「君がいた街」、そしてその絵の中で微笑む彩子さん…。

「誰かに似てるのか?」

 画面を見ながら伯父さんがつぶやく。

 それはあたしにでもなく、ただ自問自答の声。

「どこかで見たような気がするわね」

 台所で片付けを終えた伯母さんが居間に来ると、テレビを見ながら話しかけてくる。

「本当?」

「この絵、なんだか懐かしい気がするわ」

「懐かしいの?」

「そうだな、そんな感じだなぁ」

 伯父さんも賛同。

 伊達健太郎画伯の絵は、遠く離れた日本の片隅で、たぶん誰も考えていない「ささやかな疑問符」が付けられたようだ。

 すぐにテレビの画面は切り替わる。プロ野球球団の大型トレードのニュースが始まり、伯父さんはあっという間に気持ちも切り替わったようだ。

 あたしもスポーツは嫌いじゃないけど、今はただ緩やかに流れてくるような、優しい小川のせせらぎの音に耳を傾けるみたいな気持ちで、伊達さんの絵を考えてみたかった。

 うん、いろいろなキーワードが出てくるけど…。


 さて、あまり月曜日は好かれている曜日ではないと思う。一週間の中で一番、好かれていないはずだ。学校が本当に嫌いな人もいないわけではないだろうが、好きな人だって休み明けに登校するのはなんだか気が重いはずだ。

 あたしも月曜日の、それも朝は憂鬱になることが多い。

 でも、今日はなんとなく学校へ行くのが少しだけ「興味深く」思っていた。

 それは…。

「ねえ、とも子。正木先生、どんな顔してるかな…」

「ちょいちょい。幸枝、あんたねぇ…あんだけ皆んなで、あんまり彩子さんのことは口にしないように言ってたのに、何よ」

 それはそうだけど…。

「幸枝があの件で殊勲賞なのはわかってる。でもね、それとこれは別よ」

 もうすぐ別々になるだろう、幼稚園からの付き合いのとも子。長く続いた同じ登園、登校の道を今日も同道しながら、あたしたちはいつも通りの会話をしながら歩いていく。

 でも違うのは、あたしの少しだけ言い過ぎた言葉に、とも子は強めの戒めをくれたこと。

 友であり、そして時には姉でもある彼女の、それは優しさであり強さでもある。

「そうだったわね…ごめん」

「謝んなくってもいいよ。あんただってバカじゃないから、軽率なこと言ったりしないの、わかってる」

 突き飛ばしてきても、必ずいつの間にか後ろで支えてくれている…それが親友。

 今日も朝から思い入れが多いようだ。


「よぉし、席に着けぇ」

 担任の正木浩先生。

 朝のホームルームの時間から元気一杯。

「皆んな、伊達健太郎先生が世界美術賞で特別賞を受賞したの、知ってるな」

「…」

 誰よ、余計なこと言ったりしないようにって…。

「テレビで見たか?あの絵。『君がいた街』。素敵な絵だな」

 もう何も言わない。

「あの絵に描かれているのが中山彩子だ」

 そう言うと、今まで見たことのないような「嬉しそうな笑顔」を見せる先生。

「幸枝。昨日、何言ってたっけ、皆んなで」

 隣の席の麗子が半ば呆れ顔で声をかけてくる。

 ここで声をかけてくる時、いつだって「小声」なのに、今は完全に普通の音量だ。遠慮がない、っていうか聞こえるように言ってる感じ…。

「絵も素敵だが、実物の彩子はもっと綺麗だ…」

「ええっ…」

 麗子や他の女子が何人か、悲鳴のような歓声をあげる。

 嬉しそうに話そうとしていた正木先生は、次の瞬間にこうべを垂れた。肩が震えているのがわかる。

 それは…。

「先生、わかるよ!」

 すると今度は我らがエンターテイナーの森崎君が立ち上がり、大声で叫ぶ。

 彼を見たあたしは、その目に涙が浮かんでいるのもわかった。

 すると…。

「森崎君…」

 隣の席で麗子も目を潤ませている。やはり彼女の森崎君への想いは本当のようだ。

 でも…。

 どうしたの、皆んな?

 なんだか、いつからかクラス全体がおかしい…っていうか、感受性が強まり過ぎてる気がする。

 何気ないことで気持ちが大きく振れていくのが多くなってきた気がするのは、あたしだけが感じているのだろうか…。

「あの事件」以来だ―。


 一日中、変なムードでいっぱいだった我が三年二組。放課後になって、あたしたちは顔を見合わせた。やっと…。

 もう一度、おさらいだ。

「向こうから白状してきてくれた。やっぱりあの絵の女性は彩子さんだった」

 森崎君が口火を切る。

 朝から株を上げたからか、その顔は自信に満ちている。麗子だけだったかもしれないけど…いや、それで十分かな?

「でも、あんなに自慢げに話せるなんて…。やっぱり幸枝がしたことで、先生は変わったのね」

 麗子…それはどうだか…。

「いや、そうだよ。最近の正木さん、ちょっと変わったよ」

 秀才の観察眼も鋭い。

「だけどさ、あの絵の人が彩子さんだったことがわかったけど、でもまだ解決していないわよね」

「何を解決すんだよ」

「何をって、決まってるでしょ!」

 低めの鼻を精一杯、高く上げて踏ん反り返るように、

「『君を探せ』よ」

 言い放ったとも子。

 誰も賛同も反論もしない…っていうか、反応しない。静かで冷たい空気が支配する。

「…よくわかんねぇ」

 仕方なく、か。コンビの片割れが相槌を打ち。

「なんでよぉ!だってさ…」

「とも子、要するに…」

 あたしもちょっと「助け舟」。

「昨日から言ってた『似てる人』が誰か、それを知りたいわけよね?」

 たぶん、そうなんだろうな…。

「そういうことっ。幸枝、よろしくっ」

 なんであたし?

「名探偵幸枝の事件簿その二、よ」

 事件簿って…。


 いきなり言われても…。

 でも、考えてみよう。

 あたしは家に帰ってから、夜寝る前にベッドの上で座り込むと「メイ探偵」として、頭を働かせてみた。もちろん、なんの「思考的行き先」など見えもしないのに、だ。

 夕刊に伊達さんの記事と、それに「君がいた街」の写真も掲載されていたから、あたしはもう一度、今度はゆっくりと拝ませていただいた。

 新聞なので残念ながら載っている写真は白黒だ。早く新聞もカラー写真が載るような時代が来ればいいな、と余計なことも考えてしまう。

 階段になっている坂道の途中で、降り仰いで笑顔を見せている女性―彩子さんが、優しいタッチの筆使いで描かれている。この場所はおそらく「モンマルトルの丘」の近辺なんだろう。新聞の解説にも書かれているし、よくテレビでも見る所だ。白いサクレクール寺院が象徴的な「坂の街」だと思われた。行ったこともないけれど、なぜか懐かしい気もする。

「うん、素敵…」

 朝に正木先生が言っていた言葉を思い出す。

 でも素敵なのは「絵」であり「彩子さん」であり…でも、あたしが一番に感じるのは…。

「伊達健太郎の想い、ね」

 あたしなんかでも…こんな女でもわかる、伊達さんがこの絵を…この人を描いた絵を…いや、この絵の人へ寄せた想いの深さを…想いの強さを…優しさを…。

 だから、この絵の女性は誰かに似てるって、それはもしかすると…。

「え、何?何よ、それは!」

 思いついたあたしは夕刊を振り払い、さらにはベッドから飛び上がるようにして、まだ更け切らない夜の時間、とも子へ電話をかける。

「幸枝、あんたね…いいわ、確かに考え方っていうか、そういう気持ちもあるかもしれないわ。でもね、今の段階でそんな結論に至るなんて、私ゃ許さんよ」

 あたしは感じたまま、率直な考えを言った。

「そうかなぁ…」

「当たり前よ!何考えてんのよ」

「いい考えだと思ったんだけど…」

「明日、皆んなに言うのはやめなさいよ」

「はぁい…」

 怒られた、どやされた、けなされた…。

 そんなに悪い考えだったのかなぁ…。

「天使、でいいじゃない?」

 電話を切った後、一人つぶやくあたし…。

 彩子さんは天使―。

 二人の男性にとっての…。


「幸枝も少し感受性が豊かになってきたのね」

 笑われた、失笑された、爆笑された…。

 あんだけ「皆んなに言うな」って釘を刺してきたとも子が、自ら進んで吹聴した。

 朝からあたしは不愉快だった。

「ああ、前だったら言わなかったよな。天使か…」

 もう知らない!

 それはクラス中の「笑い者」。

「ん、どうしたんだ?楽しそうだな」

「先生!」

 これこそ今までだったらあり得ない、いきなり後ろの扉を開けて笑顔で顔を出してくる正木先生。ホームルームの時間にはまだ早く、誰も席になんて着こうとしていない。

「あ、先生。実は幸枝がね…」

「とも子っ!」

 あたしの制止など聞く耳を持たず、今までの経緯を含めて「天使発言」を報告しやがる。

 ところが…。

「そうか…お前もそんなことを言えるようになったんだな」

 まただ…。

 あたしって一体…どんな女だったと言うのか?

「そうか、わかった。林の疑問ももっともだ。俺が解答をしてやろう。今度はお前に探偵役を回さんぞ」

「…」

 あたしのことを見ながら、得意げに話す先生。こんなに弾けるように話す正木先生の様子を見るのも初めてだ。

 やっぱり変わってきたんだな、あたしの周りの皆んな。あの秋のことがあってから…。

「放課後、集合!」

「え、どこに?」

 森崎君の疑問に、しっかり応える先生。これこそあり得なかった笑顔にウインク(よね?瞬き?)で…。


「さて皆さん、よくお集まりいただきました」

 もう「変わってきた」を通り越している正木先生のテンション。「変わり者」とも思える。

 ここは先生にとっても「思い出の場所」と呼んでいいのか、それとも「苦渋の地」と言うべきなのか…それは放課後の美術室。

 先生の情動に流されたわけではないだろうが、今日出席していたクラスメイト全員が集まって、さながら課外授業か補習授業のようだ。

「一度言ってみたかったぁ。お前だけが名探偵じゃないぞ」

 またもあたしのことを見ながら、嬉しそうにはしゃぐ顔は子供のようだ。

「先生…もういいです」

 あたしは居場所をなくしつつあるように感じてきた。

「ゴホン。ええと、林があの絵を見て誰かに似ていると言っていたそうだが」

「そ、そうです。どこかで見たことのある人だなって…」

 とも子さえ、先生のハイテンションに乗り遅れ気味だ。

「美術室って、誰かの絵ですか?」

「おう神谷。さすがだな。お前もいいセンスしているな」

 なんのセンス?

 そういえば、神谷君は「誰か有名人とかではないか?」と言っていたが…。

「こっちだ、来てみろ」

 いつの間にか、今度は学芸員にでもなったような雰囲気の正木先生だ。

 そして指し示すのは美術室の奥にある準備室。

 そう言えば…。

「ねえ、ここって…」

「うん、そうだな」

 麗子と森崎君の、今や「カップル寸前」と、あたしが勝手に想像してる二人がささやき合うのが聞こえる。

 それはあたしだけでなく、集まったメンバー全員が思っていることではないか?

 どこにでもある「学校の七不思議」とか「学校の怪談」とか、そんな言葉で括られるものも、ここには少しだけあるようだが、その中でも随一の「ミステリー」とも言えるのが…。

 夜中に美術準備室に明かりが灯る―。

 そういう噂。

 嘘か真か、そんな話が聞かれること度々。それも近年になってかららしい…。

「あの件」が明らかになってからは、正体が「彩子さん」などと言う人もいるようだが、あたしはその意見に反対だ。さすがのあたしでも…いくらなんでも、そんなデリカシーの欠片も無い結論にはたどり着くことができない。

 しかし、なんにせよ「噂の美術準備室」にあたしたちは足を踏み入れようとしていた。

「さあ、入るぞ」

 決して「心霊スポット」などとは思いたくもないが、それでも少し躊躇しそうになる。

 けれど「除霊師」ではないが、正木先生の勢いにつられて、皆んなでぞろぞろと入室していってしまった。

 扉を開いて中へ入ると、そこは魔界…ではなく、窓からの明かりも少なく、大きさは美術室の半分ぐらい。絵画の道具などが所狭しと置かれてはいるが、見た目にはごく普通の部屋だった。

 今まで三年間近く通学していたが、足を踏み入れるのは初めての場所だ。やはり、どこか「異世界」のようなものを感じてならない。

「これだ。これを見なさい!」

 先頭に立っていた先生は、入って右側にある壁面を指し示した。

 そして、あたしたちが見たものは、その壁一面に天井までいっぱい掲げられた絵画の数々。

「うわぁ…」

 声にならない歓声が上がる。

「これって…」

「そう、今まで在籍した美術部の生徒が描いた絵…いわば我が校のコレクションだ」

 あたしたちは…少なくともあたしは、高校に入ってから美術が選択科目でなかったから、美術室へさえ入ったことは滅多になかった。だから、こんなにも多く、歴代の美術部員の先輩方の作品が、その奥まった部屋に残されていたとは…失礼ながら知る由もなかった。

「わぁ…」

 麗子も感嘆の声をあげる。他のクラスメイトも、知らずにいた人が多いようだ。

 キャンバスは大きなものはない。「何号」とか知らないけど、新聞紙の片面かその半分ぐらいのサイズのものばかりだ。いかにも「県立高校の美術部員の作品」といった感じだ。

 そして、それは人物だったり風景だったり、ほとんどが油彩画と思えるが、中には水彩画の静物や墨絵のような雰囲気の風景画もある。全部で五十点ぐらい、いやもっと多いかしら。とにかく、見る人が限られる場所にこんなにもたくさんの作品が眠っていることは、驚きを感じないでいられない反面、多くの人が見られないということで少し残念な気もする。

 あたしは…美術に造形の深くないあたしは、それでもこれらの作品が持つ「エネルギー」とか「パワー」とか、そういったもになんとなく触れて、少しだけ圧倒された。

 でも、なんだか神秘的なムードで、自分の学校にこんなにも素敵なものがあるなんて、ちょっと嬉しいかも…。

「あ、これだ!」

 とも子が声をあげた。

「そうだ、林。この絵だぞ」

 皆んなの注目が集まる一枚の絵、それは…。

「彩子が描いた自画像だ」

 誰もが注視する中、あたしはふと、その絵よりも正木先生の表情が気になった。

 どことなく自慢げで、それでいて淋しそうな顔。心の底から生徒に誇り切れないような…そんな切ない気持ちが、なんとなく伝わってくる気がした。

 でも、あたしも(失礼ながら)正木先生の顔はどうでもよくなり、その絵の方をあらためて見てみた。

 たくさん掲げてあるキャンバスの中、中央右寄りの上部にその絵はあった。

 他のものと変わらない大きさのその絵は、自画像ということで正面からこちらを見据えている構図だ。あたしも着ている制服を身につけて、柔らかく微笑みながらも、凛とした感じで見返している。そこはかとなく漂う暗さのあるタッチの中に、差し込んでくる光があるのも感じられた。

 そう言われて見ているからだけでなく、なんだかひと際、輝いて目立っているような気がする。

 絵の下の方に目を向けると「SAIKO」とアルファベットで示されている。それが、この絵の「サイン」ということになるのだろうか…。

「彩子さん…」

 知ってから…その運命の行く末を知らされてから、初めて感じる彼女の、それは息吹か温もりか…。

 そこにいる…いや、それはただの絵であるけれど、でも少しだけ…ほんのわずかだけでも得られるその人の存在。

「誰だろう…ホントになんか見たことある気がする」

 え?

