第九十二話 見えない涙
「なんであの二人が……?」
その場に座り、再び顔をのぞかせ聞き耳を立てる。
「……ど、どいてください、急いでますので――」
「いやぁ最近はコンテストの試作が捗るわ捗るわで、こりゃ優勝は楽勝だわー。ほんっとスゲーよな――この本はよぉ」
奴はおもむろに一冊の本をミルに見せつけた。
その本が何なのかは、遠目から見てる俺もよく分かった。
「な……なんであいつが、あの本を!?」
それは俺が初めてミルに会った日に、奴らから守った過去優勝者のレシピ本だった。
その後、ロアが奴らを巻いて、ちゃんと最初に見つけたミルに渡したはずだったのだが……まさか。
「まさか――あいつっ!!」
取り返しに行こう。そう思って飛び出そうとした瞬間、後ろで俺のズボンがガシッと掴まれた。そのせいで勢いがピタッと止まってしまう。
「グルルゥゥ……」
「ロア!?」
後ろを振り返り見てみると、ロアが必死に俺のズボンを咥えていた。
俺が二人の前に出ていくのを止めているようだった。
「ロア頼む離してくれ! あいつ、せっかくミルの手に戻ってきた本を、脅しでもして奪ったんだきっとっ! 許せない……!」
「グルゥ……グルゥ……」
依然としてしてロアは俺のズボンを離してくれない。むしろ咥える力がどんどん強くなっていき、俺を後ろに引きずり始めた。
「ロア……」
何か言いたげなロアの瞳を見る。
ロアと契約したパートナーだからか、ロアの気持ち、考えていることが次第に伝わってきた。
冷静になってよく考えろ。ロアはそう言いたいんだろう。
俺は言う通り、息を整え考える。
ここでもし俺が二人の前に姿を現し、ミルの本を取り返そうとする。
あの野蛮なヤンキーの事だ、きっと力尽くでもあの本を守ろうとするだろう。
もし万が一騒ぎを起こし、その現場が教師の目に入れば、俺はきっとコンテストの出場権を剥奪される。
「そう言いたいんだろう、ロア」
理解したのを確認したロアは、すんなりズボンを離してくれた。
冷静になって気づけて良かった。危うく今までの努力が全て水の泡になるところだった。
「ありがとう止めてくれて。もう大丈夫だよ」
「ガウッ」
ロアの頭を優しくなでる。やっぱりロアは気が利く。パートナーになって良かったと心底感じる。
落ち着きを取り戻し、俺は再び二人の様子を伺った。
「お前はどうすんだぁコンテスト。――あぁそうかー、あの本が無けりゃ何もできないもんなぁ?」
「…………」
「なんでこの学園に来たのお前? 料理もできねぇひ弱な駄犬が……見てて腹立つんだよ。……わりぃが優勝トロフィーは俺のもんだ――ざまぁみろ」
耳打ちするように最後にそう言った。
気づかないうちに、俺の拳は強く握りしめられていた。
「なんてやつだ……」
話を終えたやつがこちらの方へ歩いて来た。
「やっば!」
隠れないとと思ったが、近くに隠れそうな場所が見当たらない。
あるのはコンテストのポスターや新聞の記事が貼られた掲示板のみだった。
「ああもう! これしかない!」
隠れるところが見つからなかった俺は、仕方なく掲示板を読むフリをし始めた。
「へぇーなるほどー、そんなことがあったのかー」
わざとらしく声をだし、精いっぱい読んでいるフリを演じる。
俺の視界の真横に入ったやつは、ちらっと俺の方を見つめるが、そのまま歩き去っていった。
「……行ったか」
そろりと奴が歩いていった廊下を確認すると、もう姿は無かった。
「ミルは――」
ミルの姿も既に消えていた。あの後すぐに去ったのだろう。
俺は二人がいた位置まで歩み寄った。
「なんで俺に言ってくれなかったんだろう……いや――言えなかったのかも」
もし俺と話しているところをあいつに見られたとしたら、今度は俺に危険が及ぶかもしれない。ミルはそう思って、俺との接触を避けていた。だから今まで俺から逃げるように去っていってたのだ。
昨日の出場しないという言葉も嘘であり真実だ。本当は心の底から出たいと思っているに違いない。あのやる気のオーラを直に感じたからこそ分かる。
でも俺が守った本を結局奪われてしまって、申し訳なさを感じ、罪を償うため出場を拒否したいとも思っているんだろう。
「あれ、ここの床だけ濡れてる?」
ふと下を向いた時だった。
ミルがちょうど立っていた位置の床に、雨でも降ったようにポツポツと水の跡が付いてるのに気が付いた。
それが何の跡なのか、すぐ理解できた。
「――もう放っとけないよ、これは」
拳を強く握りしめ、ある事を決断した。