01/神田実穂
ようやく今日が退院の日だ。
別に待ち遠しかったわけではないが、体に問題もないのにずっとベッドの上、というのは存外疲れるもので、自由に体を動かせるというだけでもありがたい。それに、医師とのつまらない問答もようやく終わる。いろいろ考えてみるとやはり退院できてよかった。もうすぐゴールデンウィークだから学校にも行かなくて済むしね。
私は一週間前、ここ室蘭市のとある展望台で倒れているところを発見されたらしい。検査の結果体に異常は見られなかったものの、検査入院と称されて今日までの一週間を病院で過ごすこととなった。
検査入院、そう言われたときは思わず鼻で笑いそうになってしまった。一週間の入院、医師との問答。それだけのことをされれば誰だって気づく。ようはカウンセリングだ。
どうやら私は自殺未遂者らしかった。展望台から身投げしようとしたところ、飛び降りる直前に恐怖で失神し今に至ると、まあ病院側の認識はそんなところだろう。
仕方がないと思う。自殺しようなんて思ったこともないが、私自身、どうして展望台へ行ったのか全く覚えていないのだ。過度なストレスによる一時的な記憶障害だと医師には言われたが、なんとなく違う気がする。というか過度のストレスって。この医師は、自殺しようとした時のショックで記憶が飛んだと思っているんだろうな、もうはっきり言ってくれていいですよ、別に気にしませんから。
日に二度のカウンセリングの結果、一週間で私は「異常無し」と判断されたようだ。普通に考えて、自殺しようとした中学生が一週間かそこらで正常に戻るなんてありえない。その判断の裏にある医師の考えも透けて見えるようだった。つまり、気を引きたいなら別のやり方でやってくれ、と。
最後のカウンセリングなんかもう向こうもうんざりしているようだった。もちろん医師はそんな態度表には出したりはしない。だがやる気がないことだけは簡単に見て取れてしまう。何故だろう、入院してから人の表情を読み取るのがうまくなった気がする。ずっと同じ人と会話していたからだろうか。
それにしても、どうせ退院するのなら時間帯は午後にしてほしかった。そうすれば体調に問題はないから学校には遅刻して行く、なんてことにはならなかったのだから。憎らしいほどに晴れやかな空を見て思う。やっぱり、私はこの世界に嫌われているようだ。
四時間目の途中で教室に入る。いっそ前の扉から入ってやろうかとも考えたが、あまりにも子供っぽい自分の思考に呆れてしまった。
誰しも経験があるだろう。授業中、扉を開ける音というのは異物が紛れ込む音に他ならない。そのあとに向けられる視線、教師の態度、教室のざわめき、ピースが揃っているパズルに、ひとつだけ異物が混ざりこんだような空気。
もう慣れっこだ。
私が別段、よく遅刻しているというわけではない。授業で私が指名されたとき、校内放送で呼ばれたとき、それだけじゃない。朝教室に入り、夕方教室から出る。その動作のたび、私のクラスメイト達は、いっそ健気なまでにその空気を作り出す。ご苦労なことだ。
そんな風に、いつも通りだと思いながら軽い気持ちで扉を引く。ガラガラと音を鳴らしながら踏み出した私の足は、しかし教室の敷居をまたいだその一歩から動かなくなってしまった。
――なんか、今日は違うな。
少しの違和感を覚える、が、その正体はすぐにわかった。一斉にみんながこっちを見る、という工程が飛ばされているのだ。
今の時間は数学のようだが(数学の担当教員はこのクラスの担任でもある)、先生すら一瞬こちらを見ただけで一言も言葉を発しない。いつもなら「席へ」 の一言くらいあるのだが、というか授業中だぞ? もう五秒ほど経過しているが、板書のため持ち上げた腕が未だに中途半端に空をさまよっている。教師が手も口も動かさない授業なんてあるか。仕事をしろ、仕事を。私のおかげでこのクラスの運営は比較的楽に進められるんだぞ。
半ば本心で、半ば逃避的にそんなことを考えながら私は自分の席の方を見やった。なんとなく予感はあったが、それが視界に入った瞬間に私はこの空気中に漂う違和感を理解した。
「机と椅子をとってきますね」
何故だろう、自分でも驚くほど平坦な声が出ていた。
最後列の廊下側の席、つまり今私の目の前にある席に座っている女生徒と目があう。ほんの微かな、けれどしっかりと耳に入った少女の悲鳴。あらそう、そんな声出すのね。その行為に何の疑問も持っていないのね。
私はきっと毛虫でも見るような目でその少女のことを見ていたのだろう。毎年春先に大量発生するあの虫。けれどお互いさまだろう、そっちだって私のことを蝮を見るような目で見ていたじゃない。
自然な足運びでUターンし、後ろ手に教室の扉を閉める。五メートルほど教室から離れたところで、足を止める。話し声が聞こえたからだ。
「本当に来たな」
「だから言っただろ? はい俺の勝ち、五百円な」
「自殺未遂って聞いたけど、残念だよ」
「そうよね、そこまでしたら普通転校とかするものじゃない?」
「てか、それ以前にどうして未遂なのかね」
「ホントそれ」
「仕方ねーだろ、マジの出来損ないなんだからよ」
「ほんとにさ……でくれればね」
「さっさと……ばいいのによ」
これだけ離れても聞こえるほどの声で騒いでいるのか。いよいよもって理解ができない。
私を低く見るのは別にいいが、そんな私に自分たちの時間を割いていることを何も思わないのだろうか。というか……。
「私も私、だね」
こんな世界、なんで私はまだいるのだろうか。自殺未遂なのだろう? 何もかも、捨ててしまえばよかったではないか。
いつもは聞き流すはずの、何の力もない子供の言葉。それが今日は、どうしてか頭の中で繰り返されていた。
違和感がぐわんぐわんと頭をめぐる。私はいま生きている。ここにいる。けれど、なんだ? 私は、この世界に生きているという実感がまるで持てない。まるで……そう、
どこか別の場所で、死んだことがあるみたいだ。




