第六十話 一ヵ月経過
正人が異世界に転移してきて、ちょうど一ヵ月が経った頃。フーディリア王国内、とある路地裏の小さなバーにて――。
「ふんふんふ~ん」
オレンジ色の淡い光がカウンターを照らす中、一人の中年マスターは、陽気に鼻歌を歌いながら、丁寧にグラスを拭いていた。すると、店の古びた木のドアが、軋み音を立てながら開いた。
「おぉルボナードの旦那ぁ、いらっしゃい」
ギシギシと床を踏みしめながら、ルボナードはカウンターの席についた。
「強ぇ奴」
「へいへい」
マスターは背後にある、身長の二倍はあろう多種多様な酒の壁から一本を取り出し、グラスへと注いでルボナードに渡した。
「はいよ旦那」
「おう――」
マスターがルボナードに手渡したのは、店にある酒の中でも特にアルコールが強い酒だった。それをルボナードは、なんの躊躇いもなく一気に飲み干した。
「……まぁまぁだな」
ルボナードは、飲み干したグラスをマスターへと差し出し、おかわりを要求する。
「まぁまぁですかい……。それ、うちん中でも結構強い奴なんすけどねぇ」
少しだけ敗北感を感じたマスターは、今度は多めに酒を注ぎ、ルボナードに渡した。そして一仕事終えたマスターは再びグラス拭きをし始める。
「そいや旦那。もうそろそろ謹慎処分終わる頃じゃないですかい?」
「あぁ、今日が最終日だ。ちっ、長かったぜ、全く……」
「これに懲りたら、もうやらかさないことですぜ」
「ふんっ」
グラスに注がれた酒の水面を見つめるルボナードは、不満げな顔で酒を飲む。
「やる気が無ぇ下手くそな奴は、痛い目に合わねぇと分かんねぇんだよ」
「全くー、そんなんだからあんな通り名が付いちゃうんすよ?」
「……知らねぇよ、好きに言わせとけ。んなことより、これよりもっと強ぇ奴くれ。あと適当なつまみ」
「へいへいっと」
これっぽっちも酔う気配が無いルボナードは、さらに強い酒を要求した。
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外が夜の闇に覆われ、生徒の皆がそれぞれの時間を過ごしている頃。正人は寮の調理室で一人、包丁を研いでいた。
「…………」
誰もいない調理室には、包丁を研ぐ音のみが響いている。俺は一言も発さず、ただ包丁を研ぐことだけに神経を集中させていた。
「……よし! いい感じだ」
まるで職人の様に、刃が立っているのを確かめた俺は、ローザさんの雑貨屋で購入して間もない包丁ケースの中にしまった。すると、コンコンと扉の方からノックが聞こえてきた。見てみると、ノックの正体はティラだった。
「ティラ……?」
ティラはにっこりと微笑んで、調理室の扉を開けた。
「こんばんは、マサトさん!」
今日の調理実習の先生はティラだった。だから、もしかしたら何かやらかしたのではないかと、一瞬心配する。
「どうしたの? こんな夜に。まさか今日俺なんかやらかしちゃった……?」
「いえいえ! そんなことないですよ! 今日の実習も良くできてましたよ! ただ少し面談をと思いまして」
「面談?」
とりあえずお茶でも飲みながら座って話そうと、俺達は調理台で向かい合うようにして、椅子に腰を下ろした。
俺は、ティラが入れてくれたハーブティを一口飲む。懐かしい味だった。俺がこっちに来る前に、家のリビングで飲んだのと一緒だ。
「ふふっ、気づきましたか?」
「うん、あの時と同じハーブティだ。なんか少し懐かしい」
感慨深い気持ちに浸りながら、俺はそのハーブティを飲み続けた。
「マサトさんがこっちに来てから、今日で一ヵ月が経ちます。どうです? こっちの生活は慣れましたか?」
「ん? そっか……もう一ヵ経つんだ。最初の頃は、この先どうなるんだろうって、不安ばっか感じてたけど……うん、ちょっとは慣れたかな」
「そうですか……、それは良かった」
俺は、最初に来た日から今日までを振り返る。今思うと濃い一ヵ月の様に感じる。逆に言えば、まだ一ヵ月しか経っていない。これから卒業まで一ヵ月どころではない月日を過ごすのだから。
「学園生活はどうですか?」
「初めて覚える事ばかりですごい楽しいよ。でも覚えることが沢山なのはちょっと苦痛だけどね……」
「ふふっ、料理人に近道はありませんよ~?」
俺は苦笑いを浮かべながら心の中で、ごもっとも、と呟いた。
ここに連れてこられたのは、半ば強引な感じだったが、結果こっちに来れて良かったと思っている。あの時、もう本当に料理人の道に歩むのを諦めかけてた俺を、ティラが奮い立たせてくれなかったら、きっとこんな経験はできなかった。
「ありがとう、ティラ」
「え……?」
「俺をこっちに連れて来てくれて。じゃなきゃ俺は今頃、きっと笑ってなかった」
「マサトさん……」
ティラの瞳がうるっと輝いた。涙腺を刺激してしまったようだ。
「……それなら良かった……です。――おっと、もうこんな時間ですか。確か明日も調理実習でしたよね? ゆっくり休んでください」
そう言いながら、ティラはハーブティをなおした。
「うん、ありがと」
「それでは、おやすみなさい!」
調理室から出ていくティラに、おやすみと一言告げ、手を振った。
「さて――、俺も部屋に戻ろ」
包丁ケースと砥石を手に取り、俺は最後に忘れ物が無いか確認してから調理室を出た。