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蝸牛紫陽花

作者: かたらぎヨシノリ

 しとどに濡れて黒い庭の塀に蝸牛がのそのそと這っている。八尋は床についたままぼんやりとその様子を眺めていた。

 明け方からしとしとと雨は降り続いており、二条大橋のほうではなにやら川の氾濫がどうとか使用人の誰かが話していたのを思い出す。

 ぽつぽつと音を立てて雨粒が軒先より庭に落ちて水溜りを作っている。塀のそばの紫陽花の紫と白がけぶる視界に妙に鮮やかだった。蝸牛はいまだに塀を行く宛てもなく彷徨っていた。

 家を背負う蝸牛という生き物に八尋が親近感を覚えるのは、八尋も庄屋の跡取り息子だからだろう。けれど、蝸牛が背負うのは己の身の丈にあった住みやすい家であり、背負う前に自らの身体さえ満足に動かせない八尋とは違った。生まれつき病弱であるという足枷は八尋の心をも病ませ、疲弊させていた。

 季節の変わり目ごとに対応できない己の身体の未熟さが、庄屋夫妻の頭痛の種であり、家全体に渦巻く問題の中心であることを十六歳の八尋は重々理解していた。病弱であるがゆえに今まで満足に家の手伝いさえ出来ず、床につくしかない自分を八尋は憎んでもいたのだった。



 だからこの梅雨が過ぎて気候が落ち着いたら、養生という名目で田舎に厄介払いされる話が出たとき、実はほっとしていたのも事実だ。

 これで自分の代わりの養子を迎えれば庄屋もひとまず安泰になるだろう。もっと早い段階でこういう話が来ればよかったのだ。複雑そうな面持ちで両親が話し始めたとき、八尋がわずかに微笑んで、了としたのが先日のこと。

 物思いにふけり目をはなした隙に蝸牛は塀を這うのをやめ、紫陽花のひとつに居をかまえていた。大きな葉が重なる花の上で雨宿りを決めたようだ。庵の下の自分と蝸牛を重ね合わせることで、八尋は己の小ささを思い知るような気持ちがした。この庭の片隅で生まれた蝸牛はきっとこの庭で一生を終えるに違いない。この庭が蝸牛の世界の全てなのだ。

 ——自分もこの家以外の世界を多くは知らずに死ぬのだろう。



 八尋は布団から身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。縁側におりて草履を履き、濡れた庭に足を踏み入れる。ぬるい雨が八尋の寝巻きに染みていく。紫陽花の葉を茎ごと手折り、そこに蝸牛をひょいと乗せ、八尋は裏戸から家を抜け出した。

 何をしているのか、八尋にもよくわからなかった。ただ、自分の中の誰かが八尋の足を、身体を動かしていた。

 二条通を足早に過ぎる人々は傘もささずにいる夜着の姿の八尋を奇異の目で見るが、声をかけたりはしない。

 紫陽花の葉の上で蝸牛はのろのろ動いたり、角をゆらゆらさせたりしている。八尋は通りから外れて土手にたどり着くと自生したナナカマドの木の近くに葉を置いた。ここなら身を隠すこともでき、川が近いから水場にも困らないはずである。

「——元気でな」

 別れの言葉を告げ、八尋は元来た道を戻る。笹舟に思いを託して川に流したときのように、八尋の心は少しだけ晴れやかだった。



 家に戻った八尋の表情はいつになく穏やかだった。無理がたたって熱を出し、再び布団の中に八尋は押し込められたが、熱に潤んだ目で障子の向こうの蝸牛のいなくなった庭を想像するだけでいたずらが成功した子どものように胸がどきどきしていた。

 看病する母の川の氾濫や壊れた二条大橋の修繕の話も八尋は夢うつつで聞いていた気がする。結局八尋はそれから一週間も寝込んでいた。



 八尋の体調も戻り、都の梅雨が明けると八尋は養生の為に吉野へ下った。運よく小さな東屋が空いていたのを借りられたらしい。荒れた庭もあったがそこに季節はずれの紫陽花を見つけ、八尋はなんとなくここが好きになれる気がした。跡継ぎ問題から開放されたせいか、八尋の体調は小康状態でときおり庭をいじることも出来る程度に回復していた。都の蒸し暑い夏を思えば多少不便でも吉野の気候は過ごしやすく、庭の緑も目に涼しげだ。



 手伝いの姥が作る飯も八尋の身体に合っているようだ。根菜やら芋の煮たものやら魚などが八尋は好きになった。そのうち一月もすると、床に伏せがちだった八尋が自ら墨をすり、筆を持って詩作にふけることが出来るほどになっていた。



 軒先の風鈴がかろやかに音を立てている。庭に水を撒き終わると、八尋は縁側に腰を下ろして息をつく。梅雨も去り、季節はずれの紫陽花が庭の片隅でまだ二つ、三つ咲いているのが目に付いた。

 ——紫陽花。

 ふと、八尋はあの蝸牛を思い出す。あれは土手で生きられただろうか。庭よりも広い世界を知っただろうか。もはや吉野にいる身となった八尋には蝸牛の行方など知るよしもない。



