第四話 暴君のいる調理室
6月29日 再度修正しました。
「ウゥ。野菜の仕込みが終わったら次は……」
多種族の生徒が混在する調理場で、ゴブリン族のオレはただ一人、野菜の切込みをしていた。
「ってぇな! ちゃんと前見て歩けよ!! 落とすとこだっただろうが!」
「ねぇまだ炒め終わんないの!? 早くしてよ!」
「ちょっと、フライパン足んないんだけど、だれ使ってるやつ! こっち優先って言ったでしょ!?」
食材を刻む音、食器を洗う音、何かを炒める音。そしてその中には、焦燥感に苛まれた生徒達の声も混じっていた。
明後日は数百人の新入学生を豪勢なビュッフェでもてなす歓迎会。
そのために、つぎ新二年生になるオレ達が躍起になって仕込みをしている。
手のひらに浮かび上がる時計を確認する。
見ると、既に午後三時を回っていた。
生徒達を見渡す。
やばいって、これ完璧に作業遅れてる。
目が虚ろな上に、作業ペースも大幅に落ちている。
それもそうだ。
だって、今朝四時からずっと休み無しで仕込みをしてるんだから。
休憩無しで、かれこれ十一時間ぶっ通しで仕込み――。
それもこれも、あいつが監督なのが悪い。
こんな状況になった理由はそれしか考えられない。
チラッと一瞬だけ視線を外す。
そこには、オレがこの世で一番嫌いな人物が仁王立ちで立っていた。
あぁ……また不機嫌そうな顔で睨んでる。
ただでさえ鬼のようなアイツの顔が、さらに怒り顔へと変わっていく。
思い出したくもないトラウマが脳裏をめぐる。
包丁を持つ手が小刻みに震えだす。額から冷たい汗がにじみ出る。
早く切り終えないといけないのに、焦りが募ってさらに作業スピードが落ちていく。
カツカツと足を踏み鳴らす音が不安を煽る。
アイツの怒りボルテージが上昇している証拠だ。
早く……早く早く早く!!
もっと早く、正確にやらないと、あいつが……あいつが……!!
頼むからみんなも、もっと頑張ってくれっ……!
その時、足を踏み鳴らす音がピタリと止んだ。
落ち着い……た? 良かった、とりあえずこれで……。
安堵したその時。オレの耳は、嫌な音を拾ってしまった。
――あいつの舌打ちだ。
「チッ――ぁあおせぇおせぇ遅すぎるっ!! 今何時だと思ってやがる! 時計を見ながら行動しやがれっていつも言ってんだろうがっ!!」
調理室に響き渡るアイツの――暴君の怒号が、あくせくと仕込みに取り掛かるオレ達の耳と精神を刺激した。
最悪だ。一番恐れていたことが始まってしまった。
頼むから何事もありませんように……怒号だけで済みますように……!
オレは必死になってそのまま野菜の切込みを続けた。
失敗は許されない。周りなんか気にしていられない。
完璧に、完璧に。素早く、素早く……!
「入学式は明後日なんだぞ? そんなペースじゃ間に合わねぇだろうがっ!! それと――おい。そこの!」
あんなに騒がしかった調理室が、一瞬にして静まり返った。
そして痛いくらいの視線をなぜか感じた。
オレは思わず手を止め、周囲を見渡してみた。
「え……?」
その視線は全て――オレ一人にのみ向けられていた。
「聞こえてんのか! お前だよお前、ゴブリンのお前っ!」
「オ、オレですか!?」
口から心臓が飛び出そうなくらい鼓動のスピードが早まる。
まさか自分に来るなんて予想もしていなかった。
なんで、なんでオレ!?
いや……そうか、ヘヘっ。
きっと出来が良かったから誉めてくれるんだ。そうだ、そうじゃなきゃおかしい。
だって作業は周りよりも早くやってたつもりだし、切込みだって完璧にできていたはずだから。
「お前……もう帰れ」
「…………へ?」
思わぬ言葉に一瞬思考が停止した。
「聞こえなかったか? 『帰れ』と言ったんだ」
「……な――なんで……なんでですか!?」
なぜそんなことを言うのか理由が全く浮かばなかった。
だってオレは完璧に……こうならないように作業してたはずなのに!
目の前の鬼のような男が長い溜息を漏らす。
「はぁー、これだから……。そんなことも分かんねぇのか? 見てみろ、お前の切ったこのキャベツ――。俺はさっきなんて教えた?」
鋭い視線は、オレの仕込み中の千切りキャベツに向けられた。
「え……だからその、キャベツは千切りって……」
誰がどう見ても、これは教えられたとおりの千切りキャベツだ。一体何が不満なんだ。
「はぁー……どけ」
そしてやつはオレの真横に来るなり、まな板の上に置いてあったボクの包丁を取って、そのままキャベツをスライスし始めた。
「んなっ!?」
顔色一つ変えずに、目にも留まらぬ速さでキャベツをスライスしていく。
みるみるうちに、千切りキャベツが出来上がっていく。
見てるのも怖くなるありえないスピードだった。
あんなに早く包丁を動かしてるのに、なぜ指を切らない!?