 ここまでの正木先生の、それは言ってみれば「栄光への道のり」だったはず。しかし、それを事も無げに踏みにじるような、とも子の言葉。

「おい、だから林。この絵を見て伊達さんが描いた彩子を…」

「違う。だって初めて見たもの、この絵…」

 フリダシニモドル―。


 正木先生の自慢げでいた表情が、一気に落ちていった美術準備室。

「ダメだ。やっぱり名探偵はお前に任せる…」

 よくテレビドラマの登場人物の中で、とっても意地悪っぽい人が、だんだんとフレンドリーな存在になっていく描写があるけれど、ここ数ヶ月の正木先生はまさにそれを体現していると思う。いや、元々は決して意地悪な方ではないけれど、それでも厳しくお堅い先生のイメージだったが、気がつくと少し…いや、かなり緩い感じになっている気がしてならなかった。

 その要因は、どこかに「彩子さんとのこと」があったからなのかもしれない。その「重し」が、先生の心を長い間、締め付けていたから、本心を…明るくてあたりの良い性格を曝け出せずにいたのかもしれない。

 そう、哀しい結末は正木先生も伊達さんも、深く傷つけたと思う…でも、その分だけ「新しい時間」を得られたんじゃないかしら?正木浩も、覆っていた「黒雲」を吹き飛ばすことができて、本来の「青い空」が見えてきたんだと思うの…。

 今まさに、その具体的な例を示していた。

 明らかに「落胆した」という言葉を、わかりやすく見せてくれている。それまでだったら、こんな表情を見せようとはしなかったはずだ。

 どこか、子供のような感じ…。

 きっと、自分がかつて愛しく思っていた人の絵を自慢しつつ、とも子の疑問も解き明かそうとしたんだろうな…って、勝手に思っていたけど当たっていたみたい。

「じゃあ、誰なんだ?あの絵を見て連想したのは…」

 なんか投げやり…。

「え、でもよくわかりません」

 数学の授業で難しい問題を投げかけられた時のようだ…そういえば正木先生、数学の先生だった。

 正木名探偵の時間は終わりにしよう。そう、彼は数学の教師なのだ、私立探偵ではない。

「あたし…気がついた」

 あたしの言葉は…意見は「あの時」から、皆んなの間では重きを得ているようだ。だから今も一瞬で静まり返る。

「似てる気がします。この絵と『君がいた街』…」

 静寂―。

 誰が破るの、この時間…。

「おいおい、そりゃそうだ。幸枝らしくねぇな、当たり前だろ」

 やはり、森崎君…。

「幸枝。天使だったり、ちょっと変」

 新しい相方の麗子。

「お前な、同じ人が描かれてるんだ。それも大画家と…その、一番弟子だぞ。似てないはずがない」

「弟子」かぁ。ここではそう言うのね。

 あたし、見回して探す人。

「あ、鈴木君。ちょっといいかしら」

 現役…は、退いたから元美術部員の鈴木君を呼んだ。どうも美大を受けるらしい…って、皆んなが言ってるから、きっと将来は伊達さんみたいな方面へ進むのね。

「なんだい?」

「鈴木君、君がいた街って見た?」

「ああ、見たよ。伊達健太郎の描いた絵を見逃すわけにはいかないもの」

 普段から大人しい美術部の鈴木君に、あたしは質問した。

「じゃあ、あたしあんまり美術について知らないから教えてください。この絵と君がいた街って、なんて言えばいいのかしら、タッチとか雰囲気とか…似てない?」

「ええっ?」

 別に犯人を問い詰めたわけじゃあない。ただ「不確定要素」を確認したくて、鈴木君に問いかけただけだったのに…。

「ちょっと待ってよ。それって何か問題でもあるわけ?」

 ええっ、そんなこと言ってないのに…。

「違うわ。ただ、なんとなく雰囲気が似てる気がしたから…」

「なに、幸枝。何が言いたいのよ?」

「別に…。ただ、あたしの疑問を解いてほしいだけ…」

 麗子に、する必要もない弁解をしてるような気がした。

「おい、なんか彩子の描いた絵にいちゃもんでもつける気か!」

 正木先生まで…っていうか、あたしだって正木浩の生徒の一人よ。

「違います。とにかく、二つの絵の感じが似てるって思っただけで、それを鈴木君に確認してみただけのことです」

「で、鈴木。どう思うんだ」

 恫喝?

「え、え?わかりません。でも、お二人は先生と生徒だったんですよね?」

「ああ、そうだ。それですんでりゃよかったんだ」

 それ、今になって言う?

「だったら、弟子が師匠のタッチとかに似てくることなんてあると思います」

「そうだな。確かにそうだ」

 どうして自慢そうな顔?

「と言うことだ。どうする、名探偵ドノ」

 ふう…。

「ですから、誰も問題視などしていません。今、鈴木君の言ったことも当然のことだとは思いますよ。ただ…」

「なんだ?」

「ごめんなさい」

「?」

 どうしてだろう…謝りたい気持ちだ。

 知らずに…知らせずにいてもいいのかもしれない、その方がいいのだろう…そう思ったから、だから謝りたくなったのかも…。

「似てるって…ただ、そう感じてるだけかもしれないんですが…」

「だから、何が?」

 集まった皆んな、シーンとしている。

 あたしと、担任の先生とのやりとりを、たぶん落ち着かない気持ちで見ているのだろう。

「表情、です」

「表情?」

「君がいた街の中で見せている彩子さんと、ここに飾られている絵の表情が、同じような感じで…。なんだかすごく、あったかいような…くすぐったいような、そんな気持ちになるみたいで…」

「だから、天使?」

「うん、麗子。そうかもしれない…」

 あたしはそう答えた…今はそれが回答。

「そうか、なんとなくわかったよ」

 なんとなく?

 うん、でも確かにあたしもなんとなく、だ。

 そんな、やや尻切れトンボ的な空気が漂っている集会は、もうお開きでもいい頃だ…。


 美術でなく、あたしと同じ音楽の選択をしたとも子。もちろん美術部でもないから、

「美術室、入ったのって…入学して初めてだもん」

 ましてや美術準備室など、入る機会があろうはずもなかった。

 そう「大どんでん返し」をして、スマートに収めようとした正木先生を、見事にへこませてしまった。

 とも子は以前にこの彩子さんの「自画像」を見たことがあった、だから君がいた街を見て「誰かに似てる」と思った―それが正木先生の明解な結論のはずだったのに…。

 またしても、いつだったか以来の「落ち込んだ姿」を見てしまったあたしたちは、かわいそうにも先生一人を残して解散となった。

「ねえ、幸枝。あんた何か他に考えてることがあるんでしょ」

 下校途中の道すがら、とも子が聞いてくる。

 うん、鋭い…。

「まだよくわからないけど…」

 それは靄の中にいる自分。歩いていくと―危険はないはずだけど―どこへ行くのかわからない不安に襲われている感覚。

 知らなくていいことで、知ろうとする必要もないはずのこと、なのだ。

 でも…。

「とも子は、誰に似てるって思ったんだろうね」

「あの絵?うーん、わかんない」

「天使、でいいよね?」

「もう、笑わないわよ」



 苦悩していた。

 果たして良いのか…間違いを犯したのではないか?

 伊達の元へ届いた一報。

「世界美術賞特別賞を贈呈する」

 フランス文化庁からの連絡、それは伊達にとって非常に名誉なものであった。

 画家として生きていく―そう決意をして巴里へ渡り、気付けば「十五年」という時間が経過していた今、その夢は大いに結実したと言える。その上の栄光である、喜ばしいに決まっていた。

 しかし…。



「違和感」は「覚える」で受ける言葉であり「感じる」ではない。

 国語の辞典なら…いや授業かしら、それはそうなるのだろう。

 あたしが「覚えた」のは「違和感」…て言うか、たぶん比喩的表現を用いれば「奥歯に物が挟まる」という感じか…。

 そう、気がつくととも子が言ってる「誰かに似ている」という感覚は、あたしの気持ちからは、どこか遠くにあるような気もした。

 テレビで見た「君がいた街」で感じたものと、美術準備室にあった「自画像」の間に漂っている、名状し難いもの―その「正体」はもちろん、それが「見た目」なのか、それとも違う「雰囲気」なのかさえ、あたしにはわかっていない。

「うーん…」

 どうもなぁ…。

 だが一つだけ、あたしの中に芽生えたこと、それは…。

「なんで悩んでるんだろう?」

 いつの間にか「名探偵呼ばわり」をされてるあたし。何か考えなければならないことが起きれば、それは直ちに「解決」を見なければならないような、そんな思い上がった気にもなっていたのかもしれないな…。

 ただのメイ探偵なだけなのに…。

 そしてさらに、伊達健太郎という稀代の画家に対して、ちょっと「シロウト批評家」の気持ちで…いや、少しは見知った大先生へ、どこか「馴れ馴れしい態度」で接しようとしていたのかもしれない。

 それがこんな風に「無意味」とも言えるような悩みにつながっているのだろう。

「反省、ね」

 長い時間の経過を、苦しみさえ味わいながら過ごしてきたであろう伊達さん。その「艱難辛苦」を知るはずも無い人間として、その大切な作品をどうこう言うほど、あたしは全くもって成熟していないのだ。もちろん、ケチをつける気などないが、それでも「何か」を…余計な「ひと言」を、吐き出すことなど、以ての外だ。

 そう思い、あたしはこのことには「一応の決着」を見ることにしたのだが…。

 それは、伯父さんが「不似合いにも」立派な美術書を買ってきたことから再燃した、あたしの中に残っていた疑問…。


「素敵な絵…」

 伊達健太郎の受賞記念として彼の作品が特集で掲載された、新聞社の発行による大きなサイズの美術書。何サイズというのか、よく知らないけれど、とにかく存在感たっぷりの本だ。厚手の表紙に採用された「君がいた街」が誇らしげに見える。

 そんな本を買ってきた伯父さんまで、なぜだか鼻高々だ。

「高かったぞ」

 余計なことを…。

 あたしはペラペラと…いや、こんな立派な美術書を、そんな風に扱っていいのかは、甚だ疑問ではあるが、どこか自分には「不釣合い」と思いつつも、ページをめくった。

 伊達健太郎作品特集―。

 伊達さんの作品は、彼の特集に相応しく最初の方のページから堂々と掲載されている。こんな立派な本に作品が掲載される伊達さんを、あらためて尊敬したくなった。

 その特集だけれど、まず先頭のページには伊達さんのポートレート。本当に最近のものだ、あたしたちが話をした時と変わらない姿。新聞やテレビで見かけたものは、少し前のものだったとわかる。

 そして、いきなり現れる「君がいた街」の、しっかりと見られるその全容。一ページ全体に収まってはいるが、実物はもっと大きいのだろう。しかし、今まで見たものの中で一番、本物の様子に近いのはわかる。

 あらためて見てみると、その色彩の豊かさや、何よりもその繊細さが、それまで着けていた「フィルター」を一気に全て外して、あたしの目に…いや、心に飛び込んでくる。

 やっぱり舞台は、有名な「モンマルトルの丘」近辺なのだろう。行ったことなどないが、いろいろなところで写真や映像なら見たことがある。何より、伊達さんが本拠地にしているのが巴里なのだから、きっとそうだと思う。

 でも…。

 絵の主役である「君」は、もちろん「彩子さん」だ。

 その姿がいきいきと描かれている。伊達さんの脳裏に残る笑顔やその仕草を、余すことなくキャンバスの上に生命を吹き込み、蘇らせたのだろう、きっと…。

 そして主役の「君」を引き立てる、いわば脇役とも言えるのが「街」の風景だ。

「なんか…控えめ…」

 テレビや新聞で見た写真だけではわからなかったけど、でもこうしてきれいな画集に載せられたものを拝見させてもらうと、特徴がよく出ている。

 画面やや左下辺りに描かれた人物に対して、その彼女を守るように見られる街の景色は、なんて言うんだろう…「大人しい」感じなのだ。

 そう、人物を…彩子さんを引き立たせるために、風景が…街並みが遠慮しているような、そんな印象に感じられる。

「でも…」

 彩子さんを主役にするために、あえて景色の存在感を弱めたんだろう、たぶん。そんな「技法」みたいなものがあるのか、それともただ伊達さんの気持ちの表れなのか…。

 絵を見ながら、いろいろなことに想いを馳せていると、あたしはちょっぴりだけど、彩子さんが羨ましく思えてきた。

「十五年経って蘇る姿、ね…」

 愛した男性の中で、いつまでも変わらずに愛され続けている。

 天使―あたしが形容した美しくも儚げに見える容姿。その運命からか、なんだか自分で言っておいてマッチしてくる気がする。まさに自画自賛…。

 伊達健太郎という人間の心の中に残る愛しい女性は、何年経とうともその美しさを残したまま、ずっと生きていくのだ。

 そう「素敵な絵」、なのだ…。

 感傷に浸りながら、ではないが他のページにも目を通してみる。

 新世紀の印象派―。

 そう評される伊達さんだが、あたしには「印象派」と言われても、あまりしっくりと来ない。そこにあるのはただ美しい絵画、全てはそれだけでいい。

 最初の「君がいた街」の次からは、彼の作品が年代順に並んだページ構成になっていた。

 制作年を見てみると、渡仏してすぐの作品から始まっていた。

 彩子さんと「永遠の別離」を迎えることになってしまってからすぐの頃の絵からだ…。

 あたしにもわかる、巴里の風景が多い。

 そう思って見てしまうからか、どうも暗いトーンの絵ばかりだ。彼の「心の内」を表わしているような気がしてくる。

 エッフェル塔は夜の中に沈んでいる。ノートル・ダム大聖堂はセーヌ河の水面に暗く映った塊のよう。サクレクール寺院も、その白い壁面を半分以上を影で覆われている。「君がいた街」で登場したはずのモンマルトルの丘を題名に持つものもあるが、少し違う様子で描かれていた。なんだか違う街のようだ。

 そんな「陰鬱」とさえ感じられてしまう絵が描かれていた時代の作品が続く。

 しかし、よく見てみると、そんな絵の中にもどこかに「光」を感じさせる…いや、実際に必ず「影」の中に「光」が存在しているのだ。決して「全てが闇に包まれた絵」というわけではない。

 影の中に光がさしている。それが特徴と思えてならない…ただのシロウト批評家だけど…。

「たぶん…」

 最愛の彩子さんとの「別離」と、それを乗り越えるための「勇気」が、この「影と光」に象徴さているのだろう…って、本当に素人考えです。

 しかし…。

「え?」

 ―伊達健太郎の持って生まれた才能、それは陰影を活かした画風にある。それをさらに飛躍させたのが、巴里の空気の中であり、そこでの生活そのものだった―

 本物のプロフェッショナルの評論家のセンセイのお言葉は重い。

 特集ページの中で述べられた評論では「持って生まれた」とある。彩子さんとの哀しい運命の果てのものではなかったようだ。

「伊達さん、勝手に推量してごめんなさい…」

 あたしは巴里の方向―北西の方?―へ向かって簡単に頭を下げた。

「そうか…伊達健太郎は一日にしてならず、ね。そういう絵を描く画家だったっていうことなんだ」

 そう考えながら評論の続きを読む。

 日本の画家として、世界で評価される当代随一と言ってもいい―とまで書かれている。なんとなく「身内」として嬉しい気がする。

 最後に、

「君がいた街」は彼が描き始めた頃の雰囲気を蘇らせながら、主役である女性の姿が、その最近の真骨頂でもある光豊かな様子で表現されている。伊達健太郎の集大成のひとつと言ってもいい作品であろう―

 と締めくくられていた。

「そうか…」

 この本に掲載された作品だけを年代順に追っていっても、やはり十五年ぐらいの時間が経過しているのだろうが、少しずつではあるが雰囲気が変化しているようにも感じる。なんと言っていいかわからないけれど…。

「ちょっとずつ…明るくなってきた?」

 単純に「明るい」ではないと思うけど…でもあたしの持つ「語彙」ではそれが精一杯ね。

 評論の言葉通りではないが、確かに「最新作」であろう「君がいた街」は「光」である彩子さんと「陰」

 である街との「コントラストが大きい」と感じられる。だから彩子さんが、より主役として輝いていると思う。

 きっと、彩子さんの想いを…彩子さんへの想いを、表現できるようになったのよね…伊達先生。

 なんだろう、よくわからないことが多いけど、あたしの胸の中が熱くなってくるような、そんな気がしてくる。なんだかわからないけど…。

「あら、幸枝ちゃん。素敵な本ね」

「あ、伯母さん」

「おう、買ってきた。せっかく伊達さんが賞を取ったんだ。記念に奮発した」

 なんか…。

 買い物から帰ってきた伯母さんが、あたしの横から本を覗き込む。そのいつまでも若々しくきれいな横顔があたしにはくすぐったい。

「どうぞ」

 伊達さんの特集ページは見終えていたあたしは、本を差し出した。

「ありがとう」

「これが『君がいた街』よ」

 あたしは開いたまま渡した本の、一番の主役であるページを指差した。

「へえ、素敵…」

 あたしの横に座った伯母さん。じっとその絵を見つめた。

「そういえば懐かしいって、言ってたよね?」

「そう…そうね…」

 しばらく見ていた伯母さん。気がつくと目を閉じている。首も傾げて、何かを考えてる…いや、思い出しているような表情。

 懐かしい「何か」を思い出しているんだろうな…。

 やがてパッと目を見開く。

「何か思い出した?」

「うん、思い出した…」

「え、何?」

「晩ご飯、作らなきゃ」

 ガクッ…。

 そそくさといった感じで伯母さんは立ち上がると、急いで台所へと向かった。忙しい伯母さんだ。

 でも何が懐かしいんだろうな、気になる…。

 心の奥の底の方に、チクっと刺さるようなものを感じたけど、でもそれはそれで良かった。


 翌日、あたしは伯父さんから借りて、本を学校へ持って行った。

 高い本っていうから、何か言われるかと思いきや、

「たまには推理小説以外のものにも目を通さなきゃな」

 だって…。

 普通は「マンガばっかり」とか言われるところを「推理小説」っていうのも女の子としては…。

 まあ事実だから仕方ない。金田一さんばかりではいけないのだ。

 そして、三年二組で小さな絵画展。

「やっぱり素敵な絵ねぇ」

 麗子はうっとりとした顔で、見惚れている。その様子を見て同じような顔をしている森崎君…。

「でも、幸枝…」

「何?」

「やっぱり見たことがある気がする…」

 相変わらず、とも子は困ったような顔をする。

「でも、俺もなんかそんな気がしてきた」

 神谷君までも…。

「君がいた街」は、我がクラスで今はセンセーショナルな存在になっているようだ。

 この本、クラスの皆んなで見るのも目的の一つだが、もっと他にも…。

 時間が経ち、放課後。とも子を誘い向かった先は…。

「何、幸枝。まだ考え中?」

「うん、ちょっとね…」

 美術準備室―。

 もう一度、今度は「本物」と比較してみたかった。

 ノックして入室すると、美術担当で現在の美術部顧問でもある五十嵐先生がいらっしゃった。

 よく考えると「世界の伊達健太郎」の何代目かの後任でもある、スゴい立場の先生だ。まだ若いから、同じような道を辿ることも…?でも、ちょっと太めだし見た目は違い過ぎるから「生徒と駆け落ち」の方は難しいかもしれないけど…って、失礼。

「なんだい、君たち」

 同じ学校内でも、授業を受け持ったりしない生徒とはほとんど面識も無いし、先生からしても馴染みもないはず。そんな生徒たちがいきなり現れたら、少し嫌がるかな?

