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06/神田実穂


「君は」


隣から突然の声。


跳ねるようにして(実際半歩程飛びずさっていたかもしれない)顔を向けると、さっきの青年が変わらない笑顔で立っていた。


「あ、突然ごめんね」


そんな私の態度を見て彼は謝罪の言葉を口にした。


かなり驚いた。自分に対して、何の不利益も怒らない状況への驚き、と言うのは随分久しぶりだった。自分で言うのもなんだが、人の気配にはかなり敏感なはずだ。日々悪意ある人間からの嫌がらせを回避、または受け流しているのだから敏感にもなるだろう。


その私が気付けなかったのだから、それはつまり、彼に悪意がないことを示している。しかし、私が異常とも思えるほどに驚いたのは、それだけの理由ではなかった。


青年は私に向かって謝罪の言葉を口にしたのだ。


ただそれだけのこと。ただそれだけのことに驚いた、そんな自分自身にも驚いた。そして呆れた。はたから見ればおかしな反応だ。急に声をかけられたこと以上に、そのあと謝られたことに驚いているなんて。でも、そんなおかしな女子中学生に青年は、言葉を重ねようと口を開く。


「何か嫌なことでもあったのかい」


 ……いきなりそんな質問をするか?


 初対面でいきなり、それに、思い切り挙動不審な反応を見せた直後なのに。いや、そうか。彼とは先程目があった。あの、見るからに落ち込んでます、と言わんばかりの姿勢で、おそらく死んだ目をしていただろう私と、だ。その質問が来るのはむしろ当然と言える。


 本来なら、内面に踏み込んだ質問をされることには忌避感を覚える。だが、何故だろう。今彼から受けた質問を不快に思わないのが不思議だった。


……もしかしたら、彼のほほえみや声音、しぐさや視線が、私だけに向けられた善意だからかもしれない。


ありがた迷惑とか、おせっかいとか余計なお世話。そんな言葉が日常にはあふれている。けれど、その善意にあふれている日常に慣れていないものが優しさを受けたらどう感じるだろう。日々悪意しか感じない。与えられるべき当然の愛情もない。


その答えは、「気持ち悪い」だと思っていた。いつも冷たい人間が急に優しくなったら気持ち悪いだろう。それと同じことだろうと、勝手に思い込んでいた。


そんな馬鹿な。と、私は自分の考えを否定する。


相手は個人ではないのだ。


他人の優しさは心地よい。そんな当然のことも、私は今まで忘れていたんだ。


久しく忘れていた害意がない相手との対話に、私は何よりも戸惑いを覚えた。


「……そう、見える?」


何故この人は私に話しかけてきたのだろう? 何かこの会話に目的があるのだろうか。そんなことを考えながらの返答だった。


青年は無言で首を縦に振る。


その表情は最初から変わらない。ずっと、あの微笑みをたたえたままだ。視線からは哀れみすらも感じる事ができない。そのまっすぐな目に耐えきれなくて、私は水平線の向こうへと目を逸らした。


青年の雰囲気からは、目上の人にたまに見られるある種の余裕を感じ取ることができた。そういえば、退院してからこの感覚を持ったのはこれが初めてかもしれない。大抵は学校の先生やら病院の先生、あるいはカウンセラーなんかから感じるものではあるが、この一週間そういった「先生」とはかなり近い距離にいたにもかかわらず、この青年以上の雰囲気を持った人は一人もいなかった。


「別に、いつも通りのこと。ただ、ほんの少しだけ。……そう、ほんの少しだけいつもよりタチが悪かった。そして、私自身その不幸に身を任せてしまった。抗うことをあきらめた」


そんな思いもあってか、気がつけば私は青年の問いに答えていた。


この人の隣は不思議と安心できる。漠然とした思いではあるが、そんな風に感じていた。初対面だからこその気兼ねなさなどでは決してない。むしろ、本当に初対面なのかと疑ってしまうような心地よさがそこにはあった。まるで、私にはいないが、長い付き合いの親友や、仲のいい兄弟、あるいは家族。そんな想像でしか感じたことのない「夢」を感じさせてくれるようだった。


「不幸に抗えない自分に後悔している、とかかな?」


「うん、確かにそれもある。自分に対する怒り、期待を抱いてしまった自分の甘さを、確かに私は今悔いていると思う、でも……」


だからこそ思う。この状況は、おかしい。


味わったことのない安寧。一度入ってしまえば二度と抜け出せない、心地よい底なしの沼。


知識だけでしか知らないものだった。だからこそ、私はこの状態に強烈な違和感を覚えた。もし少しでもその優しさを、この暖かさを体験したことがあったのなら、私は違和感を覚えることすらなく、その沼に溺れてしまっていただろう。


人間は知っているものに対して油断する。


私はこんなものは知らない。温かく包みこみ、優しく溶かすように抱きしめる。まるで麻薬だ。そんなものは私の世界にはない。そしてそれが、会ったばかりの他人から与えられるようなものではないことを知識で知っている。


「でも……」


私が抱える不安を、恐れを、全て吐露してはいけない。


それを知られたら最後、本当に私はこの沼から抜け出せなくなってしまう。これ以上長引かせてはいけない。そう思い水平線から目線を切り、青年の方へと向き直った。その瞬間、



「でも、それ以上に悔いていることが君にはある」



思考を、いや感情を、見通された。


瞬間的にそう思った。


青年が断言したその台詞は、私が躊躇った言葉、その本質を的確に射抜く言葉だった。


「なん、……どう、して?」


初めての私からの問いに、青年は表情を崩さないままに答えた。


「顔を見ればわかる。君が何かを隠そうとしていることくらい。何かを、抱えていることくらい」


それが意識的でも、無意識のうちにでも。と、そう青年は続けた。


私が意識して言わなかったこと。私が……無意識に避けていた答え。それが一体なんなのか、私はまだわからずにいた。言いたくないことは言わない、わからないことはわからない。それだけが今導けるただ一つの答えだった。


いや、導ける答え、なんて崇高なものじゃない。それが逃げた先の答えであることは、ほかでもない私が一番よく知っていることだったのだ。


「君が」


青年が口を開いたことに、私はまた自然と警戒心を強めてしまう。


「君が君自身の感情を本当に知りたいと願うなら、三日後の午後七時、港の入り口に来るといい」


「港の入り口?」


「そう。橋に塞がれる前の、復讐の言い伝えが残る島が見える場所に」


そう言って青年は私に背中を向けた。


「っ……」


その背中を引き止めようとした私の腕を、私は必死になってその場にとどめた。


ここで彼を呼び止めて仕舞えば、それは私の中の感情を、私自身自覚し切れていない負の感情を認めることに他ならないからだ。



このちっぽけなプライドが邪魔していなければ、わたしが歩む道は、少しは変わっていたのだろうか。



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