第三話 ターニングポイント
ティラは、ポケットから懐中時計を取り出し、深刻そうな表情で時間を確認した。
「……ちょっとゆっくりし過ぎましたかね。実は諸事情につき、私は数十分しかこちらに来られないようになってまして……。ですので大急ぎで準備をば……」
「ちょ、ちょっと待って!」
唐突すぎるにもほどがある。
とりあえずは、この少女が只者でないことは理解した。けれどまだ行くとは一言も言ってない。
こちらの意図を少しは汲んでほしいものだ。
「あの悪いけど、俺はまだ一言も行くとは言ってないし。なによりその、ガス……なんとか学園の事について詳しく聞かされてないんですけど……」
「残念ながら、今は細かい話をしている暇はないのです」
やれやれという表情を浮かべながらティナは言った。
「――残り五分で移動します。ですので、簡単に支度をしてきてください。こちらのお金と、あと……すまほ? でしたっけ。それらは向こうでは役に立たないと思いますので、置いていって構いません。あとは――」
「あのさ! 少しは俺の意見を――」
「聞いてくれ」、そう告げようとした刹那、俺の喉元に何かが突き付けられた。
時間が一瞬にして止まったような気がした。体がピクリとも動かない。
目だけを下に向け見てみると、その正体は『杖』だった。
さっきまでと打って変わって無表情のティラが、俺の喉元に杖の先を突き付ける。俺は思わず硬直してしまい、何も喋れなかった。
「将来の夢はプロの料理人になる事――」
「……っ! なんでそれを……」
「幼いころから、料理をするお母様の姿に憧れて、あなたも将来プロの料理人になりたいと夢見てきた。料理を学びたいのでしょう? プロになりたいのでしょう? ならば何を迷う必要がありましょうか」
心を見透かされたように全部お見通しだった。
俺は杖を突き付けられたまま、唇を強く噛みしめた。
「うちで学びなさい」
「…………」
憧れの存在が忽然と目の前から消え去り、夢を追いかける事も、料理を作る事さえも億劫になっていた。正直もう夢を諦めようかと思った
それほど、俺にとってあの人は大きい存在だったのだ。
だけど、ティラのハーブティーを飲んだ時、思った。世の中には、こんな美味い物を作る人がいるんだな、と。
魔法にかけられたみたいに、動揺していた俺の心を優しく静めてくれた。
たかだがハーブティー一杯で、人の心を掴んだのだ。
そこで学べば、俺もいつかそんな料理を作れるようになるのだろうか。
母さんの様な、皆から愛されるプロの料理人になれるだろうか。
「……俺も、そこで学べばプロになれる?」
心の声が、いつの間にか口から漏れていた。
「あなたが夢を信じぬき、諦めさえしなければ――」
不安はやがて、好奇心へと塗り替えられていく。
じゃあ迷っていられない。俺は――。
「……分かった、行く。行くよ。そこで料理の勉強して、皆に認められるような美味い物作れるようになって、絶対になってみせる――プロの料理人に!!」
ティラは表情をやわらげ、ニコニコしながら、ゆっくりと杖を下した。
「そしていつかこっちで俺の店を作る。それが最終目標かな!」
「それなら早く準備して来てください! 向こうに着いてからは入学手続き諸々やって欲しい事が、たっくさんありますからねっ!」
「急いで支度してくる!」
こうしちゃいられないと、俺は大急ぎで部屋に支度をしに向かった。
「――なさい……」
何かボソッと聞こえたような気がした。
「ティラ、今なんか言わなかった?」
「えー? 何も言ってませんよ? ほら時間時間! 急いでください!」
「……そう?」
どうやら空耳のようだった。
特に気にもせず、俺は駆け足で自分の部屋に向かった。
着替えは葬儀から戻ってきたときに済ませてある。あとは持っていく物だが。
「確かスマホとお金は持ってても意味ないって言ってたよね。なんでだろ、まさか外国? まぁでも、スマホくらい持っていっとこうかな」
「正人さーん、急いでくださーい!」
一階のリビングからティラの急かす声が上がってきた。
「ごめん今行くよー! ――よしっ準備完了っと! って言っても持っていくものはスマホだけだけど」
あとは時間が無いから現地調達ってことで良しとしよう。
俺は駆け足でティラの待つリビングへと降りた。
「ズズズ……はぁ……私が作ったハーブティー最高。あ、準備終わりました?」
そこには、ソファーで足を組んで小指をピンッと立てながら、優雅にハーブティーをたしなんでいるティラがいた。
「時間ないんじゃなかったの?」
「いかなる時も、落ち着いて行動する。プロの料理人に無くてはならないスキルの1つです。ズズズ……」
俺の喉元に杖を突き付けたときの、恐ろしい威圧感はどこに行ったのやら
その時だった。
リリリンと、まるで昔の電話のような鋭く耳を貫くような激しい音が聞こえてきた。
「うわビックリした! どこから聞こえて……ねぇティラ!」
「あぁつぅ!! もうっ! なんなんですかこの音!! びっくりして零しちゃったじゃないですかぁ! ……あ、もしやこの音――!」
ティラは少し焦った顔をしながら、ティーカップを机に置き、ズボンのポケットから年季の入った金色の懐中時計を取り出した。
どうやら音はその懐中時計から鳴っているようだった。
「やはりこの時計の……! 正人さん、もう待ったなしです。すぐに移動を始めるので付いてきてください」
音は鳴り止み、ティラは風のように颯爽と玄関の方へ向かった。
ティラに言われるがまま、俺も追いかけるように玄関へと向かう。
「今の時計の音、どういう意味なの?」
「残り三分――。私がここにいられる残り時間の事です」
疑問が疑問を呼ぶ発言だった。
ここにいられる、とはどういう事なのだろうか。そもそもティラは外国人……のはず。つまりはその学園も外国。
残り三分で外国へ? 無理だ。どう考えても間に合うはずがない。
やっぱり……最初からおちょくられてるだけなんじゃ?