「今度はなんの事件かな、名探偵さん」

 知られてるのか…。

「すみません。少し絵を見させていただきたくて…」

「絵を?」

 メイ探偵は、図々しく入り込むと、持参の本を広げて先日も見せてもらった「彩子さんの絵」と比べてみた。

「おや『君がいた街』だね。もしかすると名探偵さんも、かな?」

「え、先生。どういう意味ですか?」

 あたしは、五十嵐先生の「共感を示す言葉」を、少し嬉しく思った。たぶん、同じような感想なんだろうな…。

「どれどれ…」

 そう言うと、脚立に載って「彩子さんの絵」を外してくれた。そして机の上に置くと、あたしの持ってきた本と並べて見ると、

「確かに…よく似てるよね」

「そうですよね!」

 さすが伊達健太郎の後任、その目は(小さいけど)鋭い。

「この絵を見られる人は限られるからね、なかなかタッチが似てるのを指摘する人はいないんだ。もちろん、先生と生徒だし…それ以上の間柄だったようだから、影響も強いんだろうね」

 我が意を得たり、とはこのこと。

「ね、とも子。そうでしょ?」

「別に否定はしてないけどね」

「おや、ワトソンちゃんはホームズ嬢の意見に反対かな?」

 上手い!

「いえ、そうではないんですけどね」

「ん?」

「誰かに似てるって、そんな気がするだけで…」

「積年の思い」ではないけど、とも子も気になっていることを吐露する。

「誰かにって?それってホームズ嬢のことだよね?」

「え?」

「ええっ?」

 あたしぃ?

 あっさりと言い切った。

 いきなりの訪問で、鮮やかに逆転されたカウンターを受けたかの気分だ。あたしのことを指すと、にこやかな顔できっぱりと…。

 やはり後任先生、そんなことを指摘するなんて…只者ではないかも。

「今さ、入ってきた時に感じたんだよね。もっとも、同じ歳のはずなんだろうけど、ホームズ嬢はずっと子供っぽいし、ちっとも色気がないから。だから、ちょっとわかりにくいかもしれないなぁ」

「…」

 何も言い返せませんが、けっこう失礼なことをおっしゃいますね。


 そういえば、初めて伊達さんに会った時…あれは下校途中だったけど、あたしの顔を見て「誰かに似てる」って言われたんだっけ。きっと、あの時にあたしが彩子さんに似てることを感じたのかもしれない。

 ただ、あたしの方がずっと子供っぽいって思ったんだろうな…。

 そして、あたしは家に帰って指摘されたことを話してみた。

「この絵が…幸枝に?」

 持ち帰ってきた美術書のページとあたしの顔を見比べながら伯父さん…元県警刑事課課長は、渋い顔をした。

「うーん、タレ目なのは似てるな。でも、お前の方がもっとタレてる…」

 どうも失礼な言葉を聞く日だ…。

「それにお前よりずっと大人の感じだな。それは決定的だ」

 もう立ち直れない…。

「とも子も言ってた。ちょっと雰囲気があたしに似てるって…」

 とにかく、ダメージを払拭しないと、これからのあたしの人生…女として生きていく「値打ち」にも関わってくるかもしれないし…。

「そうだなぁ…幸枝があと何年かして並んだら、もっと似てるだろう」

 刑事の持つ洞察力は鋭い。

 とも子にも言われた…。

「成人式の頃ぐらいになったらちょっとは似てくるかも」

 でも、それは伯父さんには言いたくない。

 だけど、皆んなを巻き込んで騒いだ「君がいた街」の件、ひとつだけは解決したかしら…。

 すると…。

「違うわよ、あなた…」

「え?」

 伯母さん…。

 あたしたちの会話にゆっくりと入ってきた伯母さん。それは後から慎重に、と言うか「真打」の登場と評すべきか…。

 少しだけ、その顔に険しさを感じるのは、あたしだけか…。

「この絵は幸枝ちゃんの…」

 意を決したように、一人の女性を指摘する伯母さん。

 挙げた名前は…。

 一瞬、言葉が…息も止まる。

 ここにあるのは…今、私の目に映っているのは「君がいた街」。伊達健太郎という画家が描いた一枚の絵だ。

 そこに描かれている女性―それは中山彩子、伊達健太郎が愛した人。他の誰でもない。

 しかし、それが…。

「あたしの、お母さん…?」

 不思議な…いや、もしかすると妖しいとさえ感じる思い。

 あたしが絵を…絵の中の「その人」を見ているだけなのに、なぜかあたしの方が見られている、そんな錯覚に陥ってしまったようだ…。

 そんなことのなかった…そう、見守られたはずなどなかった母に…。

「…」

 一瞬、心がどこかへ行ってしまった。

 ふと顔を上げると、伯母さんがあたしを…見つめていた。

 なぜか、複雑そうな…淋しげにも見られる表情で…。

「え…あ…」

 あたしは心を取り戻す。気持ちを立て直す。

 そしてもう一度、絵の中の「その人」を見据えた。

 冷静に考えてみる。

 なるほど「お母さん」なら、あたしを大人にした感じでもいいのかもしれない。あたしに似てる…それは「あたしが似てる」っていうことなのだろう。


 あたしは母親の顔を知らない。

 それは、自分の生命と引き換えにして、あたしを産んでくれたから。あたしがこの世に生命をもらってすぐに、入れ替わるように天国へ行ってしまったから…。

 聞いた話では、あたしの産声も聞くか聞かないかのうちに旅立ったようなのだ。

 元々身体が弱かったため、出産に耐えられるかどうか難しかったらしい。あたしを産むこと…それ自体が最初から無理な話でもあったようなのだ。

 それでも母は、息づいたあたしの生命を優先してくれたのだ。

 弱い身体に鞭打つ思いで、あたしをこの世に送り出してくれたのだ…。

 そんなあたしだから「生命の重み」は人一倍、感じているつもりだし、それ以上に人から受ける「愛情」に感謝しなければいけない、そう思っている。

 父親にも早くに死に別れたけれど、子供のいない伯父さん夫婦に引き取られて、何ひとつ不自由なく生活してこられたあたし。決して誰からも引け目なく生きていられるあたし…。

 健康で毎日を元気でいられること、それを実感しながら…感動しながら「幸枝」でいられる。

 そのあたしを産んでくれた母親の顔も、さらに早逝した父親の顔さえも、なぜか写真もあまり無いので、しっかりと認識できていない。あたし自身の気持ちもあるのだろう、はっきりとした印象やイメージなどを持っていないし、それ以前に両親の、特に母親の写真を見たいと思うことがないのだ。

 今でも…今も…。

 だから「絵」を見ても、それが「母親に似ている」と思わなかったのだろう。

 親不孝な娘…。

 それにいち早く…そう、ずっと前に気付いていたようなのが伯母さんだったのだ。

 当然、生きている頃の母を知っているのだから、気づくのも当然だろう。

 伯父さん…昔から「刑事畑」で活躍していたから、家庭はおろか親族付き合いもろくに無い。あたしの母の顔を思い出すのも至難の技だろうな…元来、仕事以外のことはのんびりだから。

「あたしのお母さん、ね」

 伯母さんの言葉に、あたしは本をしっかりと見つめると、その顔―彩子さんの控えめな笑顔に、自分を重ねてみた。

 女子生徒会長で美術部部長、素敵な伊達さんと恋に落ちて巴里へ行く約束をして、いつかは世界の画家を支えることを夢見て…。

 ダメだ…合わない。

 あたしはやっぱり…。

 ん?何になるというのだろう…。

 あたしの未来、夢とか…いや、その前に…。

 進路…。

 もうすぐ卒業も近いのに、考えたらまだはっきりと進路を言っていない…いや、決めてもいないし、もっと言ってしまえば、頭にも浮かんでいない。

 伯父さんを「のんびり」なんて言っていられる場合でなかった!

 伯父さんが日頃から酔うと言っている「警察官にだけはなるなよ」は、きっと「いざとなったら警察学校だな」っていうことの裏返しと思えてきた。

 だから普段から何も言わないのだ…。

 しまった…。

 警察官も悪いとは思わない。婦人警官も決して嫌な仕事とは思っていないし、上手くいって刑事になれれば、それなりに活躍できるかもしれない。

 でもなぁ…。

「おい、どうしたんだ。神妙な顔になって。そうして見ると、本当にタレ目だな」

 うるさい…って言うわけにはいかないけど、今はちょっとほっといて欲しい気分よ。

「幸枝ちゃん、ごめんね。変なこと言って…」

「え?全然。大丈夫、自分で考えるから…」

「え、何?」

 しまった…また一人で思ってることを続けてしまった。

 あたしの悪い癖。

「でも…あたしもこんな感じの女性になれるのかな?」

 なんとなくごまかし笑い。

「まあ、それなりになるだろ?」

「大丈夫よ。幸枝ちゃん、可愛いから」

 言葉は違うけど、二人ともあたしのことを思ってくれてるのがわかった。

 でも…。

 将来のこと…いや、今は目先の進路のことだ、決めないといけないわ。

 進学か…就職か…。

 高校は県立だったからいいけど、あたしには国立大学なんて入れる自信ないし、私立は高いからなぁ…。

 伯父さんはもうリタイアしてるから、あんまり経済的に無理させられない。恩給だって言っても、そんなに潤うほどもらえるわけでもないから…。

 もし私立の大学へ行くなら…短大。それもダメなら専門学校だわ…。

 そういえば、もうすぐ進路相談の三者面談があるはずだわ。それまでにせめて「方向性」だけでも決めておきたい。「進学」か「就職」、それで進学なら「四年制大学」か「短大」、それとも「専門学校」か。

 でもさ、どんなことをしたいか、その根幹ぐらいは見えてこないとだわ。

 やりたいこと、か…。

「お前、なんか悩んでるのか?」

「え?」

「顔に出てる」

 ううっ。さすが元鬼刑事、鋭いこと…。

「もしかすると、進路のことか?」

 ぐうの音も出ない、とはこのことだ。

 あたしって、わかりやすい?

「うん…」

「まあ、警察官だけはやめとけ」

 伯父さんの進路相談はこれで終了か…。

 いや…。

「金のことなら心配するな。まあ、私立医大へ行くのだけは考え直して欲しいが…もっとも、そこまでの頭もないだろう」

 本当に言い返せないが、それでもあたしのこと、しっかり考えてくれてるんだと、しみじみと嬉しさがこみ上げてくる。両親がいなくても、何にも心配せずに生きてこられた…そんな喜びも実感。

「幸枝ちゃんは何やりたいの?」

 これは痛い質問だ。

「何か、な…」

「まさか、幸枝。私立探偵だなんて言うんじゃないだろうな?」

 ほんの少し…心の奥底のすごい片隅では考えたけど…。

 そりゃあねぇ「ホームズ嬢」としても、それが実現できるようなことであれば、満足できる進路かもしれないけど、でも現実的な話ではない。大英帝国の時代ではないのだ。一個人が殺人事件に関われるはずもない…とは思うけど。

「幸枝ちゃんは何が好き?本読むのが好きだから、文学部なんてどう?」

「却下、だな。本って言ったって、こいつは推理小説ばっかりだからな。推理小説学部なんて聞いたこと無いからな」

「…」

 何も言い返せない…っていうより、言い返すことがない。

 横溝正史や江戸川乱歩、松本清張に斎藤栄…。

 本に縁がないわけじゃないけど、決して「文学少女」ではない…というか、言うことができない。

「それじゃあ、女の子らしく料理とか栄養学なんていいんじゃない?幸枝ちゃん、手伝ってくれても手際いいから向いてるかもしれないわよ」

「まあ、花嫁修業にもなるか。そうすりゃ少しは女らしくなるかもしらんな」

 また…。


 あたしの「最大の理解者」とも言える伯母さんの助言は、すごく心に響いていた。

「料理、か…」

 何かを作ることって決して嫌いな方じゃないし、料理とかするのも楽しいと思う。ここはひとつ、前向きに考えてみてもいいかもしれない。

 ホームズ嬢にはなれないかもしれないけど「女版土井勝」になれるかもしれない…。

 うーん。とも子、笑うなぁ…。

「ホームズ嬢!」

 え、なんで?

 朝からぼんやりと進路について考えていたら、教室に入るといきなり呼ばれた。昨日の美術室のことはあたしととも子と五十嵐先生だけ…。

「とも子、貴女ね!」

 振り返ると舌を出したとも子の顔。そうか、昨夜のうちに電話をしまくったか…。

「もう幸枝って呼ばないで、ホームズでいいかな?」

「いや、金田一さんだろ?」

 あたしが―本当はお母さんなんだろうけど―あの絵の彩子さんに似てるっていう方は…。

「まあいいじゃない。あんたが彩子さんと似てるらしいっていうことよりも、よっぽど刺激的だったし」

「ええっ…?」

「色っぽくない、って言われたの覚えてるよね?」

 絵の彩子さんより、だけど…。

「あ、でもさ。幸枝が彩子さんに似てるって、正木先生も思ってるかな?」

 麗子がしっかりとツっこんでくる。

「ないな。正木さん、そんなとこちっとも見せてないしな」

 森崎君も…。

「俺がどうしたって?」

 またか…。

 しっかり後ろのドアから静かに入ってくるし。すっかりコントのようになってきた。もう、さほどの驚きもない。

「先生、うちのホームズが彩子さんに似てるらしいんですけど、どうかしら?」

 あたしを押し出す麗子。何よ、この仕打ち。

「ダメだ、取り消してくれ」

 あまりこちらも見ずに、あっさり却下。そうよね…。

 それよりも「ホームズ」とか言っても何も反応しない、当たり前のように受け入れられた…。

「彩子はな、もっと…」

 もっと…?

「いや、それも取り消し」

 慌てて言葉を濁す先生。

 きっと「もっといい女」的なこと、言いたかったんだろうな…。

 でも、さすがに生徒に向かって言えないんだろうね。

「もういい。さあ授業だ」

 その前にホームルームだわ。



「どうしたというんだね、ムッシュ伊達」

 巴里市内の古い建物にあるフランス美術協会の事務局に赴いた伊達は、その重鎮でもあり、尊敬して止まない老協会長と対座していた。

「賞を辞退するなんて…」

 老いてなお、血気盛んに見えるその顔に、苦悶とも思える表情が浮かんでいた…。



 あたしの周りでは刻々と時間が進んでいく。

 一番、皆んなもわかっていて期待もしている神谷聡君。その進路はもちろん、

「国立大学受験です」

 それも一流大学。決して誰でも行けるようなところではない。

「きっと…」

 皆んな、思っている大学名。

 果たして合格なるか?

 そして石関麗子。

 クラス有数の美女の選んだ進路はやはり、と言うか…。

「私、絶対に美容師になる」

 そう言ってはばからないのは最近のこと。美容専門学校に行くらしい。普段から「美」に関して、意識が高いから、美容師さんは似合っているわ。

 すると森崎伸司は「髪結いの旦那」になるのか?いや、まだ早い。

 その森崎君、是非ともエンターテイメントの世界へ進んで欲しいのだが…。

「俺は普通に大学受けて普通に就職する。なにせ普通の男だからな」

「何よ、あんたのどこに普通の要素があるのさ」

「言ってくれるね!そういうお前はどうするんだよ」

「私…?」

 考えてみたら、とも子の将来の夢とか聞いたことない…あたしも話したことないけど。

「決まってるでしょ、玉の輿よ!」

「…」

 まあ、いいでしょ…。

「ところでよ、幸枝…」

 え、あたし?

 まだ何も決心してないけど…。

「あの絵のことだけどさ…」

 え、そっちなの…。

「まあ、幸枝に似てるかどうかはともかく…」

 ともかく、なのね…。

「何かもっと謎があるのかしら」

「え、謎…?」

「あ、そうね。幸枝、なんか気になってるみたいだから」

「そうだね。幸枝が気にしてるってことは、なんかあるのかって思える」

「やあねぇ。色気が無いんで似てないからって、気にしてんでしょ?」

 とも子、恨もうか…。

 でも…。

 やっぱり少し気になる…って言うより、何か引っかかるものがあるのは確かだ。

 別に、あたしに似てる…いや、あたしのお母さんに似てるっていうことも、何か因縁があるような…。

 ん?だけど、何かがある。なんだろう…。

 あたし、頭を抱えて考えたくなってきた。皆んながいる前だけど…。

 まだまだ霧の中にいるような、そんな感じがしてならない。

 君がいた街―。


 あたしは家に帰り部屋へ閉じ籠ると、伯父さんが買ってきた美術書を、あらためて凝視してみる。机の前に置いた本とにらめっこだ。

「うーん…」

 本当に頭を抱えて、ついでに髪も掻きむしった。

 なんだろう、この違和感。

「君がいた街…君が…いた街…君が…いた…」

 そうだ!「解せない」ことのひとつで思い当たるものがあった。

 最初から「何か不自然」にも感じたこと…。

 伯母さんが、絵の彩子さんのこと「あたしのお母さんに似てる」って告げた時…いや、その前からずっと気付いていたのだろうが、やけに神妙な面持ちだった。言い換えれば「深刻な表情」だった気がする。

 そんなに…なんて言うか、重苦しいこと?

