ステージ16
六月も半ばに入り、旧校舎をリフォームしたクラブハウスが完成した週末に彼女はやって来た。
「桂木芽衣だ。これから暫くの間世話になる。私のことはメイと呼んでくれたまえ」
アメリカから来た新人メカニックの彼女は、私と同じくらい背が低く、私と同じくらい胸が小さく、その体に不釣り合いなくらい大きな白衣を腕まくりしながら羽織っている。
あらかじめ貰っていた履歴書通りなら、彼女は自転車倶楽部の誰よりも年下な筈なのだが、誰よりも態度が大きいというのが私の彼女に対する第一印象だった。
「上から目線のご挨拶、ありがとサン。で、アンタの経歴にゃ工業系の学校を卒業って書いてあるけど、一体全体どこの高校なのサ?」
「それは僕も知りたいね。君は僕がいくら尋ねても工業系の学校を卒業予定の一点張りで、具体的な学校名を教えてくれなかったからね」
稀に冗談で凄んだりはするが、普段は温和な先輩達が珍しく不機嫌だ。
それに対して軽く鼻を鳴らして小馬鹿にしたように答える芽衣さん。
「すまんな。高校は出ていないんだ」
「おいおい、経歴詐称かい? 俺達も馬鹿にされたもんだぜ」
そして彼女は、今度こそ本当に馬鹿にしたように大きなため息をついて答える。
「お前達が何を勘違いしてるかは知らないが、経歴に嘘は書いてないぞ」
それを受けて私の隣に座っていたメグが尋ねる。
「ひょっとして、桂木様がお出になられたのは大学の方なのでしょうか?」
「だからメイで良いと言ったであろう?」
「では失礼いたしまして、芽衣様はアメリカのメンサの会員で在らせられるとのことでした。それ程優秀な方でしたら、飛び級で大学に入っていてもおかしくはないかと思いしました。それで、かの国で最高の工業系の大学となりますと、わたくしも一校しか思いつかないのですが……」
その時、場に居合わせた全員が息をのむ音が聞こえたような気がした。
静まり返ったダイニングとなる予定の広間は、体感温度が一気に下がったような緊張感に包まれる。全員の視線が芽衣さんに集中するが、彼女は余裕たっぷりに笑うだけで、メグの言葉を否定しない。つまり彼女は高校ではなく、大学を卒業しているのだ。その証拠に、メグと私達を出来の悪い生徒でも品定めするかのように見渡す。
そして、その空気を決定的にしたのはやはり芽衣さんの一言だった。
「そこの彼女の予想通り、私はMITの卒業生だ」
マサチューセッツ工科大。通称MIT。それが芽衣さんの母校の名前だ。世界的にも有名な工業系の大学だが、実際に何を教えているのかは、雲の上過ぎて私も良く知らない。
芽衣さんは自分の紹介をドラマチックに演出するためにわざわざ回りくどい事をしたのだろうが、彼女は巷で馬鹿女と呼ばれる学校とそこに通う生徒のことを甘く見ていたようだ。
「ねぇ、メグちゃん。エムアイ……ってなぁ~に?」
空気を読まない質問をしたのはメグとは私の挟んで反対側に座っていた小梅ちゃん。
いや、状況が飲み込めていないのは料理研究部の面々も同じらしい。先程から漂っているただならぬ緊張感と、その元となっている会話についてこれていない。キョロキョロと周りの顔色を伺っている姿からは不安が滲み出ている。
その空気を敏感に嗅ぎ取って説明するのは、最近ではメグの役目だ。
「小梅さん、MITとは世界で一番有名な技術系の大学で、芽依様はそこの卒業生ですよ」
「簡潔な説明痛み入る。ところで、先程から気になっておったのだが、お主、目が見えんのか?」
「ええ、全くという訳ではありませんが、おっしゃる通りです」
「私の専攻は生体工学だから、多少は力になってやれるかも知れんぞ? 具体的には人工網膜と水晶体の移植ということになるかと思うのだが」