オレだったら……いや考えるのもおぞましくなる。
そしてわずか数秒間で、まるまるあったキャベツは、あっという間にフワリとした極細の千切りへと変化した。
「比べてみろ?」
しかも息一つ乱していない……。
オレは言われた通り、今切られた千切りと、オレが切っていた千切りを比べてみた。
「そ、そんな……こんなにも……」
太さがまるで違う。細い。それに、なぜか綺麗に輝いてみえる。
対するオレのきった千切りキャベツは――太い。比べてみると二ミリくらいの幅があるのが分かる。
そして、綺麗に輝いてもいない。
段違いの出来――。まさしく天と地の差だった。
同じ包丁のはずなのに出来栄えがまるで違う。
周りの生徒達もその光景を目の当たりにして、訳が分からないといった表情を浮かべていた。
いったいどれほど年月をかけて練習したらこの域に達するのだろうか。
ほんの少し前、仕上がりは完璧だと言っていた自分を罵りたい……。
もうすぐ二年生になる。だから、先輩はこんなにすごい料理を作るんだぞ、と良いところを見せようと思っていた。思っていたけど……。
オレはもう一度自分の切った千切りキャベツを見た。
あぁ、恥ずかしい。すべてがなんかバカバカしく感じてきた。
「お前のそれは千切りとは程遠い。それを人様に出すつもりか、ああ? まぁ家畜は喜んで食うだろうがな」
考えが甘かった。
オレは圧倒的な技術を目の当たりにして、ようやく悟った。
これまでは切磋琢磨に学園生活を営んできた。
未来に希望を抱きながら、死に物狂いで料理の勉強を一年間してきた。
けど、二年に上がろうとしている今、何かが違う。今までとは明らかに違う。
これからがそうなんだ。本当の学園生活は、これから始まるんだ――。
「あ……あ……」
「やる気がねぇなら……帰れ」
とどめの一言を食らわされ、ついに心が折れた。
オレは無言のまま、自分の包丁を包丁ケースへとしまい、涙を流しながらトボトボと調理室の出口へと向かった。
ボクはもう――付いていけない。
そう思いながら、もう二度と入らないであろう教室のドアを、静かに閉めた。
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また一人生徒がいなくなったか。
下手くそなうえ、根性無しだったな。一年間何してきたんだあのゴブリンは。
ゴブリンが出て行ったドアを見ていると、絡みつくような視線を感じた。
ちっ。こいつら……。
獰猛な獣を見るように、生徒達が俺のことを見ていた。
腹が立つ。
「おい。何見てんだオメェら? 見てねぇで手ぇ動かせ手をっ! それとも今出ていったゴブリンみたいにお前らまとめて出ていくか、あぁ?」
腹の底から怒鳴り声をあげる。それでも怒りが収まらない。
腕もねぇくせに……。見てる暇があったらさっさと終わらせろ。何時間経ってると思ってやがる。
圧倒された生徒達はあたふたと作業を再開した。
「なんで俺がこんな出来損ないの奴らの面倒を……。俺一人でやったほうが何億倍も速いんだがなぁ」
俺はわざと生徒に聴こえるように不満を吐いた。
「そういやぁスイーツビュッフェの仕込みもしなくちゃだったな。あぁくそっ。もともとあれは、あのチビの管轄だったろうが。なんで今日に限っていねぇんだよ」
「まったくあなたったら……あいかわらず口が減らない男ね――」
聞きなれた耳障りな声が聞こえてきた。
体の右側で一瞬だけ炎が燃え上がり、熱が伝わってきた。
こいつはいつもいつも、なんで呼んでもねぇのに出てくんだよ。
「さっきのゴブリンの子といい、もっと優しくしてあげられないものかしら? 可愛くないわ」
「やかましい。やる気がねぇ出来損ないは必要ない。それにアレでもだいぶ抑えたほうだ。手は出してないからな――。あと勝手に出てくんじゃねぇっていつも言ってんだろうが。さっさと消えろ」
「だからそういうとこよっ! あーやだやだ、なーんでこんな男が私の主人なのかしら? 一生の謎ね。ほんっと、ティラちゃんと契約すればよかったわー。べーっ!」
ぶすっとした表情であっかんべーしてみせ、煙のように消えていった。
俺もなんでお前みたいなやつと契約したのか謎だ。
くそっ。あいつのせいで、イライラがさらに増しやがった。
「オラお前らっ! 手の空いたやつはすぐにスイーツビュッフェの仕込みに取り掛かれっ! もたもたしてるやつは……どうなるか分かってんだろうな?」
そう言うと生徒達は血眼で一斉にペースを速くしはじめた。
そりゃそうだ。こいつらは俺が言った言葉の意味を重々理解しているはずだからな。
こいつらの体の事? 知ったこっちゃねぇよ。今まで楽して学園生活を送ってきたのが悪ぃんだろうが。自業自得ってやつだ。
ここがどういうところか本当に気づいてねぇやつ。それと腕のねぇやつはいらん。
せめて次の一年はこいつらよりも、少しはマシだといいんだがな。
ああ。早く帰って浴びるほど強ぇ酒が呑みてぇ……。