 そう考えてくると、あたしなんだかもっと他に「重大なこと」になるような気もする…。

 こういうのって、もしかすると…。

「出生の秘密、とか…」

 あたしは勝手に想像を繰り広げる。

「いや、もしかすると…」

 彩子さんと思われる絵の女性が、実はあたしのお母さん、だとか…。

 年齢的に…うーん、不可能ではない。

 ただ美術準備室に飾られていた絵は、間違いなく「彩子さんの絵」に違いない。正木先生もそう言っていたのだから…と言うよりも「彩子さんが描いた自画像」ということで先生に見せてもらったのだ。

 そして、その絵の彩子さんと「君がいた街」の人物が、素人目にもよく似てるのだ、そこに付け入る隙などない…。

「ん?」

 彩子さんが描いた「自画像」と、伊達さんが描いた「君がいた街」の「女性」が似ている…それはもちろん、同じ人物なのだから当然と言えばそれまでだが…。

 それにしても「似ている絵」だ…。

 さらにこれは想像、と言うよりも無茶な「妄想」―。

 彩子さんが実は巴里にいて、あの絵を―「君がいた街」を描いた…。

「まさか、ね…」

 美術部の鈴木君や鋭い五十嵐先生も言っていた。

「教え子の作品が先生に似るのは当然」

 ましてや、

「先生と生徒以上の間柄になったのだから」

 それはあり得る事象だ。

 でも…でも、そんな「専門家」の意見を聞く以上に、素人のあたしの勘が言ってる。

「本当に?」

 だとすると、どんな推測が成り立つ?

 彩子さんが「君がいた街」を描いた―それは無理だ。伊達さんが彩子さんと一緒にいることなど、もはやあり得ないことなのだから。

 だとすると…。


「え、十五年前のことを話せ?」

「ええ、先生…」

 あたしは、居ても立っても居られない気持ちのまま翌朝を迎えると、ホームルームが

 終わった後、教室を出ようとした正木先生の元へ向かった。

「おいおい、なんだよ今さら…」

 一人で詰め寄ってくる女生徒に、ややたじろいでいるのが手に取るようにわかる。

「そんなところは彩子に似てるかもしれんな」

「へえ、やっぱり幸枝って彩子さんと似てるんですね?」

「違うぞ、林。顔や見た目じゃない、こういう意地っ張りみたいなところだ」

 近くで見守ろうとしていたとも子の言葉を強く否定する先生。

 誰かが何かを言うたび、あたしが少しずつ嫌な気分になっていることに…もっと言えば傷ついていることに、誰一人として気付いてはいないのかもしれない。

 まあ、いいけど…。

「もういいです。あたしは色気のない女らしさもない、それでいいですから」

「いや、そういう意味じゃ…」

 ややたじろぐ正木先生に、間髪入れずに詰め寄るあたし。

「あの絵、本当に彩子さんが描いたんですよね?」

「へ?」

 なんとも間抜けな声だ。

 本当に、この先生は最近すっかり重みとかがなくなってきたようだ。

「そりゃあ、お前…あれは自画像だって聞いたし…」

「誰に?」

「え?…ええと、確か…」

「伊達健太郎…」

「えっ…ああ、そうだ。思い出した…」

 あたしの言葉に、正木先生はうなずくと、懐かしそうな顔をした。

 それは十五年という月日を経てもなお、心に鮮明な思い出なのかもしれない。

 正木浩が送った青春の日々。

「懐かしいなぁ…いや、本当にそんな気持ちで彩子を思い出せるのも、みんなお前があの件をはっきりさせてくれたからだよ。ありがとうな…」

 もういいです。

「うん、覚えてるよ。あの日、俺は美術室へ行ったんだ。伊達さんに…まあ、恋の相談だな」

 その辺の内容は、前に大体聞いていたから想像できます。

「あの日は確か、美術部が課外実習とかで出かけたまま、部員は誰も帰ってこないって聞いていたから、伊達さんと差し向かいで話せるチャンスだったんだ。それで、まあ片想いの…いわば愚痴をこぼしたようなもんだったんだがな…」

 その「相談相手」が、実は「ライバル」だったとは…。

「そうだよ、その時に部屋にあったのがあの絵だ。うん、絵の具や油の匂いまで覚えてるよ。彩子がキラキラ輝いて見えたな。うん、青春だ」

 自分で言う?

 でも、あたし…なんか…。

「その時に、伊達さんが言ったんですか?」

 自画像だ、って…。

「確かそうだったな。美術部員が描いてるところだって」

「他の人の作品は見ましたか?」

「え?いや、見た覚えなんかないぞ。彩子のしか…」

 眼中になかったか…。

「美術部員は皆んな、いなかった日なんですよね?」

「ああ、課外実習とかで。先生だけ帰ってきたらしい」

「それなのに絵の具や…油の匂いまでした…」

「そりゃあ美術室だからなぁ」

「彩子さんの絵が輝いてた…描き立てみたい…」

「え…おい、なんだ。何が言いたいんだ?」

 正木先生の表情が曇る。

「まさか、おい。あの絵って…」

「先生、最初から伊達さんにはめられてたんですね…」

 言い過ぎたかも…。

 焦りの表情を浮かべながらも、なんとか「筋道」を見出そうとする先生。その顔には汗が…。

「でもな、お前。あの絵の裏、見てないよな?しっかりと彩子のサインが書いてあるぞ。俺は見てるんだ。中山彩子って」

 高校生の美術部員が、自分の絵に「サイン」をするのかどうか、あたしにはわからない。それはプロと言われる画家だけがするものなのか、それとも誰でも書くものなのか…。

「考えたら絵の下の方にも『SAIKO』って書いてあったじゃないか。あれは彩子が描いた絵だろ?」

 正木先生の言葉は、徐々に弱々しくなってきている。

 あたしが言おうとしていたこと…。

 彩子さんの「自画像」って、実は伊達さんが描いたもの―。


 それがなんだって言ってしまったら、何でもないことには変わりない。

 あの絵は伊達健太郎が描いたものだとしても、それはそれで価値があるにせよ、そこにあるだけのこと。何も困る問題でもなんでもない。

 ただ、正木先生が実は「恋の相手」ではなく「恋の競争相手」が描いたものを「愛おしく」見ていたのかと思うと、少しだけ哀しいような気分にはなるが、それは先生一人の問題で、まあ小さなことだわ。

 けれど、伊達さんが…あの伊達健太郎が、そんな「嘘」をついたことは、それ以上に哀しい…。

 自分の気持ちを隠した、そういうことなのよね…。

「それじゃあ、幸枝よぉ。あの絵は伊達健太郎の作品だって言うのか?」

「え、本当?」

 森崎君の言葉に、美術部員で将来は伊達健太郎を目指している…かどうか、本当に知らないけど、鈴木君が敏感に反応する。

「それじゃあ似てるわけよね、二つの絵が…」

 麗子が感心する。

 放課後の教室は、有志による「捜査会議」。

「でも、さすがホームズ嬢ね。正木さんの言葉だけで、よくわかったわよね」

「あとね…」

 あたしはもう一つの、それは「根拠」なんて言えるほどでもないものがあった。

「絵の表情。どう見ても同じような印象だった。同じように見ている…描いている人を見つめてる目。温かくて、優しくて…。きっと、その人を信頼しているんだろうなって…」

 そう言うと、なんだか照れ臭い気持ちになった。なぜか…。

「幸枝…あんたも少しは大人になったのね。そんなことを言えるなんて」

 とも子の言葉が…本当なら、それで照れ臭くなるはずのタイミングで、あたしを不安な気持ちへと誘う。

「ううん、でもね。まだ何か釈然としない感じが…」

 そう、あの「自画像」と言われている絵を伊達健太郎が描いた…としても、まだ謎なことも。

「例えば、キャンバス裏に書いてある『中山彩子』っていう名前。昼休みに一人で見てきたんだけど、やっぱり書いてあった。古くなってるから、まちがいなく十五年前に書いたものね」

 美術の五十嵐先生には、相変わらずのように「ホームズ嬢」とか「色気ない」とか揶揄されたが、しっかりとその額を外してもらって見せていただいた。前回の訪問の際には確認していなかった所だった。ちょっと失敗…。

 そこに書かれてあった「中山彩子」の署名。

 生徒会長で美術部長。美人で成績優秀な中山彩子という女性の書いた字は、あたしが見ても「綺麗な字」だった。もう、こんなところだけでも「あたしが似てる」って言われるのも、おこがましく感じられてしまった。

「じゃあ、何かい。彩子さんのキャンバスに伊達さんが描いたとでも言うのか?」

 おお!

「なるほど…」

「おいおい、幸枝。そんなカッコ悪いことすっか?」

 確かに、今では「世界の伊達健太郎」だ。他人のものを借りてまで絵を描くことなどあり得ない。

 しかし、当時は…まだまだ「公立高校の美術教師」だった伊達さん。それほど…。

 いや、キャンバスぐらい買えないわけないわ。

 それはたっぷり余裕ができるほどのお給料でもないだろうし、ましてや巴里へ「勝負」に行くための資金だって必要だったから、決して「裕福」とは言えないまでも…。

 絵の道具ぐらいなら、自分で揃えるわよね…。

 じゃあ…あの絵が伊達さんが描いたものだったら…なぜ「中山彩子」って書いてあるキャンバスを使ったのか?

「伊達さんが絵を描いたキャンバスに、彩子さんが名前を書いた、とか…」

 なぜ?

「そんなこと、絶対しねぇだろうなぁ…」

 とも子の意見、森崎君があっさり却下。

 必然性がない。

「そうねぇ…」

「やっぱり、彩子さんが描いた絵だったの?」

 麗子のあらためての見解。

 そして、必然的に皆んながあたしの方をチラチラと見てくる…気がした。

 自意識過剰、か?

 でも…。

「伊達さんはなぜ、彩子さんの絵を描いたのかしら…」

 素朴な疑問符。

「ええ?だって、幸枝。愛する人を絵に描きたいって、素直に感じるんじゃないの?…まあ、私は絵を描くのは苦手だから、そうは思わないけど…」

「そうね、麗子の言う通りだと思うわ」

「うん…」

 すっかり「彩子像イコール伊達作」の考えだが…。

 あたしだって…恋愛観に乏しいあたしだって、なんとなくそれはわかる。

 愛しい人が目の前にいたら…うーん、どうするの?あたしだったら…えーと…。わかってない…。

「幸枝。あんた何を悩んでんの?」

「名探偵も、恋愛関係については全くの無知だな」

 森崎君にもからかわれる。

「ホームズ嬢も、本物のホームズと同じだよな」

 何を!シャーロックホームズにはアイリーンアドラーという忘れ得ぬ相手がいるのよ、知らないのね。

 …って、あたしには…ううっ…。

「まだ若いんだからね!」

「幸枝、何…」

 あっ…。

「…それより、なんだい?伊達さんがなぜ描いたかって」

 神谷君の、それは助け舟に思える。

「あ、ああ、あのね…。愛した人を描きたいっていう気持ちのほかにも、なんだかあるような…あったような気がするの」

 全くの憶測でしかないけど…。



「私は君のアトリエであの絵を見た時、これは素晴らしい作品だと思った。だから今回の賞にも無理を押してでも参加してもらった。審査も終わっていたけれど、スペシャルで審査員に見せてもらいもした。だが、特別賞を受賞したのは私だけの意向でもわがままでもない。審査員の総意だ。大勢の人間が、あの絵の素晴らしさを認めたんだ。何も臆することなどないんだ」

「しかし、先生…」

 老師を見据える伊達の目は剣呑だった。

「私は、あの絵を…」

 伊達を見守る老師の目は穏やかだ。曇りもない。

 しかし次の瞬間、時が止まったかのように、その目は色を失う。

「君がいた街を、自分で描いていない」



「あたし…」

「え…」

「なんだ?」

 皆んなが見守る…。

「わかんない…」

 テレビで見る「喜劇」の中のシーンのように、全員がきれいにコケた。これはこれで愉快だ。

 だけど…。

「幸枝…。あんたね、立場を考えなさいよ」

 立場って…。

「今やクラス中が、あんたの出す解決を楽しみにしてる…って言うより、聞かないと納得できないのよ。わからないの?」

 へぇ?

 とも子の駄目出しはきつい。あたしはタジタジとなってしまう。

「ごめん…」

「まあ、とも子。幸枝だって全てをお見通しってわけじゃないし」

「そうだな、宿題だ」

 え…?


 ホームズならパイプを燻らせる、金田一さんなら髪の毛をかきむしる…。

 名探偵が頭を働かせる時の、それは「約束事」のようなものがあるが、メイ探偵のあたしにはそんなものはない…。

 それで一人、台所でコーヒーをいれる。夕食後だが、それをゆっくり口にした。

 普段からそれほど飲む方ではないけれど、伯父さんが好きだから時々は味わうことにしている…もっとも伯父さんみたいに「ブラック」は、まだ無理だ…。

 コーヒー豆も自分で挽けるし、それも少しずつ進歩しているようだ…と、自分では思っている。

「あら、眠れなくなるわよ」

 伯母さんが心配して声を掛けてくる。

「うん、ありがとう。でも宿題を考えなきゃいけないから…」

「へえ、勉強するなんて珍しいこと」

 ええ、まあ…一応、高校三年生…。

 でも、勉強じゃないのよね、これが…。

 あたしが未だに解消できない、何か違和感。

 あの絵―美術準備室の「彩子さん」と、巴里にある伊達健太郎の作品である「君がいた街」の二つ。その絵の間に存在していて感じる、あたしを駆り立てるもの。

 とも子が言っていた「帰ってすぐに描いたのか」という疑問もある。「たったの一ヶ月」なのか「一ヶ月もある」のか、っていうこと…。

 十五年前に、それはきっと伊達さんが描いたであろう彩子さん。そして最近になって描いたのか、それとも以前から描き始めていたのか、君がいた街…。

 二つの絵の間には、十五年の歳月が流れているのか?

 そして…。

「ああ、そうか…」

 なんとなく気がついたかもしれない、違和感の正体。

 それは…。



 老師は穏やかな目の色を取り戻す。

 そして…。

「何を言うかと思えば…」

 そこにただ一つの波風さえ立たなかったかのような、そんな雄大な心持ちで伊達を包み込む。年輪を重ねた大きな笑顔が伊達を優しく迎えた。

「そんな馬鹿げた話、信じられるわけがない。君の絵は私もよく知っている。あれは間違いなく、君の筆によるものだ」

「いえ、先生…」

 それは「悪戯が露見した少年」のように、言葉が後退りしていた。

 全てを吐露すべく訪れた師の元、しかし伊達の口は重かった。

「あの絵は…」



「え、タイトル?」

 あたしは…毎日のように「居ても立っても居られない」状態が続くあたしは、朝を待つまでも無く、とも子へ電話して話すことにした。宿題なんてその日のうちに片付けておくものだ。

「そう、君がいた街っていうタイトルよ。それがなんだかおかしいなって」

 考えの一端でも、思いついたそれは、あたしの数日間の「不完全燃焼」を取り払ってくれそうだった。

「で、言ってごらん。何がおかしいのよ」

 いつもならまだ寝るはずもないだろう時刻だというのに、とも子は不機嫌な感じだ…だが、かまわない。あたしの気持ちの方が、今は優先だ。

「ええと…」

 どこから…何から話せばいいのか…。

「あの絵…君がいた街は…」


「ええっ、伊達さんの絵じゃないの!」

 やはり翌朝へ持ち越してしまった…。

 どう話していいか、考えあぐねているうちに、とも子から、

「もういいわよ、明日にしてよ」

 と、話の途中で電話を切られたからだ。

 そこで、クラスの日常にもなってきている、朝の集会。ホームルームが始まる前の短い時間の「自主的ミーティング」。あの文化祭前の時以来、頻繁に行われるようになった、あたしの「推理発表会」か。

 そこで話した内容が…。

「世界的画家になった伊達健太郎が描いた作品ではないのではないか、と…」

 なんだか回りくどい言い方で、そう伝える。おそらく考えられないようなこと…あまりにも衝撃的に聞こえることだ。

 だが…。

「おい、幸枝。あの絵は偽物なのかよ」

「違う…違うわよ。そう言う意味じゃないの」

 言い方が悪かった…そう実感したが、仕方ない。

「何よ、伊達さんが騙したって言うの?」

「そんなはず、ないでしょ」

 弁解しなければならない。

「いい、聞いて…」

「なんだ、聞こうじゃないか。俺も話したいことがある」

 そこに、いつの間にか正木先生が加わる―それも、こっそりと輪に入っている―ことも、すっかりおなじみだ。

「あの絵は伊達さんが描いたものじゃないと、そう言うんだな?」

 正木先生が…今日はなんだか以前に戻ったような、少しだけ陰鬱な顔を見せている先生が、あたしに詰め寄ってくる。

「そうじゃありません」

「いや、そうだ!」

「え…?」

 あたしは…否定すべき言葉を、即座に却下され、どうしていいかわからない状況になりかけた。

「え、先生…」

 麗子が驚きだか、憐れみだかの表情で先生を見る。

「お前は…どうして、そんなに…よくわかっているんだ…」

「え、あたし?」

 何かあったのかしら…いや、あったに決まってる…だから…。

「夕べ、伊達さんから電話があった…」

 へえ、伊達さんから…。

 それで…?