人工網膜や水晶体の移植なんて、もはや医者の領域だろう。それも専門的な知識を持った眼科のだ。だが、そんな私の心配もあっさりと覆されてしまう。
「心配無用だ。医師資格なら二年前に修得済みだ。MITは工業系の大学と思われがちだが、実際は経済や文学そして医学などの学部を内包する総合大学だ。ニューロンバイオニクスは高度な医学と工学の知識が必要な分野だからな。両方とも修める必要があったのだ」
「お気持ちは嬉しいのですが、わたくしは現状で満足しておりますので……」
困惑気味のメグの後をビアンカ先輩が引き継ぐ。
「アンタが御大層な肩書の持ち主だってことは分かったヨ。でもね、何でまたこんな頭の悪そうな学校に編入する気になったんだい? アンタのその肩書きなら大学に残って好きなだけ研究することだって出来んだろ?」
「ふん、実践の伴わない研究に何の意味がある? 第一、その研究をするために大学に居ただけであって、その研究自体もとっくの昔に終わっているのだ。後はその研究成果を活かすために世に打って出るだけなのだが、如何せん年齢というものは誤魔化すことが出来んのだよ」
いまいち話が呑み込めないのだが、芽衣さんは働きたいのだが、未成年なのでどこも雇ってくれないということなのだろうか。それだけ優秀ならビアンカ先輩の言う通り、大学に残って研究者になる道もあるだろうに。
「むしろ誤魔化しているのは君の方だと思うのだけどね。僕らは君がここに来た理由を知りたいんだけど?」
「医学系の研究には臨床実験が必須だ。研究用のモルモットやラット等はいくらでも許可が下りるのだが、さすがに人体での検証には気の遠くなるような手続きが必要になる。そんな物と格闘しているうちに婆さんになってしまうなんて私には耐えられない」
つまり人体実験をやりたいためにこの学校に来たと言いたいのだろうか。だとしたら迷惑だからお引き取り願いたい。
「何となくだが君の言いたいことはわかった。だが、それを容認することはまた別の話だ。僕らも自分の命は惜しいのでね。それと本題からかなり逸れたけど、メカニックの件は任せても大丈夫なのかな?」
「心配無用だ。研究段階で安全が予測できている物しか実験しないと約束しよう。あと、メカニックの方は電動の義手や義足の製作に比べればどうってことはないだろう」
「予測じゃ困るんだよ!」
その後、色々と物議を醸したのだが、他に適任者も居ないということで芽衣さんのメカニック就任が決まった。全く持って嫌な予感しかしないというのは私だけの感想ではないだろう。その証拠に、待望のメカニックを得たはずのルカ先輩は盛大な溜息と共にテーブルに突っ伏しているし、隣の小梅ちゃんは小さな声で「人体実験……怖い」と魂が抜けた表情でブツブツ唱えている。他のみんなも概ね似たような感じだ。
そんな中、一人だけ平然とお茶を啜っているツワモノがいた。
「皆様、よろしいではありませんか。少々特殊な嗜好をお持ちのようですが、能力的には十分以上の物をお持ちになっておられるようですので、多少の行き過ぎには目を瞑ることにいたしましょう」
メグの全く空気を読まない発言に全員の鋭い視線が集まる。
「お前が言うな!」
おそらくはこの部屋にいる者の総意であろう心情が異口同音の叫びとなってさして広くもない部屋に木霊した。
新しいクラブハウスは翠先生の家の倍以上の広さがあるとはいえ、全部で六部屋ある寝泊り用の部屋割りは三人一部屋が基本だ。そして肝心の部屋割りなのだが、ルカ先輩とレオ先輩の男子組が一号室。料理研究部の三人が二号室。ビアンカ先輩と綾乃先輩が三号室。朋ちゃん先輩と小梅ちゃんが四号室。三号室と四号室は比較的大柄な女子用の部屋ということで二人部屋になった。
問題は残りの一室。
必然的に残った三人が押し込められることになったのだが、この人選には悪意しか感じられない。