 ただ、あのまま庭で一生を終えてしまうのは忍びない気がしたのだ。


 ——違う。俺は蝸牛と己を重ねただけだ。


 夏が終われば蝸牛の亡骸を見てしまうだろう。それが、嫌だったのだ。自分がそうなるのを見せ付けられている気がして。

 あれは、見たくないものを遠ざけただけの浅ましい行為だった。八尋は唇を噛む。自分のちょっとした気まぐれであの蝸牛に悪いことをしてしまったかもしれない、その可能性にようやく八尋は気付く。


「俺は、何を」


 そのとき生ぬるい風が八尋の足元を舐めていった。

 居心地の悪さに驚いた八尋が再び紫陽花に目を向けると、そこに見覚えのない少女が立っているのが見えた。つい今しがたまでは誰もいなかったはずだと、驚きを隠せない八尋に、少女もまた驚いたように目を瞬かせる。




「もうし」

 おずおずと声を出したのは少女の方であった。

「庄屋の奥方様より使いにまいりました、まひると申します。何度もお声をかけましたが、お返事がありませんでしたので寝込んでおられるやもと思いまして、不躾ながらお庭のほうにまわらさしてもらったのです」

「——ああ、少し考え事をしていたから気付かなかったのかもしれない」

「御加減はどうですか、と奥方様が随分と心配しておられました」

「こちらに来て随分ましになったと伝えてくれ」

「はい。それと、遠方より評判のいいお医者様のお薬を八尋様にお届けするように」

 ことづかっております、と少女が小さな包みを懐から取り出して八尋に手渡す。薬紙に黒い丸薬が三粒ほど包まれていた。

「……確かによく効きそうな薬だな」

 ふふ、と八尋はつい声を立てて笑ってしまう。

「あの」



「なんだ」

「あの、さきほど何をお考えになっていたのです? わたしの声に気付かないまで——」

 差し支えなければ教えてください、と少女が言う。

 八尋は少女をじっと見つめた。まひると名乗った少女は、なるほど紫陽花の柄の小袖を着ていた。

「……紫陽花のことを考えていたのだ」

 その柄のせいでしばらく少女に気付かなかったのかもしれない。

「そして、蝸牛のことも」

 八尋は自分がここまでおしゃべりだということにはじめて気付く。初対面である小間使いの少女に話すべき話でもないにしろ、少女がちゃんと自分の話を聞いてくれるのがなぜか嬉しかった。

 あの梅雨の日の蝸牛と紫陽花と自分の話を八尋ははじめて誰かに話した。



「——俺はあの蝸牛に取り返しのつかないことをしたのかもしれぬ、そう考えていたのだ」

 母が言っていた川の氾濫の話が喉にひっかかった魚の小骨のようにずっと気になっていた。

「川が氾濫したとなればあの蝸牛もきっと無事ではないだろう……」

「——たとえ、あの日川の氾濫で流されてしまったとしてもそれは天の運命だと、わたしは思います。八尋様がそんなに心を痛める必要はないのです」

「どうして、お前にそれが言える? あの蝸牛がどう思ったかなんてあの蝸牛にしかわからないのだ」

「——わかります、わたしが、わたしが……あのときの蝸牛だからです!」

 声を荒げた少女ははっと顔色を変え、しばらく沈黙が続いた。

「——そうか、お前があの蝸牛か……」

 まひるの告白に八尋は不思議なほど驚かなかった。むしろ、そんな八尋に驚いたのはまひるの方のように見えた。

「俺を恨んでいるから、こうして化けて出たのだろう?」

「いいえ! 恨みなどかけらもございません!」

 まひるを死なせてしまったのは自分なのに、まひるは恨みなどないという。

「川の氾濫は八尋様にもどうしようもなかったとわかっています。わたしは、いずれにせよ八尋様よりも短い一生を終える運命でした。ただ、一時。八尋様の情を受けられて感謝しているのです。たくさんの人や橋や家をわたしはあの日はじめて見たのです。わたしの知らない外の世界を見せていただき、ありがとうございました」

 それを言うためだけにこうして会いに来たのだと、少女は笑う。そして、またぬるい風がびょう、と吹いた。

「ああ、もう行かなくては」

 八尋様どうかお元気で、そういうとまひるの姿は空気に溶けて見えなくなった。

「ま——」

 呼び止めようとしたのか、少女の名前を呼ぼうとしたのか八尋にはわからなかった。ただ、八尋の言葉をきくまでもなく少女は現れたときと同じように突然目の前から去った。




 手のひらに残ったのはまひるが渡してくれた丸薬の包みだけだ。それだけが、少女がついさきほどまでそこにいたというなによりの証だった。




「——元気で、か」

 恨み言であればまだよかったのに、と八尋は苦笑する。こうなればもう、八尋が元気になるしかまひるへの罪滅ぼしはできない。

 八尋はしばらくそのまま縁側に座り、庭の紫陽花をぼんやりと眺めていたが何かを思いついたように部屋に戻ると、筆を取って一首を詠んだ。



    濡れ縁に 吹き込む風の たよりあり

    けぶれる庭の 蝸牛紫陽花



 軒先の風鈴が涼しげな音を響かせる。庭の紫陽花が小さく笑った気がして、八尋は日が落ちるまでぼんやりと庭を眺めていた。


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