「賞を、辞退するように申し出るそうだ…」

「ええっ!」

 ええ…。

 我が三年二組は、間違いなく「伊達健太郎シンパ」だ。

 文化祭での特別ゲストとして呼ばれながら、大きな事件があって、その講演会を中止せざるを得なかった中、あたしたちの教室でささやかな…しかし心のこもった「お話」をしてくださった伊達さん。そして、誰もが…先生も含めて、その内容に心を打たれ、いつしか伊達健太郎という人物に傾倒していったのだ。

 その伊達健太郎を、いわば「冒瀆」するような言葉が飛び交っては、クラス中が落ち着いてなどいられないのは当たり前なのだ。

「どういうこと…?」

 誰もが、そう感じるに決まっている。

「幸枝、あんた一体…」

「おい、名探偵。俺にはわからん。何も詳しいことを話してくれないんだ。ただ『すまない』の一点張りで…。頼む、教えてくれ」

 先生は苦しんでいるのだ。

 今はもう、かつての葛藤のようなものも、きっと薄らいでいるだろう…全く何もないことはなくても、それでも十五年ぶりに動き出した「時計の針」は、彼も新しい時間の中へと歩を進めているはずだ。前からそう思っていた。

 そんな先生にとって「伊達健太郎の受賞」は、さらなる励みにもなったのだ。あの頃からの重過ぎた心の錘が、やっと軽くなってきたに違いなかった。

 しかし、それを自ら拒否するという言葉は、そんな正木先生にはどうしても耐えられないはずだ。

「わかりました…これは、あたしの推測でしかありません。正しいかどうか、それは伊達さんに聞いてみなければ結論は出ませんが…」

「なんでもいい。とにかく、先へ進めて欲しい」

「幸枝、言いなさいよ」

 なんだか「下手」と「上手」の両極端だ。

「その前に、ですね…」

「おお…」

「ホームルームの時間では?」


「さて皆さん、よくお集まりいただきました…」

 いつかの正木先生の真似をしてみた。

 最近、彩子さんの絵に絡めて、何度も嫌な気分にさせられたから「仕返し」だわ。

「もういい、わかったよ。すまん」

 あたしの「真意」を気付いたのかどうか、それとも以前に「そう言ったこと」を思い出したのか、正木先生が頭を下げてくる。

 ここは因縁の美術準備室。放課後、再びクラスの皆んなも集まってくれた。

「一体、今度は何が始まるんだい?」

 五十嵐先生も、参加してもらった。「事件関係者」は多い方がいい。

「何か疑われてることでもあるのかな?」

「ええ…大いに」

「へ?」

「まだ容疑、かしら…」

 けっこう「失礼な言葉」を言われてきたから、あたしもついつい「反撃の狼煙」を上げたくなってしまった。

 …で、ほんの少しだけ溜飲を下げた。

 その五十嵐先生に幕を開けてもらおう。

「五十嵐先生、彩子さんの絵を下ろしてください」

「え…はいはい」

 担当外とはいえども、教師に対して不遜な態度をとる自分の生徒を正木先生は苦々しく思っているかも…そう思うと先生の方を見たくなくなるので、五十嵐先生の作業だけ見守った。

 少々ウエイトオーバー気味の身体が脚立に載って、キャンバスを外して下ろしてくる。

「ありがとうございます…」

 ちょっとは尊敬の念を持つつもりで頭を下げると、そのキャンバスを恭しく受け取った。

 あれ?先生と絵と、どっちに頭を下げてるのかしら…。

「まあ、いいわよね」

「ん、何かな?」

 しまった…。

 気を取り直して、そのキャンバスを裏返す。

 やはり「中山彩子」の署名が、そこにはしっかりと書かれている。

「先生…五十嵐先生。この署名、誰が書いたんでしょうか?」

 あたし、核心をついた…つもりはなかった。本当に素朴な質問。

 でも…。

「おいおい、何を疑ってるんだよ?僕が何かしたって言うのかい?」

 え、何を狼狽えているんだろう?

「ここ」は、ただの「通り道」なんだけど…。

 まあ、いいか…。

「別に…。でも知ってることは話していただきたいんです」

 雰囲気で、あたしも尋問調になってくる。こうなったら流れに乗っちゃえ。

 でも先生、何か「他に知ってること」があるのかしら?

「幸枝、なに?なんなの?」

 とも子が少しだけ青い顔をして声を掛けてくる。

「おい、またうちの学校から犯罪者でも出そうって言うんじゃないだろうな?」

 正木先生も、その顔を引きつらせているのが見える。

「待ってください。今は五十嵐先生に話していただきます」

 ますます、ドラマの山場のムードだわ。

「すまん、ホームズ嬢。君にはお見通しなんだね」

 あんまり…。

 うな垂れるような五十嵐先生を、あたしはドキドキしながら見守った。

 あたしが考えていたことと、違うものが出てくるような感じだ。

「確かに…この絵の表のサインと、裏の署名が違うのがおかしいな、と思ってた。いや、大したことではないとも考えたんだが、なんだか不自然で…」

 あ、やっぱり思ってる方に近づいてきたかな…。

「それで、先生はどうされたんですか?」

「いや、キャンバスと木枠が、違うものじゃないか…そう思った」

 そう、それでいいのよ。余計なこと言おうとするから心配しちゃうのよ。

「え、どういうことですか?」

「つまりね、皆んな。元々あったキャンバス…木の枠に張られていた布と、今ここにある…彩子さんが描かれているものは、違うものなんじゃないかなって…」

「いや、ホームズ嬢。もっと言えば、元々の木枠に、違うキャンバス…って言うか帆布を張ってある、って思ったんだが…」

 なんか、違うの?

「まあ、いいです。それで…」

「気になって…探そうとしたんだが…」

「何を?」

「元々の絵を…中山彩子という人が描いたものを…」

「それでは五十嵐先生も、あの絵は署名のあった中山彩子さんが描いたものではないと、考えてらっしゃるんですね?」

「なんか、そんなふうにしか考えられないんだ。表のサインと裏の署名を見比べると…」

 ほらご覧!…って、言いたくなったが、ここは堪える。

「どこを探されたんですか?」

「どこって…考えられるのは一つしかない…」

「あの絵の裏側、って言うか内側ですね?」

「…」

 無言で頷く五十嵐先生。

「ええ、どういうこと?」

「なんだって!」

 口々に疑問を投げかけてくる中で、一番声高なのが正木先生だ。

「おい、どう言う意味なんだ?」

「わかりません、理由とかは…」

 あたしは素直に認めた。

 人の心は一つの宇宙のようなものだ…って、誰かが言っていた。

 だから、その深い理由までわかるはずはないし、推測するのも難しいから…だから、深淵を覗くのは…。

「すみません…謝ります」

 え?

「五十嵐さん、どうしたっていうんだよ…」

 どれほど二人が親しいかまではわからない、正木先生と五十嵐先生…。

 でも、最前からの同僚教師の―それは、あたしにとっても―不可解な様子を、やはり訝しげな気持ちで見ていたのだろう。黙っていられなくなったか、心配そうに声を掛けている。

「僕は見てしまったんです。どうしてももう一枚の絵を見たくて…」

「ええっ!」

 今度は一人であたしが大声をあげてしまった、誰も反応がなかったのに…。

「ど、どうやって見られたんですか?」

「へ?どうやってって…。別に難しいことじゃないから…」

 そう言うと、あたしが持ったままだったキャンバスを取り戻すと、裏返したままで、

「この鋲を一つ一つ、取っていけばいいだけだよ。なんだい、ホームズ嬢は知らなかったのか…」

 しまった!

「ええ、じゃあ僕が勝手に見てしまったことを追求しようとしてたんじゃないのかい?」

 うっ…。

「…知っていただろうな、とは…」

 あたしは言葉に詰まった。

「ホームズ嬢が来たから、絵を見たことや手紙を読んだこともお見通しだったのかと…」

「え、手紙?」

 すっかり化けの皮の剥がれたメイ探偵は、もはやそこまでの推理…いや、想像すらなかった。

「ああ、そうなんだ。さすがに驚いた…」

「手紙って、なんですか?」

「ええ、中山彩子って人が誰かに宛てたものが、絵と絵の間に…この絵の裏に入っていたんだ」

「ええっ、彩子の手紙が!」

 正木先生は興奮のるつぼだが、あたしにとっては違う意味で驚きの連続だ。

 しかし、周りの皆んなは…。

「ねえ、幸枝…一体どうしたって言うのよ?」

「そうだ、俺らにもわかるように説明してくれや」

 そうよね…。

 でも、その前に…。

「絵は…元々キャンバスに描いてあったものは、同じように戻してしまいました。もう一度、開いてみます」

「すぐできるんですか?」

「ああ、ちょっと待っててね」

 あたしの言葉を待つ間もなく五十嵐先生は、最近使ったばかりなのだろう、すぐ近くのテーブルの上に置いてあったペンチのようなものを持って来ると、絵が描いてある麻のような布を裏側で木の枠に止めてある茶色い鋲を、ゆっくりと抜いていった。

 全部の鋲を数分かけて抜き終わると、木の枠から「彩子さんが描かれた絵」を、ゆっくりと大切そうに外していく…。

「ほら、見てください。驚きますよ」

「表の絵」を外したキャンバスを見えないように抱えたままだった五十嵐先生は、手品師が種明かしをするような悪戯っぽい表情を浮かべながら、ゆっくりとその絵をあたしたちの方へ回してくる。

 すると…。

「ええっ!」

 どんな絵があるのか…あたしはそれも想像の域を超えずにいたのだが、そこに現れた「現実」には、衝撃を受けずにはいられないものだった。

 皆んなは…正木先生も、声を上げることもできず、ただ視線を奪われるだけだった。

 既視感―。

 それは…。



「盗作だとでも言うのかな?」

 老師は、言葉を選びつつ、伊達に問いかける。

「少し違うと思います…」

 目を伏せ、次の言葉を探す伊達。

 しかし、回答を続けることはしなかった。

「元々、私は彼女の…彩子という女性の絵が好きでした。私とは画風が違うし、世界観も異なっている。けれど、その絵を自分の世界に取り入れてみたかったし…」

 老師はいきなり展開の変わった話にも、ひとつも口を挟まず耳を傾けていた。老練のなせる業でもあった。

「彼女もそれを喜んでくれました。実際、私が巴里へ来てしばらくは、当時の彼女のタッチを意識しながら描いていたのです」

「そうか…」

「それでも、いつの頃からか、そんな絵にも限界を感じて…それで自分らしさを思い出しながら…いや、本当に思い出そうとしてやっていました」

「なるほど…」

 笑みをこぼして伊達を受け止めた。

「ですが最近、日本へ戻った時、その彩子の哀しい運命を知りました。もう二度と会えないことを思い知らされたのです…」

 伊達の不幸は、巴里においても、その名の大きさと比例して広く知れ渡ることになった。

「その日本で…彼女との思い出の高校を訪ね、そして懐かしい絵と再会したのです。それが…」



「これが『君がいた街』の元々の絵…」

 五十嵐先生が掲げて見せた絵を見て、あたしはつぶやいた。

「わぁ…」

 声にならない級友たちの歓声…。

「すまないね、これを見てしまったんだよ…」

 頭を下げる五十嵐先生。それが先生の「罪悪」だったのか…。

 その絵…ここまでの流れから言っても、間違いなく中山彩子さんが描いたと思われる絵…。

 それなのに…どうしてもそれは、伊達健太郎が描いた「君がいた街」と同じものにしか見えないのだ。同じ様子の街並み―それは巴里なのだろうか―を背景にして浮かび上がる人物の姿とその描き方の対比。構図も色使いも、そして見ている印象さえ、世界美術賞の特別賞を受賞した作品を彷彿とさせてしまう。

 ただ違うのは…。

「この男の人は…」

 伊達健太郎…。

「君がいた街」で描かれたのがにこやかに微笑む女性―それは間違いなく彩子さんだったのに対して、ここにいるのは静かな表情で佇む男性…ゆっくりと顔を上げてこちらを見ている、それは誰が見ても伊達さん。他には考えられない。

 そして、決定的なもの―それは絵の下の方に書かれたサイン。

 KENTAROH―。

 表に描かれた彩子さんの絵に書かれていたサイン「SAIKO」と、対をなすのだろうか…。

「なんだ…この絵は…」

 正木先生の声は掠れてきていた。

「先生…」

 とも子が近づき、そして寄り添う。

 先生の目の焦点は、どこか遠くへ行ってしまったかのようだ。絵を見ているはずの視線は、すでにそこになかった。

 そう、それはきっと…。

「彩子は…こんなにも伊達さんのことを…」

 それは…。

「それで伊達さんは、なぜこの絵を…」

「正木先生、申し訳ない。ここに手紙が…。どうにもこれだけは元に戻す気になれなくて…」

 そう言うと五十嵐先生は、机の引き出しを開けて一通の書簡を持ってきた。

「僕がこれを読んだことは、間違いなく罪に問われることです。そして、もちろん僕にそんな資格や権利もありませんが、それでもこの手紙は貴方に読んでいただきたい」

 今までの五十嵐先生の雰囲気を一掃させるような、なんだかシリアスなムードを醸し出しながら、封筒を正木先生に手渡した。

「貴方もこの方を愛した男性のはずだ。これを読んでもいいのではないでしょうか?」

 どこにもいない「この方」を暗示しながら、正木先生を促す五十嵐先生。知らなかったけど、きっと心のあったかい人なんだろうなぁ。

 まあ、あたしはけっこう傷つけられた気がするけど…。

「いや、これは…。そうだ、伊達さんに読んでもらうべきではないですか?」

 手を出して受け取ろうとして、正木先生は止めた。

 すると、かぶりを振って五十嵐先生は、

「違います。伊達健太郎さんでなくていいんです。読んでいただければわかります」

 と、強く勧めた。

 その目には大きな光が差しているような、そんな気もした。

「…でも、本当に僕が読むべきではなかったですよ」

 そう言うと、あたしたちに向かって、

「さあ、ホームズ嬢の推理劇はもうおしまいだ。後は正木先生から、明日のホームルームで聞いてください。今日は解散」

 なんか、かっこつけてませんかね…。

 でも、ちょっと早いけどいい潮時って言うのかな。あたしたちは皆んな、先生たちを残して美術準備室を辞することにした。

 振り返ると、封筒を持ったまま佇む正木先生の後ろ姿と、その奥にある彩子さんが描いた「君がいた街」が重なって、なんだか切なくなった。

 正木先生…正木浩は、もしかすると十五年経ってまた、失恋の痛手を味わってしまったのかもしれない。あたしは、なんだかそう感じて少し申し訳ない気持ちになった。


「ほう、そんなからくりがあったのか…」

 あたしは帰宅してすぐ、伯父さんに今日の美術準備室での顛末を話した。

「そう…」

「でも、よく絵の下にもう一枚あるなんて、見破ったな。さすがだな」

 うふふ。

 だけど本当は、絵の下にあるかどうかは自信がなかった。もしかすると…。

「下の絵の上から直接、描いたとは思わなかったのか?」

 ドキッ…。

「ははぁ、図星か?」

 相変わらず元鬼刑事の観察眼は鋭い。あたしの微妙な表情を読み切ったようだ。

 そう、その可能性もなくはない、と考えていた。上からもう一枚、被せて描くことがないような気もしていたのも本音だ。

 だから最初に、五十嵐先生に「そんなこと」を尋ねてみたかったのだが…。

 なぜか「自供」から始まってしまい、一時はどうなるかと、あたし自身が心配になったのも事実だ。まさか何かしらの「犯罪」に絡んできたらと思うと…うん、誤解でよかった。

「だが、なぜ彼なのか彼女がなのか、それとも二人でなのか…そんなことをしたんだ?」

 伯父さんが興味津々の目であたしを見る。

 答えはわかってるんだろう、的な表情にしか思えない。

「ううん、それは明日、正木先生からの報告を待つことにする」

「入っていた手紙ってやつか?」

 ちらっと見ただけでよくわからないけど、宛名もない表書きだった。

 それは間違いなく、彩子さんが認めたものだろう。宛名を書いてないようだったし、キャンバスの下にしまわれたことを考えても、それが誰か特定の人に宛てた手紙とも思えない。

 きっと…。


「私こと中山彩子は、いつかこの書簡が必ず誰かの目に止まることを信じて、ここに認めます。それは私を描いたこの絵が、私の愛した男性・伊達健太郎による作品であることに気付いた方だと思っています」

 最近の、明るくなっていた正木浩という人物が、それは今までにない神妙な面持ちで教室へ入ってきた瞬間から、部屋中の空気が張り裂けそうに感じられた。

 挨拶もそこそこに、いきなり本題とばかりに、昨日の手紙を読み出す正木先生。その目は心なし赤く見えるのは気のせいではないだろう…。

 正木先生が読んでいるはずの手紙の声は、あたしにはいつの間にか、聞いたことさえない彩子さんのものになってきていた。

「そして、その時にはきっと、伊達健太郎という画家が世に名前の知られることになっているはずだと、私は信じて止まないのです。私の敬愛する彼が、画壇で脚光を浴びている姿が…心の中で確かに…確かに…」

 声が…彩子さんの声が詰まる。

「おい、お前でいい…」

 えっ、何…?

