プロローグ 潰えた夢
夢が潰えた瞬間だった。
「今……なんて?」
最初はいたずら電話かと思った。しかし電話の主は知り合いで声も口調も間違いなく本人だった。
その、耳を疑うような知らせを聞き、二、三度確かめ、ようやく理解した俺は、静かに、力が抜けるようにそっと受話器を置いた。
「うそ……じゃないの?」
エイプリルフールネタ……にしては不謹慎すぎる。いたずらでもあんな電話する輩はいない。それに今は冬だ。
「…………」
電話の前で呆然と立ち尽くす。
何度も何度も頭の中で電話の内容がループする。
何かの間違いだと信じたがっている自分がいる。
――母さんが亡くなった。
俺のたった一人の親であり、唯一の憧れの人であり、目標でもあった人。
母さんは料理人だった。それもかなりの腕を持った。少なくとも俺の知っている料理人の中じゃダントツだった。
時には、色んなお偉いさんが集うという高級名店レストランからオファーを受けては店に訪れ、料理を振舞っていたこともあった。引っ張りだこになって店同士で揉め事になった事もあるし、うちの店に来てくれとせがみ、目がくらむような大金が動いたこともあったとか……。
とあるお偉いさんの口から、こんな言葉が漏れたことがある。
『桐宮しおん』の料理を食べないと、なんのために生きているか分からなくなる――と。
それ程までに母さんの料理は、皆から愛されていた。
そんな人望が厚い母さんだが、自分の店を持とうとは決してしなかった。というかそもそも興味がなさそうだった。
料理の腕は間違い無いから少し勿体無い気もするけど、それも母さんらしかった。
父親はいない、物心ついたころから母さんと二人暮らしだった。だから、いない事は特に気にもせず、母さんから話すことも、俺が直接父親の行方を尋ねる事もしなかった。
俺がまだ幼い頃、母さんが俺を仕事先のレストランに連れて行ってくれたことがある。
今の自分が思い出すのは少し恥ずかしいけど、理由は恐らく、俺がいつも「母さんみたいな料理人になる!」と口癖のように言ってきたからだ。
その意を汲んで俺に社会勉強をさせてくれていたのだろうと思う。
そして、本格的に母に料理を教えてもらえたのは小学校四年生の頃からだった。
プロ中のプロだから、かなりハードな教え方――というわけでもなく、どちらかと言うと真反対。
あぁいいんじゃない? みたいな、ざっくばらんとした教え方をしていた。
俺的にはもうちょっと真面目に教えてくれても良かったのだけど、母さんの手本は完璧で、俺も勉強になってたから何も言えなかった。それはそれで満足していた。
なんというか母さんの性格は、お茶目で明るくて、いつも何かしら笑っていて、まるで太陽の様な人だった。
その上、料理は美味いし腕も良いから、色んな人が母さんに惹き付けられていた。
対して俺はというと、そこまで特に目立った特徴は見られない、高校生活を控えた平々凡々の、ただ料理が好きと言うだけの十六歳少年。
強いて言うならば、近所のおばさんや小さい子供たちには特に好かれた。
おばさん達には会うたび頭を撫でられるわ飴は貰うわ、子供達には出会いがしら体当たりされたりするわ髪の毛は引っ張るわで、その都度疲れるけど、別に嫌ではなかった。
そういう謎に人を惹き付けるところは、母に似たのかもしれない。
近所の人、料理に携わるもの、食べにくる客達の中で、母さんを知らない人なんて居なかった。『桐宮しおん』と最高の料理人だ、と皆口を揃えて言っていた。
だから――葬儀にも沢山の人が訪れ、沢山の人が母さんの為に泣いてくれた。
死因は病死――。
医者によれば、現代の医学では治療不可能な病気だったらしい。
もうすぐ高校生になる俺は、今の今まで全く知らなかった。
母さんはその事を知ってて、ずっと黙っていたのだ。
まだ教えてもらう事が山ほどあったのに何でこんな事に……。
母さんのような、皆から愛される料理人になろうと幼い頃からずっと思い続けてきた。
その憧れは、俺の前から一瞬にして、しゃぼん泡のように弾けて消えた。
父さんもいない、母さんもいない。俺は――ひとりぼっちになってしまった。
心の中で、何かが散り散りになって崩れ去っていくような気がした。
ついには全身の力が抜け、操り人形の糸が切れたみたいに、その場にすとんと座り込んだ。
「もう……辞めよ。料理人になるの――」
無意識に開いた口から、小刻みに震える声が、ぼそりと漏れた。