「喜べ! わたしと同室になったからには、常人では得られない力を発現させてやるぞ! 人体改造のフルセットで挑めば世界選手権の最年少記録更新も夢ではない!」
「良かったですね。わたくしも市子さんのために毎日、誠心誠意マッサージさせていただきます」
方や人体実験大好き系のマッドサイエンティスト、もう片方は自分が楽しむためなら、いかなるタブーでも犯す腹黒娘だ。この二人と同室になって五体満足に過ごせるわけがない。
ルカ先輩に空いている六号室を使わせて欲しいとお願いしたが、新しく入ってくる部員のために空けておきたいという理由で却下された。
そんな訳で彼女らとの同室に渋々同意せざるを得なかったのだが、少しでも気を抜けば、何をされるかわかったもんじゃない。とりあえず自分の身を守るための予防線は張っておいた方がいいだろう。
「人体実験とか絶対にやめてよね! 私、そういうのは間に合ってるから!」
「わたくし、市子さんの嫌がることは絶対にしないとお約束しますわ」
「心配するな。痛いのは……最初だけだ!」
二人とも、にっこりと満面の笑みを私に向けてくるが、目は明らかに今夜の食事となる獲物を前にしたハンターのそれだ。
「だから、痛いのは要らないって言ってるでしょ!」
だが、彼女らには私の悲痛な訴えも聞こえないと言わんばかりの余裕の笑みだ。
そのうえ、私の叫び声は隣の部屋どころか、その向こうにも届いているはずなのに、誰一人咎めに来る気配がない。
この二人と同室になったが最後。詰んだとばかりに完全に見放された私には、せいぜい二人を刺激しないようにするしか道は残されていないらしい。
「お、お手柔らかに願います」
それが何の慰めにもならないことは、その後の出来事で嫌という程思い知らされることになる。
芽衣が来てから一週間。
今のところ私の体に不具合は出ていない。
いや、出ていなかったと言うべきだろう。
その日の朝、私はチクチクとした痛みを頭に感じながら目を覚ました。
「あら、市子さん、お目覚めになられたのですね。おはようございます。芽衣さん、市子さんがお目覚めになられましたよ」
頭から伝わる不快な痛みにうなされながら起き上ると、すぐ近くに居たのであろう芽衣が私の顔を覗き込んで来る。
「おはよう市子。ご機嫌いかがかな?」
「おはよう芽衣。何だか頭がチクチクして痛いんだけど……」
未だ眠気を引きずっている私は欠伸を噛み殺しながら返事をする。
「今、お主の脳波を測っているからな。チクチクするのは電極が頭皮に刺さっているからで市子の健康には何らの影響も無い」
いや、頭皮に刺さってるって何だ。電極なんかが刺さっていたら電気が流れたりしてそこだけ禿げるんじゃないのか。
一気に目が覚めて不安になった私は起き上ろうとするが、私の肩を抑えた芽衣にベッドに押しもどさてしまう。
「こらこら、いきなり起き上るんじゃない。無理に引き剥がすと頭皮が持っていかれるかもしれんぞ。それにまだ午前四時だ。起床時間まであと三十分あるからな。しばらくはそのまま寝ていろ」
しかし目が覚めてくると電極の突き刺さった部分がきりきりと痛んでくる。しかも刺さっているのはどうやら一か所ではなく何か所もあるようだ。恐る恐る手を頭の方に伸ばしてみると、そこには私の頭をすっぽりと覆うように何かが被さっている。触った感じは全体的に薄く、柔らかいようでいて固い部分もあるような微妙な素材で出来ていて、おそらくは何らかの樹脂だと思うのだけれど、私の頭の形にしっかりとフィットしていて、ちょっとやそっとじゃ外れそうにもない。
「ちょっと、これ外してほしいんだけど?」
「馬鹿なことを言うな。今日の夜九時までは何が何でも計測を続けるぞ! 許可だってちゃんともらってるんだからな!」