 突然に彩子さんの声が低くなってしまったから、びっくりしたのは、それだけ短い時間でのめり込んでいたからかもしれない。

 正木先生は唐突にあたしのことを指すと、つかつかと小走りに寄ってきて、その手にした手紙を目の前に…ちょっと乱暴なぐらいに差し出してくる。

 読め、ということなのだろう…。

 しかし、いきなり代読を任されるとは…。

「お前が彩子の代わりだ」

 …失礼しちゃうわ。

「はい…」

 いろいろな経緯の中、あたしにはかなりの「責任」もあるだろうから、致し方ない。

 だけど…国語の時間に教科書を読むのも苦手だったはずのあたしだけど、なぜか今はすんなりと自然に受け入れることができた。

 あらためて、手渡された書面を見る。

 そこには、あのキャンバスの裏に書かれていた「中山彩子」と変わらない、美しく丁寧で、そして芯の強い文字が整然と並んでいた。

 あたしは先生が言い淀んだ場所を探すと、やはり授業中のように席を立ち、その先を読んだ。

「…私の敬愛する彼が、画壇で脚光を浴びている姿が心の中で確かに見えているのです」

 一文字一文字を辿るように…それは彩子さんの言葉だけでなく、彼女自身を辿ることでもあるような、そんな気持ちになる。

「似ている」と言われた彩子さんという女性が、あたしと重なるように…少しずつ…。


 ―私はそんな伊達健太郎を尊敬し、彼が旅立つ巴里へ一緒に行く決意を固めました。共に彼の地へ赴き、絵画の世界で生きていく決心をしたのです。

 この絵「君がいた街」は私の思い―巴里への…何より絵画への情熱をぶつけた作品です。

 そして同じぐらい熱い気持ちを、愛する伊達健太郎へと捧げたものなのです。

 それから、もうひとつ…。

 彼を画家として尊敬するだけでなく、私自身もひとりの絵画の創作者として、やはりその実力に負けたくない気持ちも持ち合わせているのも事実です。

 いつか画家として生きていきたい―。

 彼が、そして私も相当な思いを抱いて巴里へ向かうつもりでいます。

 しかし、どんなに私たちが強い意志と不退転の決意を持っていても、巴里は…絵画の世界は、きっと受け入れてくれることは難しいと思っています。いや絵画に限らず、芸術というフィールドは、たとえ入口が開かれていたとしても、生半可な気持ちで通用するはずもない…漠然とではありますが、そう感じています。

 それでも彼は…伊達健太郎は、その苦難の道を選びました。いえ、彼の生きる術として「画家」という選択肢以外、その視野に入れていないのです。

 そして、私も…。

 彼のために巴里へ行く。

 私のために巴里へ行く。

 愛する男性を守るため。

 尊敬する師を支えるため。

 競うべき画家と生き、自分を高めるため―。

 そのための一歩が、この絵「君がいた街」。

 彼の、そして私の未来が始まる最初の作品だ。

 たったひと言、彼の評価。

「君は競争者としても、僕にとって大きな存在なんだね」

 私にとってその言葉は「愛している」にも負けないぐらい大きなもの。

「彼と共に巴里へ行くこと」、それを迷わず決心させた言葉。

 たとえ何があろうとも…たった一人の母親を残すことになろうとも、彼に着いていく。その先に待ち受けるものが、どんな悪魔であろうとも、私は負けない。

 この絵に誓って…。

 そして私は、この絵を封印する。この手紙とともに…。

 帆布をかけたキャンバスに、彼は私の絵を描いてくれる。何も知らず、私の願いを聞いてくれるはずだ。

 いつまでも彼に寄り添える私であることをここに封印し、巴里へ旅立つ。

 いつか、この手紙を誰かが見つける時が来たら、私の気持ちを全て知って欲しい。

 私は伊達健太郎を愛し、敬い、そして共に闘っている。

 巴里という街の、その片隅で…。

 いつか伊達健太郎が画家として名を馳せる時、同じく私も肩を並べられていることを信じている。

 伊達健太郎を愛し、そして愛された私は、ひとりの女性であり、何より一人の画家なのだ。

 中山彩子―


 長い手紙を読み終えた。

 いや、長い旅路を歩き終えた―そんな感じがした。

 その中で、彩子さんの「想い」を少しでも知ることができ、あたしは嬉しく思う。

 優しく美しく、そして気高く強い女性だったんだな…って。

「ふう…」

 あたしは手紙を下ろした後、なんだか異様な雰囲気を感じた。ひとりで違う世界へ行ってしまったような…。

 そして周りを見渡す。そう、慌てて前後左右、教室中を見回した。

「え…?」

 皆んな、手で顔を覆ったり、机に突っ伏したり…。

 いつの間にか椅子に座っていた正木先生も、うなだれて何も言わないでいる。

「え…どうしたの…」

 泣いてる、皆んな?

 誰一人、声を上げようとしない。

 そう、すすり泣く声しか聞こえない。

 あたし一人、なんか平静って感じ…。

「なんで…取り残されてる…」

 どうしよう…。



「それは、君が愛した女性のものだと言うんだね」

 しかし伊達は、

「それは…その絵は私が彼女を描いたものです。その絵を描いたキャンバスの裏にもう一枚の絵があるのです。それが彼女が描いた絵です」

「なるほど…キャンバスが二重になっている、そう言うんだね」

 やっとうなずく伊達。

「もう十五年前に、ほんの少しだけ完成した絵を見たのですが、今でも目に鮮明に焼き付いているのです。私が描いたものは、その絵を元に描いたのです」

「ほう…」

「彼女はその絵を見せてくれた後、しばらくすると素知らぬふりで帆布を一枚掛けて渡してきました」

 私を描いて―。

「私は、それが彼女の描いた『君がいた街』の隠されているキャンバスだと、すぐに気付いたのですが、何も知らぬふりをして彼女の望みを叶えました。今にして思えば…」

 少しだけ目を閉じる…。

「彼女は私を愛してくれていました…それは私も同じです、今も変わりません。ただ…」

「ただ?」

「彼女も、同じように絵を志した者の一人として、あの作品で自分自身のことを試したかったのでしょう。事実、それは大変に完成された素晴らしい絵でした。だから私は彼女に最大限の評価の言葉を送り、そして受け入れた。本当は一緒に来るつもりではなかった…最初は一人で来るはずだった巴里へ、二人で行こうと決めた。あの絵…彼女の『君がいた街』を見て、決心したのです。きっと私のことを助けてくれることがある、そう思ったからです」

「では、なぜその絵を、言ってみれば封印することにしたのかね、彼女は?」

「おそらく…」

 伊達は思いを十五年前へ馳せた。

「意志の強い女性でした。そしてプライドもある…いいえ、中途半端な自意識過剰なのではなく、あえて言えば絵に対して完璧主義、とも言えるところがありました。だから、自分を試した絵をいつまでも誰かに見られたくなかったのではないかと…」

「なるほど…」

「それでも、その絵を…私が評価した絵を葬り去ることは忍び難かったのでしょう。それで、そんなことをしたのだと想像しています」



「お前…やっぱり…」

 先生…。

 顔を上げてあたしを見るじっと見る先生。その目は赤かった。

「彩子に似てない…」

 何よ、それ…。

 わざわざそんなこと言う必要あるの?

「でもな、ありがとう。お前には何度も救われた、彩子のことで」

 そうでしょうね…でも、あたしゃ救われないわよ。

「幸枝…すっかり感情移入しちゃったわよ」

 とも子、やはり目が潤んでる…。

「おい、幸枝。上手かったぜ…その抑揚を抑えたしゃべり方、ピッタリだった」

 すっかり涙もろいことを暴露している森崎君、もうすでに…。

「え、抑揚って…」

 あたし、特にそんな読み方した気はないのに…。

「幸枝はよく平常心を保てたわよね…まあ、読んでたから無理ないけど…」

 平常心、ねぇ…。

 確かに、彩子さんの気持ちがすごくわかる気はした。だから、どこか「強い気持ち」になれた。

 そして、伊達さんに対する、もしかすると「対抗心」みたいな思いも、あたしの心を揺さぶった。ただ「愛してる」っていうだけじゃなく、伊達さんとの「競争」みたいな感情も持っていたのよね…。

「素敵、だわ…」

「そうね…彩子さんの伊達さんへの愛情の深さって、よくわかったわ」

 そうなんだ…そういう観点になるんだ…。

 そうなのね…。

「そうか!」

 びっくりした!

 最近の正木先生は、本当に滑稽だったり軽はずみだったりする。

「だから賞を辞退するなんて言い出したのか、伊達さんは…」

「元々、彩子さんが描いていた絵だった…伊達さんのオリジナルではないから…」

「そ、そうだ。俺もそう言いたかった」

 とすれば…もう一つある。



「『街』にいた『君』は、彩子ではないんです。それは…」

「それは君、ムッシュ伊達でなければならない。そう言いたいんだね」

「はい…」

「それほどまでに君は、その彩子という女性を…」

 愛していた…愛している…。

「わかった。この件、私にしばらく預からせてくれまいか?」

「え…」

「お願いだ」

 深く首を垂れる老師の、その姿は神々しくさえ感じられた。



「先生…もう一つ、聞いてもいいですか?」

「なんだい…」

 放課後、あたしは美術室を訪ねた。

 どうしても聞いておきたいことが、まだ今の時点であったからだ。解けていない疑問が。

「五十嵐先生…この間、伊達さんこの学校を訪問された時、ここへはいらっしゃいましたか?」

「え、伊達健太郎…さんが?」

 あたしの問いに訝しげな顔を見せる。

 彼が一度目に訪問した時は「他の場所」へ行く時間や余裕もなかったはずだ。それは「大きな事件」の解明の場であったのだから。

 しかし、その後にあたしたちの教室で「講演会」をしてくださるためにいらしゃった時には、少しは自由な時間もあったはずだ。

「なぜ、そんなことを?確かに伊達さんは一度だけ顔を見せたよ。ちょうど僕が部屋にいた時だったから、ちょっと話をさせていただいたよ…短い時間だったけど、感激だったな」

 そうか…では…。

「少しの時間、ここにいらしたんですね?」

「え、ああ…五分かそこらだったかな。懐かしいから寄った、みたいなことをおっしゃてた」

「では、昨日のように絵を外して、内側を見るような時間はなかったんですね?」

「えっ?」

 何を言いたいんだ…顔に書いてあるとは、まさにこのことだ。

「ありがとうございました」

 それ以上は何も聞かず、何も言わせず…ましてや、今まで受けたような「侮辱的な言葉」を浴びる前に、あたしは退散した。

 まだまだ解らないことばかりになっている…。


「幸枝、どうしたのよ。帰るよ」

「ごめんごめん」

 とも子が待っている三年二組の教室へ戻ると、あたしは鞄を持った。

 解らない謎は、どんなに深く考えても答えが出るとは限らない。むしろ、ふとした弾みでいきなり明解な答えにたどり着くことだってある…はず。

 そう思うと、今はただ早く帰路に着きたかった。

「どうしたの、幸枝。一人でどこに行ってたのよ」

「え、うん。美術室よ」

 思えばすっかり馴染みになってきた部屋だ。

「ええ、なんで?五十嵐先生に何か聞き込み?」

 あたしの行動も、すっかりお馴染みのようだ…。

「うん、ちょっと。まだ解らないことがあって…」

「そうか…なら仕方ないけど。でもさ、気をつけな。五十嵐先生って、なんか不気味な感じだから」

 あたしを「ホームズ嬢」なんて呼ぶし「色気ない」とも言うし…悔しい…。

「で、何かわかったの?」

「うーん、可能性の一つを潰した…ぐらいかな」

「何、それ?」


「何、どうして似てるっていうのか?」

「そう…」

「だって、それは幸枝…その彩子さんが描いた絵を、伊達さんが元絵にしたっていうことじゃないのか?」

 家に着くとすぐに、あたしは伯父さんに「疑問」を投げかけてみた。

 あたしの疑問は…。

「あまりにもそっくり過ぎるから…だって十五年経ってるし、人の記憶ってそんなに持つものなの?美術準備室で見せてもらった時、彩子さんが伊達さんだっただけで、構図とかがほとんど一緒だったの。写真でもあれば見てもらいたいぐらい」

「そうかい。きっと一流の画家は、それだけ印象に残った絵を心に止めておけるんじゃないのか?」

「うーん…」

 そういう見解もあるか…。

 でも…。

「五十嵐先生の話」が本当なら、先日の来訪時には伊達さんが「あの絵」を見る機会はなかったようなのだ。もし見ていたのなら、あの手記も読んでいないはずはない。そうであったならば、あたしたちのクラスでの講演会で、もっと違った話も聞けたはずだ。それからしても、彩子さんが描いて封印した絵を見ていないのは確実だ。

 つまり、あの絵の存在自体っていうか、あそこにあることを知らない可能性もあるのよね…。

 ああ、なんでこんなことに悩んで考えてるのかしら、あたし…。

「幸枝、またコーヒー淹れてくれよ。お前の淹れるの、けっこう美味いからな」

「うん、わかった。でも夕飯前だから一杯だけね」

 あたしが淹れるコーヒーが美味しいとは…「伯父ばか」にしても嬉しいものだ。

 急いで台所へ向かう。

「あら、幸枝ちゃん。もうお腹空いた?」

「ううん、伯父さんがコーヒー飲みたいからって…」

「幸枝ちゃんに、淹れてくれって?」

「そう…あたしが淹れるの、美味しいって」

「まあ…」



「そうか…あの子、見つけたのか…」

「伊達さんは気がついていたんですか?」

 深夜の電話は縁起が悪い―。

 かつて、そんな話を聞いていたことがあったが、国際電話であれば、それも致し方ない。

 ましてや、前回は自分から架けた電話が、日本では遅い時間だったはずだ。

「ああ。彩子が描いて、それを隠したつもりで私に持ってきた。その上から彩子の絵を…肖像画を描いてくれと言われた」

「やはり、あの彩子は伊達さんが…」

 苦い物を噛んだ、そんな気分になった。

 やはり、教え子に言われた「騙した」ということだったのか、と感じざるを得なかった。

「正木君、確かあの時は『彩子が描いた自画像だ』と言ってしまった覚えがある。嘘をついてすまなかった」

「え、いいえ…。よく覚えてませんよ、そんな昔のこと…」

 差し込んでいた西日さえ鮮明に記憶の中から蘇ることがある。乾きかけた油彩の匂いも鼻に蘇ることさえある。

 それでも十五年経ち、そして「全てが消え去った今」は、もう水に流すべきことなのだろう、そう感じてもいた。

「では伊達さん、あの手紙は読んでいないんですよね?」

「ん、手紙?」

 遠く離れた巴里の電話口で、その端正な顔をしかめているのが見えるようだ。

「そうか…そうですよね…」

 正木は重い口調になった。

「伊達さん…もう一度でいい、日本へ帰ってきてください。僕の口で読むのは簡単ですが、ぜひ帰ってきて…それで彩子の想いを、あらためて感じてあげてください。お願いします」

「えっ、なんだって言うんだ?」

「おそらく、伊達さんも…彩子が愛した貴方でもわかっていなかった、彼女の気持ちです」

 正木は読んだばかりの彩子の手記の内容を、その真意を損なわないように伝えた。

 伊達を男として愛し、師として尊敬し、その上で画家として競う気持ちでもあったということ―。

 黙って聞いていた伊達は、知らなかった思いに心を激しく揺さぶられる気持ちでいっぱいになった。それほどまでに強く、熱い思いがあったとは…。

「そうか…それもあの子が見つけたのか?」

「それは偶然だっただけです。最初からあの絵の内側にあるなんて知らなかったようですから」

 発見の経緯を、正木はぼかして答えた。

 全く関係のないはずの人間がたまたま見つけた、とは言いにくかった。

「わかった。でも、そうだな…それではもうすぐ、新しい事実を、あの子は見つけ出すんじゃないか?」

「え、新しい事実?」

「そうか…うん、そうか…」

「伊達さん、どうされました?」

 電話口の声が変わったような気がして、正木は驚いた。

「いや、なんでもない。彩子の、私も知らなかった一面。教えていただいて嬉しかったよ。ありがとう…それから正木君…」

「はい…」

「やっぱり私は賞をいただくことにする」

「本当ですか!」

「ああ、そうするよ…君たちのためにも、ね」

 きっぱりと言い切った声は、やはり違う声だと正木は感じた。

 しかし、それは伊達が何かを乗り切った、その結果のようにも思え、今度は心の底から嬉しいと感じられた。

 そして…。

「そうだ、あの子に伝えて欲しいことがある…」

「え、なんですか?」



「そうですか…そうですか…」

 伊達さんが賞の辞退を撤回した…。

 あたしにとって…あたしたちクラスの皆んなにとって…いや日本中、世界中の人たちにとって、それは喜ばしいことに違いない。もっとも「賞を辞退したい」と言っていたのを知っていたのは、ごくわずかなんだろうけど…。

 ホームルームの時間、正木先生の開口一番の言葉は、あたしたちにとって久しぶりの嬉しいニュースだった。

 正木先生が電話で伊達さんに昨日の一件を伝えた後、その気持ちが変わった…そういうことらしい。

「まだ詳しくは話していないんだがな、手紙の内容は。でも、そういうものがあったことを知ったから、気が変わったのかもしれないな」

 誇らしげに報告する正木先生の顔は晴れやかだ。

 どんな会話がなされたか、それは知らない。でも、きっと男同士、通じ合うものがあるのだろう。

 でも…。

「先生…」

「な、なんだよ…まだ何か残ってるのか?」

 明らかに…それは言葉にすれば、やはり「ギクッ」という擬音が入る顔をした。

「はい」

 最近のあたしは、どうにも強気な態度に出られる。

 それは「彩子さんに似ている」っていう一件に絡めて、いろいろな人からたくさんの「嫌味な言葉」をもらうことに陥ったから、その反動なのかもしれない。

「もしかすると、彩子さんの描いた『君がいた街』、あの絵は本当は伊達さんが描いたものだったのではありませんか?」

「え、ええっ!」

「本当かよ?」

「何それ…」

 クラス中の、こんな声を聞くのは何回めかしら…。

「ねえ、幸枝…もう、いい加減に解決してよ」

「二転三転し過ぎだよ」

 あたし、悪いのかしら…。

「ごめん…でも全部、伊達さんと彩子さんが仕組んだことよ…」

「ええっ!」

 またまた大騒ぎだ。

 でも「仕組んだ」は言い過ぎかな…。

「ええと『それ』がどこにあるか…たぶん、そうだと思う場所は見当ついてるけど、でも見つからないと始まらないの」

「なんだ、何があるんだ。お前はどこまでわかってるんだ?」

 正木先生の顔は苛立ちでいっぱいだ。

「伊達健太郎が描いた『君がいた街』のタイトルの元になった、彩子さんが描いた『君がいた街』、その元絵になった…下絵です」

「は?」

 クラス中、誰一人として理解できていない…。

「いや、待て。伊達さんがお前に伝えて欲しいって言ってたことがあったんだ…」

「え、あたしに?」

「たぶんだが、お前が今、頭に浮かんだこと…」

 正木先生は、少しだけ理解し出したのかもしれない…。



「そうか、思い直してくれたのか」

「はい、先生。お騒がせしました」

 伊達の顔付きが変わった…何か重いものを取り除けた、そんなイメージになっている。

 以前から目をかけ指導もしてきた、このアジアの片隅から来た男が、今や世界に名だたる大画家の仲間入りをしている。その筆で自分のイメージを存分に表現できている。もはや風格さえ漂う。

