#53.うんめいのめがみさまはたいだ
神界――雲の上の緑と水に溢れる清浄なる世界にて。
久方ぶりの神の魔物の死を知覚し、神々の世界は大いにざわめいた。
神の魔物にも格というものがある。
その辺の木っ端ならば精々一日二日話題にあがる程度だったろうが、倒されたのが最強のミノスだった事で「一体誰が奴を?」と、神々に天使にと、連日大騒ぎである。
「あぁ、もう、まだ眠いのに……」
ガーネット色の髪を揺らし亜麻色の瞳を眠そうに擦りながら。
まだ幼さを残す容姿の運命の女神は、自身の寝所で神界のざわめきを感じ取り、横になった姿勢のまま、不機嫌そうに小さく呟く。
「ミノスが滅びてから、ずっと話題が持ち切りのようですわ」
そんな解り切ったことをのたまう、侍女のように侍らうのは、背に純白の翼を二重に持つ娘だった。
頭には、翼同様に二重の金色の輪。
その輪が揺れるのを見ながら「知ってるわ」と、つまらないことのように呟いて、ベッドから起き上がる。
「地上世界に降り立ち、散々暴れまわったミノスが人間たちに封印されて幾星霜。でも、ミノスが倒されるなんて、神々の誰もが思わなかったでしょうし?」
「いくら封印され弱体化していたとはいえ、人間の手で殺しきれるとは思えませんでしたもの。それにこれは、しばらく適格者がいなかった聖典奇跡の遣い手が現れたという事に他なりません」
本当に久しぶりですわ、と、線目のままほこほことした顔に自身の手をあてながら、天使が寝所の窓の外を見やる。
神々の話し声が、ここにまで聞こえてきそうなほど。
そしてその内容がはっきりと解りそうなほど。
窓の外の神々は、大きな声で話し合っていたのだ。
「あの声の大きさは商業の神、それから嵐の神ね」
「そのようですわね」
よく聞こえますわ、と、その声の主を想像する主に頷いて見せながら。
けれど、天使の従者は「ですが」と女神へと視線を戻すのだ。
「それだけの適格者が現れたというなら、私共の方で保護しなくてはなりませんわ。貴重な遣い手を、みすみす失わせるような事があってはなりませんし」
「んー、どうかしらねえ? 聖典を使ってミノスを倒せたって事は、それだけ関わりの深い仲間なり組織なりに身を置いてるんでしょうから、保護する必要あるのかしら?」
「運命の女神様……それは、流石に楽観し過ぎではないでしょうか?」
私はそうは思えないのですが、と口にしようとして、天使は「あっ」と、口を押さえる。
口さがない天使だった。女神はそう思った。
けれど、口を押さえたのはそれが伝わっての事ではなく、あくまで天使自身が、自分の発言に不遜を感じたのだろうと、敢えて咎める事はしなかった。
楽観しているのは確かだからだ。
けれど、運命の女神ならば許される楽観だった。
「大丈夫よ天使長。その遣い手が誰なのかは解らないにしろ、私はいつだって、相応しい者が相応しい場所に来るように、運命を見て、そして、手繰り寄せるのだから」
――少しでもこの世界に都合がいい様に。
運命の女神とは、別に人間たちの運命をどうこうする女神ではない。
この世界が少しでも永らえることができる様に、世界の運命を操作する女神なのだ。
彼女の母親がそうであったように、彼女もまた、同じようにしているだけ。
神々以外のすべての存在は、その為の駒に過ぎないのだと、そう教わっていたから。
「私がここに居るから、大丈夫」
「は、はい。失礼致しましたわ」
「解ればいいの。別に、怒ったりはしないから」
そんな事で怒るなんてばからしいわ、と、窓の外へ意識を向け。
そして、更にその外側にも。
「――ねえ天使長。そんな事より私はとても寂しいの。大天使ちゃんは見つけられた?」
「いえ。大天使様は、気配すら……必死の探索をしているのですが、ハイロゥの痕跡すら見つけられず……」
「そっか……はあ、どこにいるのかなあ大天使ちゃん。会いたいなあ」
ベッドの上の不出来なぬいぐるみを抱きしめながら、小さく吐息し、眼を閉じて。
そして、眼を開いた時、運命の女神の纏っていた雰囲気が、一変した。
「――っ!!」
「まあ、それはいいとして」
「は、い」
この場にいた天使長だけでなく、寝所の外からの声すらも押し黙るほどの圧。