疑問は次第に疑念へと変わっていった。
「ねぇ……その学園って名前からして外国だよね? あと残り……二分弱くらい。どう考えても無理じゃ……」
「まぁある意味外国ですね。ですが強いて言うなら、あなた達が言うところの……」
玄関の前で立ち止まってるティラが、視線を真っすぐ前に向けながらこう言った。
「『異世界』――とでも言いましょうか」
そう言うと、ティラの左手からボンっと煙と共に杖が出現した。
こんな光景、テレビのマジックでしか見たことなかった。
しかもそれは、さっき俺の喉元に突き付けたあの杖だった。
長さはだいたい六十から七十センチくらいで、突き付けられた時には気づかなかったが、持ち手にはドーナツの形をした彫刻が象られている。
服と帽子も派手なお菓子の柄だし、こうやって見ると、ティラは本当に料理学園の教師なんだなって本当に思えてくる。本当なのかもしれないけど……。
「それじゃ開けますよ~」
ティラは杖の真ん中を持ち、持ち手を向こう側にして、そのまま前へ突き出した。
その瞬間、重たいボールが弾むような音と共に、向こう側へ向けていた杖の持ち手が空間に吸い込まれ、玄関のある空間だけが波打つように揺れた。
「よい……しょっ!」
今度はそのまま杖を百八十度左に回した。
ガチャリ。
何かが、開いた音がした。
「ねぇ今何を――」
尋ねようとしたその時だった。
ギィと、古くされた扉が開くような音が目の前で鳴る。
いいや、『ような』ではない。それは本当に――『扉』で間違いなかった。
まるで夢を見ているようだった。
にわかに信じがたい光景だ。玄関の前の空間が両開きになっている。
扉の向こうに広がっていたのは、俺の知っている桐宮家の外ではなく、途方もなく広がっている何もない白い空間。
その信じられない光景に、俺は開いた口が塞がらなかった。
「さぁ、入って!」
「え、大丈夫なの!? これ入った瞬間真っ逆さまに落ちてったりしない!?」
「しませんからっ! ちゃんと地に足付きますから安心してください!」
そう言ってまずティラが、扉の向こうへ飛び込んだ。
ピンク色の短い髪がさらりとなびく。
そして着地すると、ね? と言わんばかりの素振りをこちらにしてみせた。
「ほら大丈夫!」
ティラが白い空間の上に浮いているように見える。だが言った通り地に足はついているようだ。
俺は固唾を飲みながら意を決して扉の向こうに飛び込んだ。
「……ほんとだ、落ちない」
「だから言ったじゃないですか、安心してくださいって」
「ティラってさ、魔法使いかなんかなの?」
「ただの可愛いパティシエ―ルですよ?」
苦笑。
「でもこれでやっと一安心――」
ジリリリリリッ!!
けたたましい時計の大音量が、またもいきなり鳴り響いた。
「今度は何っ!」
耳を塞ぎながらティラに大声で問いかける。
今度はすぐにティラが音を止めてくれた。
「……どうやら時間のようですね」
その時、背後から聞き覚えのある音が聞こえてきた。
「あ、扉が……!」
通ってきた扉が、ゆっくり、ゆっくりと閉じていく。
そして完全に閉じ切り、扉の姿はもうどこにも見えなくなった。
扉を開き、飛び込んで、数十秒で閉じた。
「……間一髪ですね。あと一分でも遅れていたらこっちに来れなかったでしょうね」
ゴクリと唾を飲む。
「向こうの扉が開くまで十分ほど掛かりますので、しばらく待ちましょう」 「はぁ……なんかどっと疲れた……」
溜息を漏らしながら、俺はその場に座り込んだ。
そういえば今日は葬儀があったんだった。色々ありすぎて忘れかけていた。
葬儀が終わって、そこから帰りのタクシー代を貰ったにもかかわらず、長い道のりを歩いて帰って、極めつけは……。
俺は座り込んだままティラを見上げた。
「ん、どうしました? あ、そうだ、ハーブティー飲みますか? 実はお菓子もあるんですよ~」
「――うん。それじゃあいただこうかな」
どんな世界なのか全く想像がつかない。
やっぱりアニメやゲームの世界みたいに、そこら中モンスターだらけで、空には火を噴くドラゴンとか飛んでるのだろうか。
先が思いやられるけど、なんとかなるよね、きっと。
……行ってきます。絶対プロの料理人になってみせるから。
扉のあった場所を振り返り、心の中で静かにそう決意した。