 しかし、そのどこかでなぜか、心に重い蓋をして生きている…そんな感覚を漂わせていたのも事実だ。それが何に起因しているのか…その原因を最近になり知らされ、自分や周囲の人間は大きな衝撃を受けた。

 そして、それを乗り越えて輝かしい成果を上げてきた伊達健太郎という男の持つ強靭な精神力にも、さらに驚きを禁じ得なかった。

「わかった…ありがとう」

「いえ、先生。お礼を言うのは私の方です。今までご指導いただきありがとうございました…」



「それは…そう、伊達さんも『それ』っていう言い方で話してたけどな…お前が考えている場所ではないはずだ、そういうことだった」

「え、どういうことですか?」

 あたしが考えていたこととは違う…。

「なんだか『違う裏にある』そうだぞ」

 正木先生は不思議そうな顔をしながら、伊達さんの伝言を伝えてくれた。

 それは違う裏にある―。

「何よ、幸枝。ずいぶん伊達健太郎と通じ合ってるじゃない」

「全然…」

 とも子の言葉を、軽く一蹴。

「え?」

 あたしは、彩子さんが描いた「君がいた街」の、さらに内側に伊達さんが描いた「下絵」があると思っていた。それを見て彩子さんが「君がいた街」を描いた、そう読んでいた。

 しかし、その読みは外れていたらしい。しかも、伊達さんには、あたしが外すことを読まれていたようなのだ…。

 一枚、上手だったのか…。

「ハハハ、お前でも間違うことがあるんだな」

 あたしの顔色を見て「間違った」ことに気付いたのね。何よ、その嬉しそうな顔。

「さあ宿題だ、宿題だぁ」

 すっかり子供っぽくなってきてる。

 でも、そんな正木先生を見られるのは、ちょっとホッとできるのも事実だ…。


 だけど…。

 うーん、悔しいなぁ。

「伊達健太郎からの挑戦状、ね…」

 あたしが考えていたのは「伊達さんの下絵を元に彩子さんが『君がいた街』を描いた。その下絵は彩子さんが描いた絵の内側にある」っていう、三重構造の…うーん、トリックではないけど、ちょっとした「悪戯」みたいなもの…。

 でも違うみたいだ…。

 伊達さんはあたしの考えを…いや、あの絵のことを考えついた人間が「次に考えつくこと」を、読んではいたのだろう。

 そう、伊達健太郎が「中山彩子を愛した男性」であることと同時に、中山彩子は「伊達健太郎を愛した女性」なのだ。そして、絵画の道を目指す者として「彼に敬意と敵愾心を持っていた」のと同じような気持ちを、伊達さんも持ち合わせていたのだろう。

 だから、たぶん「彩子の描いたこの絵は元々、自分がイメージしたものだ」ということを、さり気なく残しておいた、そう推理させていただいたのだ。

 そして、その「証拠」を彩子さんの絵の内側に残したと結論付けようとしたのだけれど…。

 無理があったかぁ…。

 一人、ベッドの上で悶々…女の子が、こんなことでこんな風に悩んでていいのかしら?

 でも「それは違う裏にある」という言い方をしていたようだ。と言うことは、考え方はあっているっていうことよね。

「裏」って「裏側」よね…違う裏側?他の絵の裏側にあるってこと?

「ちょっとなぁ…」

 そんな「ごまかしたやり方」が似合う人ではないことは確かだ。もっと違う考え方を採用するべきだろうし、もし本当にどこかの違う絵の裏側にあったら、世界中であたしだけでも「アンチ伊達健太郎」になってしまおう。

「裏、ねぇ…浦とかじゃないわよね…」

 地名ならばともかく、もし海の「浦」のことだったら、この近くにはないんだし、そんな広範囲な「ヒント」をくれる人でもないだろう。

 もっと「限定された裏側」のはずだ…。

 でも「それ」はどこかに必ずある、そう考えてもいいってことよね…。

 すると…。

「幸枝ちゃーん、電話よ」

「は、はぁい…」

 夜更け、と言うにはまだまだ早い…ただ、あたしがベッドの上にいたから「夜感」が漂っていたけれど、ドリフターズすら始まっていない時間だと、時計を見て気付いた。

 慌てて一階へ。

「陽子ちゃんからよ」

「へえ、ありがとう」

「よかったわね、陽子ちゃんが元気になって」

「…うん」

 なぜかちょっぴり照れ臭い気がした。

 伯母さんも知ってる陽子。あたしの友人のことを気遣ってくれることが心から嬉しく思う。

「もしもし、陽子…」

「あ、幸枝。ごめんね、遅くに」

 あたしたちの元生徒会長は、非常に礼儀正しく、誰よりも真面目な女の子だ。そして、心も優しく温かい…それが、大きな悲劇を生みそうになったこともあるけれど、でも彼女の素晴らしいところに違いない。

「どうしたの、電話で話すのも久しぶりよね?」

「うん、幸枝がいろいろ考えてるって聞いたから、どうしてるのかなって、少しだけ気になったから…」

 クラスの違う陽子は「一連の件」には直接参加していない…。

 ははぁん、とも子だな…。

「ありがとうね、気遣ってくれて…」

 情報源だの、その話の内容だの…そういうことには触れないでおこう。

「大丈夫よ、なんとか道筋はつくから…」

 嘘、まだまだ…。

「本当?ならいいけど…」

 心の優しい陽子のこと、心配させたくない。

 今も電話の向こうでおかっぱ頭の真ん丸目が見えてくるよう…どこか淋しそうに話をしている姿が…。

 それは最近、哀しい事件に巻き込まれたということもあるけれど、でもそれ以前に、お父さんに早くに死に別れて、母一人子一人の家庭で育ったという要因もあるのかもしれない。他人のことを心配する気持ちがすごく強い女の子なのだ。

「幸枝はすごいね」

「え、何?どうしたの…」

 心優しい生徒会長…いや、元生徒会長にそんなことを言われると、なんかくすぐったい。

「私のこと、助けてくれたのも幸枝だったし。最近、すごく変わったよね」

「ええ、そう?」

「うん…なんか積極的になった気がするわ」

「そうかなぁ…」

 あたしはさらにくすぐったい…を通り越して、面映ゆい感じになった。

「ありがとう…」

「でも、幸枝。何を考えて悩んでるの?とも子…って、彼女に話を聞いたんだけどね」

 やっぱり…。

「あんまり詳しいことがわからなかったから…」

「そうよねぇ…」

 今の時点で少しでも、話の本筋をわかっているのは、間違いなくあたししかいない…ちょっぴり偉そうに言わせてもらえば、伊達さんと中山彩子さんの「過去の所業」に、あたしは触れようとしているのだ。

 それでも、少しは誰かと分かち合いたく、ここは話も通りやすい陽子に、要点を伝えた。

「へえ、さすがは幸枝ね。目の付け所が鋭い」

「いやいや…そんなことありませんぜ」

「でも伊達さんの言う『違う裏』って…なんか、簡単な『裏』のような気もするわね」

「えっ、どういうこと?」

 あたしは勢い込んで陽子に尋ねた。

「えっ、えっ…あらためて言われても難しいけど…なんか幸枝が考えてるのは『裏側』みたいだけど、伊達さんは『裏』って言ってるんでしょ?裏って、どこかの場所の裏…校舎の裏とか、体育館の裏とか」

「あっ…」

「きっと、簡単…って言うか、大きなことのような気がするわ…ごめんね、なんか勝手なこと言って…」

「…ちょっと、陽子。貴女って天才かも」

「なに言ってんのよ、幸枝。思いついたこと言っただけ。それ以上のことは何も思いつかないわ」

「そうよね、裏なのよね」

 陽子の言葉も上の空になってしまうぐらい、あたしの思考に新たな見解が生まれてきていた。

 まだ形になっていないけど、でも正しい道筋が見えてきた気がする、そんな瞬間だ。

「ありがとうね、陽子…」

「何よ、いいのよ。幸枝には本当にお世話になってるんだからさ」

 友達なんだから、そんな言葉は言って欲しくないのに…。

「そうそう今度ね、時間ができたらお願いしたいことがあるの。よろしくね」

「え、何かしら…」

「またいつか話すね」

 なんか気になる。恋の相談…なら、あたしにはしないわね…。

「わかった。あたしでよければ何でも言ってね」

「ありがとう…」

 短い電話の会話だったが、それでも大切な友人との時間は、心を和ませてくれて、そして新しい展開をも見せてくれようとしていた。

「裏、か…」

 電話が切れた後も、受話器を持ったまま、しばらく立ち尽くしていたことに、自分自身で気付かずにいたあたしだった…。


 …と言うことは、全くもって「五里霧中」なのはさほど変わらない。

 よく考えたら、対象が広がったような気さえする。

 いや、ここは「方向転換」と思った方がいいかもしれないが…。

「裏、ね…」

 同じようなことばかり言っている。

 最初に考えてた「裏側」あるいは絵の「内側」とは違うのだろうか…。

 伊達さんは「裏」という表現をしていたようだが、最近の正木先生のことだから、少し怪しい気もするのも本音ではある。

 しかし、ここは何にせよ一本の筋を通して考えてみたい。

 そうしてみると、陽子が言っていた「どこかの裏」、言い換えれば「裏手」みたいなこともあるかもしれないが…。

 そんな…例えば「校舎の裏」とかに、伊達さんが絵を隠したって言われても、やはりピンとくるものではない。あまりにも現実的ではない。広い場所のどこかに下絵か何かがある、っていうようなことではないとは思う。

「裏、かぁ…」

 なんか思いつくこと、ないかしら…。

「そう言えば…」

 昔、とも子と幼稚園の裏にある雑木林でよく遊んだっけ…。

 遅くまで遊んでて、よく伯母さんにも叱られたんだ。

「そうだ」

 ふと、そんな古い記憶の奥底からイメージできる場所が思い当たった。

 高校の裏に静かな神社がある。御氷川様の境内だ。

 あんまり行ったことがないけど、階段を少し登ってちょっと小高くなっている、振り返ると街並みが見えて…。

「え?」

 身体を電流が走る…テレビのヒーローではないけど、あたしにもそんな機能が備わっていたのか…いや、どうしようもない高揚感が支配するのを抑えられない。以前にもなんかこんな気持ちになったことがあったような気もする…。

 慌てて「あの本」を取りに行く。茶の間に置いてあったはずだ。

 まさか…まさか…。

 なんか足がもつれそうになる。

「お、幸枝。まだ起きていたのか」

「うん、ちょっと…」

 高校三年生にもなって、そんなに早い時間には寝ることもない…って思ってたけど、時計を見たらけっこういい時間になってた。

「あ、伯父さん。その本…」

「なんだ、夜遅くに。まさか美大を受けるつもりか」

 冗談だろう…でも、今は相手をしている気分ではない。

 なぜか、夜になって伯父さんが見ているとは思わなかったけど、その手から半分はひったくるように取り上げると、あたしはまず「君がいた街」のページを開く。

「うんうん…」

 そしてもう一枚、どうしても「比較したい絵」のあるページを手繰った。

 その二枚の絵を、交互に見比べてみると…。

「どうした、幸枝…」

 アングルとか、全く同じではないから単純に比べられないけど…。

「やっぱり…」

 明日の朝、宿題の提出だ…。


「なんだぁ、もうわかったのかぁ?」

 なんだかすっかり「メイ探偵の推理披露の場」にもなってきた朝のホームルームの時間。あたしが「解答」を持ってきたことを伝えると、ひどく怪訝そうな、それでいて少しだけがっかりしたような顔で正木先生があたしを睨んできた。

 なんだろう…。

「せっかく伊達さんに答えを聞いたのになぁ」

 そういうことね…。

「先生、ずるいわよ」

「いいだろ、林。もうそろそろ、この件は終わりにしたいからな」

 彩子さんが自画像を描いたと信じていた先生には、いい加減で決着をつけたいのね。

「で、答えは何だ?」

 苛立つように吐く正木先生。せっかく教え子ががんばって解答を出したのも、なんだか気に食わないのかしら…。

「で、伊達さんはなんておっしゃってたんですか?」

「それを言ったら謎解きにならんだろ」

 そうね…。

「御氷川様…」

「ああ、もういい!俺の負けだ」

 正答、でしたね。

「え、何それ?」

「幸枝、教えて」



「ムッシュ伊達。受賞の喜びをひと言」

 巴里でも一番のホテル、その中でも最大のボールルームが会場になっていた。世界中と言ってもいいほどの報道各社が、この場に集まって授賞式の様子をテレビカメラに納めていた。その中には当然のように、日本からの報道機関も混じっているのが見て取れた。

 特別賞を受賞した伊達健太郎が表彰される番になって壇上へ上がると、授賞式の司会進行役を担っている、この国ではベテランとして世界中に名を知られている重鎮の映画俳優である男性が、マイクを差し出してきた。

「ありがとう」

 ずっしりと重みのあるブロンズ像を両手で持ち、タキシードに身を包んだ伊達は、感謝の言葉を簡潔に述べた。

 強いライトが全面から当たり、ひどく場違いな感覚に襲われる。このような場所に自分がいることが不思議でならなかった。

 大きな拍手が自分を包み込む。

 伊達は少しだけ時間を空けると、さらに言葉を続けた。

「この賞を果たして受けていいものだろうかと、初めは悩みました。そして…」

 表彰台となっている舞台の袖に控えている老師の姿を振り向くと、

「先生に相談もしました。それは…」

 数日前の行動を思い起こすと、面映ゆい気持ちが蘇る。

 そして数ヶ月前の一件、さらには十五年前のこと…。

「そう、この絵…『君がいた街』が、果たして自分だけの作品として世に出していいものかどうか…」

 自分のすぐ脇でイーゼルに載せられた絵を見ながら、長い運命の紆余曲折をも思いつつ、伊達は回顧していた。

「できうれば自分一人だけでなく、私が愛した女性…今でも愛し続けている彼女と二人の作品として見ていただきたいと、そう願っていました」

「ムッシュ伊達。その女性とは、やはり…」

「ええ、中山彩子という名前の…私が愛した女性、そして尊敬できる画家です」



「この絵は…その題名通り『君がいた街』なんです」

 あたしは何度も持ってきた美術書の「君がいた街」のページを開いて、クラス中に見せながら説明をした。横ではなんだかつまらなそうな顔をしている担任がいたが、気にしなかった。

「おいおい、なんだか難しそうだな」

 森崎君が茶々を入れようとしていたが、

「そんなことないわよ。言ってる通りのこと…」

 あたしは簡単に受け流す。

「つまり、ここに描かれているのは巴里のモンマルトルの丘、とかではなくて…裏の御氷川様、なんです」

「えっ…」

 もう、この感覚は何度も味わっている。

 クラス中の声にならない…驚き…。

「御氷川様の石段で二人は絵を語ったのでしょうか。それから、愛もささやき合ったのかもしれません…」

 あたしは、見えるはずのない二人の姿を頭の中に思い浮かべる。

 見えないもの…それは「あたし自身」かも…。

「そこからの風景が巴里のモンマルトルの丘に似ていることも感じあっていたのかもしれません。そして、その景色を…」

「絵に描いたの?」

 とも子の質問。あたしは…。

「伊達さんが言ったんだと思う。きっと『こんな景色が巴里で待ってるんだ』って…」

「それで彩子さんが、あの絵を描いた?」

「そう、一枚目の『君がいた街』…」

「それで下絵が、あそこの景色っていうことなのね」

 だから「伊達さんが描いた下絵」なのよ…きっと…。

 皆んなも知ってる御氷川様からの風景が、巴里を…モンマルトルを彷彿させる景色。あの絵がどこか懐かしいのは、皆んなも見ている景色だから。すぐ近くにある、それは異国でもなんでもない日常の風景。

「それじゃあ二人が同じ絵を描いたのって…」

「二人が同じ景色を見たから…見ていたから…」

「それが二人の同じ想いなのか…」

 いつものように見下ろすと愛する人の姿がそこにあった。愛する人が見つめ返していた。だから二人は同じような絵を描いた。

 彩子さんを見る伊達さん…伊達さんを見る彩子さん…その表情が同じなのは、二人が同じ想いでいるから…それが、愛し合っているっていうことなのか…。

「なんでわかったの、幸枝?」

「うん、いろいろと…。でも決め手は…」

 あたしは今まで開けていた「君がいた街」のページを変えると、そこに「モンマルトルの丘」のタイトルが書かれた絵を見せた。

「この絵のモンマルトルの丘とは違うなって、そう思った。この絵のモンマルトルの丘を見ても思わなかったけど『君がいた街』は、なんだか懐かしいとか、身近な雰囲気があったから…」