「そんなの許可した覚えなんてないよ!」
私の悲痛な叫びに対する答えは予期せぬところから帰ってきた。
「最初はレオン様にお話を持って行ったのですが、即答で断られまして……その代りと言っては何ですが体格の良く似た市子さんに白羽の矢が立ったのでございます。他の先輩方からもご了承頂いておりますのでご心配にはおよびません」
「そんな心配をしてるんじゃないってば! っていうかメグ、あんたが黒幕か!」
「そんなに彼女を責めるな。メグミはお前の痛みを少しでも和らげようと、睡眠薬入りのお茶を飲ませただけだ」
昨日の夜、マッサージの後でリラックスできるからと、ハーブティーを進めらるがままに飲んだ。確かに美味しかったし良い香りもして癒される感じはした。だが、まさかあれに一服盛られていたとは。極々自然な流れだったので全く警戒していなかった。ここ一週間ほど、二人から何かされやしないかと気を張り詰めながら生活していたつもりだが、うまい具合に隙を突かれたのだろう。
「それだけ騒がしいのなら、もう起きても問題ないだろう。そのヘッドギアはワイヤレス仕様だから、こちらの受信機さえ身に着けていてくれれば大丈夫だ」
そう言われて渡されたのは、掌にすっぽりと収まるくらい小さくて黒い樹脂製の四角い箱だ。見た目に反してずっしりとした手応えがある。
「半径三メートル以内なら問題なく信号を拾ってくれるが、念のため自分の服のポケットにでも忍ばせておいてくれ」
この時点で心が折れていた私は練習用のジャージに着替えて、芽衣に言われたとおり背中のポケットにその受信機をねじ込んだ。
部屋に置いてある私専用の姿見(メグは目が見えないし、芽衣はいつも白衣なので必要としない)で着こなしが変じゃないか見てみると、頭に黒くて穴だらけの目の粗い笊みたいなものが被せられていた。ショートヘアの私の髪の毛は、その開いた穴から四方八方に立ち上がっている。まるで実験に失敗した科学者の髪の毛のようで、自分の置かれた状況を顧みると縁起が悪くてしょうがない。
「先に降りているからな。他の奴らの準備もあるからお主は顔を洗って歯を磨いてから降りて来い」
言われなくったって、もとよりそのつもりだ。
真新しいクラブハウスの一番の目玉でもある整備室は「ピット」と呼ばれていて、全員の自転車はここでメンテナンスを受けて保管される。その部屋は八メートル四方ほどの広さがあり、片側には自転車を保管するスペースが、もう片方には整備台が二つと工具を収納する大型の移動式ラックが置いてある。そしてこの部屋の主が私のルームメイトで、新たな頭痛の種でもある芽衣だ。整理整頓が行き届いていて塵一つ落ちていないその部屋は彼女の几帳面な性格の表れでもある。
ある一角を除いては。
そこは整備室の角に二メートル四方のスペースを強化ガラスで仕切られた部屋で、主に芽衣が研究開発と称して怪しげな実験を行っている場所だ。彼女が引っ越してきた翌日には業者が入って、当日の内に強化ガラス製の壁を設置していった。
それだけならいいのだが、そこはまだ一週間ほどしか経っていないにもかかわらず、訳の分からない機械が散らかっていて、しかも爆発したような形跡がガラスの向こう側にあったりする。それも一つや二つではなく、幾つもあるのだ。
そんな部屋に巣食う悪魔にヘッドギアを被せられた私は、練習に参加するためにピットに降りてきた。
すでに先輩達は自分の自転車を受け取って、各々が芽衣から整備した場所の内容を聞かされていた。