先ほどまでの穏やかな、たおやかな雰囲気はどこかへと消え去り、圧制者のごとき威圧感が、神界を押しつぶす。
「ここに攻めてこようとしてる奴ら、防げるの?」
「現状で解っている限り、残る神の魔物の中でも、あくまで魔神様を解き放とうとする者たちの数は、15人ほど居りますが、この中にミノスほどの脅威はいないようです」
「ローレンシアは? あの娘一人いただけで貴方達壊滅するでしょ?」
心当たりあるでしょう、と、天使長をジト目で見やったが。
だが、その不安視にも「大丈夫です」と、天使長は自信ありげに笑みを見せる。
「ローレンシアは、全く無関係な場所で単独行動をとっているようでして。どういう訳か弱体化しているようですし、今回の神の魔物たちの決起には関りが無いようでした」
「……そう。まあ、そういう事にしておきましょうか。変に突いて関わってこられても迷惑だし」
あいつ一人いたら面倒くささ倍増だもの、と、内心でそう思いながら、女神は一人思考を凝らす。
(ローレンシアが率いてる訳じゃないなら、今回の奴らはほんとに烏合の衆かしら? 残ってる奴らの中にも、いくらか天使たちでは手間取るかもしれない相手もいるけど、こっちだって数を用意すれば……)
「現状、奴らは神界へのゲートが存在するダンジョンに集結しているようですので、こちらから先手を打って――」
「あーはい、先手はだめ。駄目よ、絶対」
「えっ」
勇ましく自らの作戦を披露した天使長だったが、女神は手をフリフリ、半身を起き上がらせながら否定する。
驚く天使長には気にも向けず「とにかくダメ」と念を押しながら。
「相手の作戦はこうよ。『とにかく目立つように騒いで天使達のアクションを待つ』『天使達が先手を取ろうと動いたのを見て隙をついてゲートから神界に決死隊を送り込む』。はい、これで魔神様は解放されてバッドエンド突入ねー」
「うぐ……そ、そういう未来が、見えておられるので?」
「ええ、見えておられるわ。とっても解りやすい失敗ルートね」
だから駄目よ、と、指でバッテンを作りながら足をぱたぱたと揺らす。
「勝ちたいなら防戦に徹しなさい。どんな犠牲が出てでも守りに徹していればいいわ。一人か二人倒した時点で相手は無理を悟るから。それで引いたのを見てから攻めに回りなさい。それで、相手の心をへし折れるから」
「……解りました。運命の女神様がそう仰るのでしたら」
「手柄なんて欲しがっちゃだめよ天使長? 貴方は時々俗っぽ過ぎる。前にローレンシアに玩具にされた影響かしら? 一度クレンジングした方がいい?」
「い、いえ! 大丈夫です!! 我欲など、決して!!」
「あらそう、ならいいわ」
必死の抗弁、汗を頬に流しながらの返答。
そんなものを冷めた目で見据えながら、「用はないからもう行って」と手をフリフリする。
そういう扱いに慣れているのか、「かしこまりました」と、焦ったように出ていくその背を見て、女神は目を細め、思考を凝らす。
(――ローレンシアは、実際に関わってこないとしても。あの天使長はもうダメね。やっぱり神の魔物に関わると、いらない情欲が生まれてしまう。純粋だからこそ、天使は天使なのに)
またぱたぱたと足を揺らし、ガーネット色の長い髪を手で煽り、漉いて。
そうしてまた、ぱたりと背からベッドへと寝ころぶ。
(私はまだ、動くことができないし……最悪は他の神に任せることになるけれど、そうならずに天使たちだけでなんとかできれば……)
今代の運命の女神は、ひどく怠惰な娘だった。
基本はこの寝所から動かず、運命だけを操作し事を成す。
全て自分の考え通り。けれど時々、その考え以外の部分で動くものもあった。
その一つが、女神のお気に入りともいえる大天使である。
(あああ……大天使ちゃんがいてくれたらなあ。天使と違って欲望にも対応できるようにしたせいで勝手にどこか行っちゃったし……会いたい、会いたいなあ……)
ベッドの上でも足をばたつかせ、ふう、と、大きなため息を吐き。
自分の中のどうにもならない感情をよそに、今一度真面目に思考を巡らせる。