「それで気付いたか…」

 正木先生が、少しは感心してくれたのか、頷いた。

 あたしには、それはよくわからない…わからないで使っていた「愛」っていう言葉だったけど、正木浩という人にとって、それは大きく空いた心の穴っていうのかもしれない。

 でも…だけど…。

「わかった…ありがとうな。じゃあ、まあこのまま数学の授業に入るとするか。ホームルームの時間も終わりだしな」

「あ、あのう先生…」

 あたしは、もう一つの「解答」を発表しなければならない、そう思った。

「なんだ、まだ何か言い足りないのか?」

「はい…未解決の事案が…」

「お、ホームズ嬢。また事件解決だな」

「まあね、森崎君。あのう『怪談』をひとつ、解明してもいいですか…」

「なんだ、何かあるのか?」

「幸枝、やるわね」

「美術準備室の件ですが…」

「え…」

 一瞬にして先生の顔色というか、顔付きが変わった。強張った表情になった。

 もう、これは間違いない。

「やめておきますか?」

「なんだ、俺が何かしたっていうのか!」

 まずいか…。

「幸枝、そこまで言ったら最後までいきなさいよ」

 でも、とも子…担任の先生だから…。

「俺には思い当たることはないぞ」

 はあ…語るに落ちてる…。

「俺があの部屋に出入りしたわけじゃない…」

「ええ、先生?」

「なんだって?」

 教室中がざわめいた。

 そう、彩子さんの描いた絵を見たくて…それでこの学校に赴任してから、夜も遅くに度々…。

 でもそれが…あの絵は伊達さんが描いたってわかったから…。

「もう美術準備室の怪談は無くなりましたよね、先生…」


「君がいた街」の「君」は、伊達さんにとって「愛した女性」である彩子さんだ。

 では彩子さんの「君がいた街」の「君」に、込められた想いとは…。

「もしかすると愛した男性である伊達さん…というだけでなく、競い合う画家として『対等な立場』にある『君』だったのかもしれないわ」

「それじゃあ、幸枝。彩子さんは伊達さんを?」

「もちろん、愛していた。でも手紙にも書いてあったように、やはり画家同士っていう思いも強かったんじゃないかしら…」

「そうか…」

 そう…愛し合っていただけでない二人。そこに他の人が入る余地などなかったのだろう。

 正木先生がどれほど想っていても、彩子さんと伊達さんは堅すぎる絆で結ばれていたのだ。

 愛し合い…尊敬し合い…そして、競い合える…。

 なんか…。

「可愛そ過ぎる…」

「え?何よ、幸枝。何か面白いことあるの?」

 笑っちゃったかしら…。



 何度目かの大きな拍手と、そして眩いスポットライトに照らされ、伊達は言い知れない寂寥感さえ感じられた。

 十五年…いや、これから先の何年とという月日を経ようとも、かけがえのない存在を失った哀しさは埋め得るものではないと…。

 それでも、生きていく限り…筆を持っていく限り、その喪失感を埋めていく決意は改めて強くなっていった。

 それだけが、愛した人への「鎮魂」でもあるのだと…。

 鳴り響く拍手の中、伊達はまだ見ぬ次の作品へと思いを馳せ、そしてゆっくりと壇上から去って行くのであった―。



 世界的な絵画にまつわる、それは「ミステリー」などと呼ぶよりも、切ない「エピソード」と言うのがぴったりな物語と、よくある「学校の怪談」と呼ばれる物の、どちらかと言えば「喜劇的な逸話」が、とりあえず収拾をみたところで、あたしはどうにも収まり切れていない「事案」を二つほど片付けなければならないと実感していた。

 まず一つのこと…。

「ねえ、伯母さん…」

「あら、何かしら…」

 学校で「ひと通りのこと」を終えて帰宅すると、あたしはすぐに伯母さんのところへ向かった。

 あたしの顔を見ると、きっと覚悟…とまではいかなくても「準備」はしていたのだろう。いつもの温和な表情の中にも、ちょっと違う面持ちを見せているのがわかった。

「あの絵のことだけど…」

 やはり伯母さんは美しい。

 小首を傾げ、少しだけ悪戯っぽい笑顔を見せてくると、あたしはちょっとどぎまぎしてしまいそうだ。

「幸枝ちゃんのお母さんに似てるってことかしら…」

 そして聡明だ。あたしがおよびもつかないほど…。

「そうなんだけど…」

 そのことに何かしら「深い意味」があるような気がしてならなかった。そんな表情を見せていたから…。

 あたしはそんなことを聞きたかった。何か言いにくいことがあるのか、と…。

 でも…。

 伯母さんの顔が…ささやかだった笑顔が…少しづつ曇っていくように見える…徐々に哀しそうに見えてくる…。

「ごめんね…」

「伯母さん…」

 ああ、わかった…。

 たったの…ほんの一言で…。

 伯母さんは、あの絵が「あたしのお母さんに似てる」っていうのを告げることに、迷いを感じていたに違いない。

 それはきっと、あたしがその絵を見て…お母さんを思って淋しくなるからって…そう考えてくれて躊躇ったんだと思う…。

 あたし…何か考え過ぎてた…伯母さんの優しい気持ちを…一番のことを思いもせずに…。

「ごめんなさい…」

 あたしを産んでくれたお母さんは優しい人だった。自分の生命と引き換えにしてまで、あたしをこの世に送り出してくれた…。

「え?」

 そして、あたしをしっかりと育ててくれた伯母さんも、やはり変わらず優しい人だ。それほどまでのことをしてくれた母親にも負けない愛情で接してくれた…。

 あたしは大きな優しさに包まれて、今までも…そしてこれからも、生きていける…。

「ありがとう…」

 あたしの、それは精一杯の思い…そして、言葉…。

「幸枝ちゃん…」

 何も言わなくても、伯母さんはわかってくれる。

 思い切り、抱きしめてくれる。

 温かな気持ちに、あたしは…。


 それから…。

 決め切れない、あたし自身の「進路」への迷いを抱いたまま、なんとなく学校裏の御氷川様へ行ってみたくなった。別に「苦しいときの神頼み」でもないけれど、なぜか無性に…。

 冬の夕刻は、身体に触れる空気が行く手を邪魔するようにさえ感じる。まるで、これからのあたしの人生に対して「来るなら来てみろ」とでも言わんばかりに…。

 いや、そんなことを感じるのは、あたし自身が弱い気持ちしか持ち合わせていないからなのかもしれないが…。

 そんなことを思いながら、いつも帰る道を外れると校門を出て大きく学校の敷地を迂回し、西側へと向かった。

 普段は…と言うよりも、入学してから何回も来たことがない御氷川様のあるその場所。近付くにつれて、どこか知らない土地へと足を踏み入れているような錯覚も感じた。

「学校のすぐ裏なのに…」

 その向こうに三年間通った高校があるとは少し想像しにくい、こんもりと高くなり冬の木立がなんだか淋しげに並んだ御氷川様の姿が待っている。

「今度のこと」で思いを馳せなければ、この様子も記憶の中で眠ったままだったかもしれない…そう思うと少しだけ「良かった…」と胸をなでおろせた気分だ。

 そう…なぜか…。

「御氷川様が呼んでたのかしら…」

 そんな思いも柔らかに頭を横切る。

 見上げると緩やかな石段が迎えてくれるように続いている。

 最後にこの階段を昇ったのはいつだっただろうか。覚えてもいないぐらい前のこと…そして、その回数も少ないはず…。

 だからあたし、よく「あの絵」を見て、この場所を思いついたものだわ。自分自身、ちょっと感心してしまった。

 そして、一段ずつゆっくりと…踏みしめるように…あたしは御氷川様の石段を上がる。

「真ん中は神様が通るんだよ」

 いつだったか…きっと伯父さんが教えてくれたはずの言葉を思い出すと、慌てて右側へ足を寄せた。

「そうだ…」

 あの二枚の「君がいた街」。どちらも伊達さんと彩子さん、二人は画面では石段の左端に寄っていたっけ…。

 なんだか、ちょっとしたことだけど感じ入ってしまう。

 途中まで…半分ぐらいまで来て立ち止まった。

「きっと…この辺…」

 二人の、それぞれの「君」が立っていた場所。

 あたしは、ここがとても「神聖な地」に思えてきた。

 振り向くと、沈み行く夕陽が目に飛び込んで、まぶしさと神々しさも感じる。

 そこに広がるのが、そう巴里の街並みに見えてくる…訪れたこともないはずの、二人にとっての「約束の地」が、あたしの目前に待ち構えているように思える。

 それは、ただの錯覚…思い込みでしかないはず…。

 それなのに、あたしの心は遥か彼方の地を臨んで、その空気を感じてさえいるよう…。

 ふと振り仰げば、伊達健太郎の笑顔が見える。見降ろすと、会ったこともないはずの中山彩子のほほ笑みが見えてくる。

 あたしは…今の、現実の幸枝は…まだ実感したことのない「愛」というものを…まるで映画のシーンの中から実際に現れて、身体の中へ入り込んできたかのように受け止められた。

「伊達さん…彩子さん…」

 熱いものが、ほおを伝わる…。

 ここは、巴里―。

 実現しなかった二人の夢が、この街を活き活きと躍動する。触れ合うその温もりも、あたしを包み込むかのよう…。

 そう、二人なら…二人だったら…。

 暗転―。

 独りでさすらう伊達健太郎の後ろ姿。淋しそうに、この石段を降りていく。

 茜さす街が、急に漆黒の世界へと変わっていった。

 それは十五年前、失意の底で巴里へ渡った…そして闘った男の姿。

「一人で…行ったんだ…」

 目の前を行き過ぎる伊達さん。その様子は哀しさと裏腹の強い意志も見て取れる。決して弱さに屈しようとしない熱い思いを、あたしは感じ取れる…。

 そう…あたしも。

「決めた…決めたよ」

 心に湧いてくる、それは決意。

 独りで見知らぬ異国の地へと旅立った人と、それは比べものにもならないだろうけど…でも、こんなあたしにとっては、それは大きな第一歩。

 あたしの進みたい道。


 そして、もう一つのこと…それが、あたし自身のこと…。

「そうか。それが幸枝の希望なんだな」

「素敵な選択ね、幸枝ちゃん」

 あたしはその晩、自分の進路を伯父さんと伯母さんに話した。

 やってみたいことが見つかったあたしは、二人の前で素直に話すことができた。

「お前の選んだ道なんだ、しっかり応援するから最後までがんばるんだぞ」

「そうね。私も応援するわ」

「はい…ありがとうございます」

 あたしは…自分の思いを告げることができたあたしは、なんだか少しだけ大人に近付いた、そんな気持ちになっていた。気付くと、どこか大人びた口調で話していた。

 まだまだ「夢が叶った」っていうわけじゃない。そのための第一歩を踏み出した…いや、踏み出す準備ができるようになった、それぐらいでしかない。

 だけど、あたしの中で確実に…本当に小さいけれど、新しい世界へ進む気持ちが芽生えたのだ。

「そう、がんばらなきゃ…」



 なぜか、自分が自分でなくなったような、そんな錯覚に陥っていた。

 大きな賞を授かり、また新たな進歩を求められるようになった。次に生み出す作品は、さらなる高みを目指す必要がある。そうでなければ、画家としての…創作家としての価値も下がってしまうのだ。

 しかし、伊達の胸の中には巴里に来た当初と同じような…いや、それ以上の熱い思いが湧き上がっている。そんな心配など「杞憂」だと言わんばかりだ。

 今こうしてキャンバスへ向かって筆を走らせていても、なぜかそれまでの自分と全く異質のものが、身体の中に存在しているような感覚が芽生えていた。

 それはつい最近「君がいた街」を描き上げた刹那の、どうしようもなく感じてしまった「虚無感」とはまるで正反対のものだ。

 日本から戻り、すぐに描き上げた「君がいた街」。それは「思い出」という時間旅行をして「記憶」と呼ぶ目的地にたどり着いたようなものだった。以前に勤めた高校で久しぶりに出会った自分の作品と対面し、そして懐かしい作品―彩子が描き上げ自分へ差し出してきた絵が脳裏に蘇ると、その隠されたはずのものがまるで目の前にあるかのように…キャンバスに下絵となっているかのように思えたのだ―。

 いや、それは「あの時」十五年ぶりに訪れた懐かしい風景が、忘れていたはずの「君がいた街」を蘇らせたからなのかもしれなかった。

 彩子と「教師と教え子」という関係から違う世界へと足を踏み入れてすぐのこと、人目を忍ぶはずの二人だったが、伊達は大胆にも校舎のすぐ裏にある神社の境内へと、彩子を誘い出した。

 どこか巴里の「モンマルトル」を思わせるような趣きが見られ、伊達にとって少しお気に入りの場所だった。

「先生…いいんですか…」

 恥じらいとためらいを見せながらも、その表情には喜びを隠し切れない様子を伊達は感じ取り、少なからず優越感を覚えた。

「何言ってるんだい。顧問が部員の美術指導に来ただけだよ」

 だから、わかっていてもつい、そんな言葉さえ口をついてしまう。

「もう…先生ったら…」

 赤らめた顔を見ると、たまらない程の愛しさが込み上げてくる。

 今、確かにひとりの女性を愛している―心の奥から湧き上がってきている嬉びを感じずにはいられなかった。

「さあ、こっち」

 軽く、その肩を抱くと石段をゆっくりと昇り始めた。

「はい…」

 素直に付き従う、たおやかな愛しい女性の、はにかみながらもほほ笑む美しさに、伊達も心を揺さぶられる思いで一杯になった。

 少し昇ると、急に彩子は手のぬくもりを外れ、足早に石段を駆け上がっていった。

 そして…。

「素敵な絵…」

 一番段上まで辿り着くと、徐ろに振り返り、言葉を投げかける。

「ねえ、先生…」

 それは、なぜか大人が子供を揶揄するような口調に聞こえた。

「え、何だい?」

 石段の半ばぐらいまで昇ってきた伊達は、彩子の言葉に足を止めた。

 振り仰ぐ愛しい女性の顔。こんな状態で見ることなどなかった彼女の顔は、夕日に染まって茜色になっていた。

 伊達は鼓動が高まるのを感じた。

 しかし…。

「ううん、何でもない」

「どうしたんだい?」

 はにかむような…躊躇うような、そんな様子を見せる彼女の、その心の内までは推し量れずに、伊達は戸惑いを覚える。

「巴里みたい!」

 唐突に…それは伊達の気持ちを蔑ろにするかのごとく、彩子の口から発せられた想い。

 澄み切った目は、真っ直ぐに夕焼けに染まる街並みを見据え、そしてその視線には、もっと遠くの風景を夢見る様子が詰まっているかのようだ。

 自分と同じような感覚を持つ彼女に、また少し愛しさが深まる。

「彩子…」

「先生、私も行きたい…連れて行ってください」

「え…」

「巴里」

 ありったけの心情を…思いの丈をどこへともなく投げつけるように吐露すると、再び伊達に向けられた彼女の目は、すでに夢見心地を消し去り、強い意志の火が灯っていた。熱いものへと変貌していた。

 その刹那、伊達が感じた…それは歓びと…希望。

 そして、彼女が見た自分を含めた「光景」。それが、あの絵に…「君がいた街」になったのだと、そう思い起こさせたのだ。

 それは景色ではなく、彼女が見た「未来」が、そこに描かれていたのだ。

 彼女自身も巴里へと渡り、伊達と共に夢を追い、闘う日々を過ごすことを決意したのだ。

 決して同行を許可するつもりのなかった伊達が、心を動かされ始めた時でもあった。後に駆け落ちという手段を決意したのも、この一瞬が始まりだったと明言できた。

 そう、あの瞬間、二人の気持ちは、本当の意味で一つになっていた。

 だから「君がいた街」は生まれたのだ。

 いつまでも変わらない思いがあればこそ、十五年を経た今も同じ色彩が…構図が、筆使いまでも蘇ったのだ。

 二人で創り上げた作品だから…。

 そう、だから自分でも驚くほど、短時間で完成を見た作品―それが偶然、伊達のアトリエを訪れた老師の目に留まり、世界美術賞のノミネートへと至ったのである。

 その制作時間と審査時間の中、自分を取り巻く「ありとあらゆるもの」が、短い間にまるでその性質を変えてしまったかのようにさえ思えるのだ。

 そして、それは自分にとって必要なことだと伊達は感じていた。

 愛した人への想い、それは変わらない。だが、それを乗り越えて「新しい時間」を生きていかなければ、自分はもう成長しない、それを痛感した。

 彩子のためにも、もっと上達したい―。

 彼女が、やはり伊達と同じ道をも視野に入れていたと、あらためて認識させられたことで、その思いが強く…いや、貪欲にもなってきた。

 愛する人を想うだけでなく、愛する人の思いをも抱いて生きる、それが伊達に課せられた命題なのだと…それで自分も永遠に彼女と寄り添え合えるのだと…。

 いろいろなことを知らされた濃密な時間が、日本へ行ってから今日までの伊達にはあった。

「そうか…」

 ふと頭を過る面影、それは彩子に似て強い意志を持っていた幸枝というひとりの女生徒。その彼女の持つ力のおかげで、新たな自分が目覚めることができたのだと、実感させられる。

「いい出会い、だったな…」

 ほのかに温かな気持ちが生まれてくる。

 そして…。

「そうだ、いいことを思いついた」

 描きかけのキャンバスを退けると、伊達は傍にあったスケッチブックを手に取った。

「許可なしでごめんね…」

 誰にともなく一言だけささやくと、ページをめくり、真っ白な面に鉛筆を走らせる。

「やっぱり目尻は下がり気味だな…あと少しだけ、離れてたか…」

 脳裏に浮かぶ面影は、数ヶ月経っても強く残っていた。スケッチもさらさらとスムーズに進む。

 やはり背景には巴里の街並みを添えて…。

「題名は…そうだ、そうしよう」

 独り合点がいった伊達は、忘れないようにスケッチ中の絵の下に走り書く。

 その文字は…。

 君が来る街―。

「巴里でも活躍してもらおうかな…」

 いつの日か、彼女が巴里へ来るかもしれないその日を想像すると、伊達は自然な笑みがこぼれた。

「いつか…この街で…」

 久しぶりの、心の底からの…。


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