(あの『勇者』の末裔がどこで暮らしていたとして、会える保障なんてありはしないのに。私達が彼らから離れてどれほど経ったか。もう神界には、地上世界の今を知る者すら限られているのに)
かつて、神々は地上世界に降り立ち、直接そこに住まう生物たちに自身の持つ『力』を与えていた。
神の権能とも言うべき各々の得意とするそれは、地上の生物たちにとって様々な恩恵となった。
けれど、今はもう、地上の者達に対し恩恵を振りまく神は限られる。
(信仰を続ければ、神はそれに応じた力を与えられる。けれど、それは時として神を歪んだ信仰で穢すことにも繋がってしまうわ。だから、私達は離れたのに)
今でもなお、人間たちに恩恵のある形で、いくらかの神々が人間たちの信仰を受けてはいる。
運命の女神たる彼女自身、人間たちに勝手に信仰されていたが。
だが、彼女は地上から完全に離れて今に至るまで、一度たりとも人間に恩恵を与えた事はなかった。
それは、神々の、人間たちにとっては忘れて久しい、蹉跌によるもの。
あんまりに無邪気に人々に恩恵を与え過ぎた事によって起きた、あまりにひどすぎる争いの日々によって穢された一人の神を目の当たりにした事から始まった自戒であった。
「なんで人間って、自分の力で誰かを癒したりしながら、私達のおかげですなんて祈るのかしらね」
不思議だわ、と一人ごちり、溜息をもらす。
人間は、生来願いを実現させる能力を持っている。
それは、人間という生物が創世された時から、特に誰かが設定した訳でもなく勝手に付与されていたもので、時として自力で運命をも捻じ曲げるという、運命の女神視点で見ても訳の分からない人間特有の特性なのだが、不思議な事に人間自身は自分たちにそんな力が備わっていることに、ほとんど気付いていない。
稀に自分を信じる事でそれを実現できることに気づく者がいても、大概の場合、それは『神に祈り続けたから』とか『敬虔な信者だったから』とか勝手に理由付け、神々への信仰へとすり替えてしまうのだ。
運命という、神の領域すら捻じ曲げる自己実現能力。
これが故、人間は造物でありながら、時としてそれを産み出した神すら凌駕する事もできるのに。
(……あの人間たちは、気分のいい人たちだったわねえ)
想い馳せるのは、かつて唯一まともに会話をした人間たちだった。
古の頃、まだ神々が地上にも今より関りを持っていた頃。
世界を滅亡させようとしていた魔神を封印する為、自分が導いた人間の勇者たちが神界を訪れた事があった。
魔神と神の魔物を前に、自身の見出した限られた人間たちと神々とが共闘し、先代の運命の女神含め、幾柱もの神々の犠牲の上で魔神は封印され、多くの神の魔物も滅ぼすか封印するところまで追い詰めることに成功した。
誰も彼もが純粋で、真面目に世界の事を考え、そして仲間達の事を心から信頼していた、とても理想的な人間たちだったように、女神は思っていた。
もう二度と会えない、また会いたいと思っていた人間だった。
それを思い出してから、今も多分どこかをうろついているであろう大天使を想う。
(そう、会えないのよ。もう二度と。私達と彼らは、違う時間の流れの中に生きているのよ。だから、早くそれに気づいて諦めて。大天使ちゃん)
運命の女神は、大天使が何故神界からいなくなったのかを知っていた。
勇者とまた会いたいと思ったからである。
実に些細な事だった。全てが終わった後、勇者たちとの別れ際に勇者から「またな」と声を掛けられ、それを再会の約束と信じ、守ろうとしただけである。
女神もそれは社交辞令のようなものだと教えたが聞きもせず。
大天使が神界を離れたのは、勇者たちが地上に戻ってから1000年も経過した頃であった。
仮に血が残り子孫が生きていたとしても、ほとんど他人も同然になったそれを探して見つけられるようなものではないだろう、と、女神は考える。
(あああ……なんであの時無理やりにでも拘束しなかったのかしら。いいえ、そんなこと、できるはずないわ。最愛の、私の妹分だもの……)
なんとしても見つけ出さなきゃ、と、頬に手を当て、深いあくびと共に意識を薄れさせ。
運命の女神はまた、眼を閉じた。
持ちうる全ての能力を、一つが為に費やすために。