「ルカと朋子のブレーキはシューが減っていたので前後とも交換した。ついでにワイヤーも調整しておいた。ビアンカのバイクはヘッドパーツが若干緩んでいたので増し締めした。レオンの変速機は既製品の電動式に変えてみた。後で感想を聞かせてくれ。綾乃と小梅は掌の痛みを訴えていたからハンドルに低反発ウレタンを仕込んでその上からバーテープを巻いてみた。それでも改善されないようならポジションの調整をするから、その時は一時間ほど速く練習を切り上げてくれ。」
何だかんだ言っても彼女がメカニックとして有能な事は間違いないのだ。
私も他のみんなと同じように自分のバイクを受け取ろうとしたが、その肝心のバイクが見当たらない。
「ああ、市子、ようやく降りてきたか。お主のバイクならこっちに置いてあるぞ」
そう笑ってすり寄ってきた芽衣が私の手を引いて例の一角へと連れていく。
いつもなら強化ガラスの仕切りからはみ出るほど機械が積み上げられているのだが、今日は私のバイクが置いてある部分だけは綺麗に掃除されていて床が見えていた。
私のバイクは見た感じどこも変わっていないように見えるのだが、あのマッドサイエンティストがやることだ。絶対に何かあるはずだ。
「バイクを渡す前に記録を取りたいから、ちょっと待っててくれ」
芽衣は白衣のポケットに手を入れると、ボイスレコーダーを取り出して私に見せた。
「こうやって音声にして残しておくと、書かなくてもいいから楽なんだ。あー、現在時刻四時二十六分。試作型サイコシフターを搭載したバイクを市子に渡す。検証概要は脳波感応型変速機構の動作確認並びに実地によるデータの収集。被験者の健康状態は良好。精神状態も……概ね良好。よし、もう持ち出してもいいぞ」
精神状態のところで言いよどんだところをみると、少しは私に対して後ろめたい気持ちがあるのだろう。
芽衣から手渡されたバイクは、ちょっと見ただけではどこが変わったのかは良くわからない。強いて言えば、持った瞬間に明らかにそれと分かるほど軽くなっていたことだろうか。
もともと九キロ後半の重さがあったのだが、持った感じでは八キロを下回っている気がする。
「変更点はオリジナルのブレーキレバーへの換装によるシフトレバーの撤去と軽量超音波モーターを搭載した変速機への置換だ」
言われてみれば、ブレーキレバーの内側に寄り添うようにしてあるはずの変速レバーが無かった。たった二本レバーが無いだけでハンドル周りがいやにすっきりとして見える。
だが、それだけではない。
よく見ると、前後の変速機の部分には電動式の証明であるモーターが付いている。でも、既存の電動式変速機よりも遥かに小型で自然な形で部品に溶け込んでいた。一見しただけでは絶対にそれとはわからない完成度だ。
「ハブやクランクなどの主要なパーツは全てカーボンに置き換えた。重量的には二五四〇グラム軽くなっている。ちなみに脳波の受信機はボトムブラケット内に収めてある。バッテリーは内臓式にすると交換が面倒なのでボトムブラケットの下側に付けさせてもらった」
「ボトムブラ……何とかって何? 新しいブラジャー?」
ムードぶち壊しの質問は小梅ちゃんだ。あまつさえ自慢の巨乳を寄せて上げて谷間を強調してみせてと、明らかに無い乳派の私と芽依を挑発する行動に出ている。芽衣は気分がのっているところに水を差された上に、絶対に勝てない喧嘩を売られた格好になって一気に不機嫌になる。ちなみにボイスレコーダーのスイッチは入ったままになっていたらしく、小さく「ちっ」と舌打ちを入れて停止ボタンを押すのが見えた。
「ボトムブラケットとはクランクが取り付けられている軸の部分のことだ」
「えっ? じゃあ、クランクって……」
「それは(どうでも)良いんだけど、結局どういうことなのかしら?」
小梅ちゃんの質問を強引に上から被せて質問したのは綾乃先輩。彼女の胸あるアピールにうんざりしていたのは私達だけではなかったようだ。
他の二人の先輩も似たような感想だったらしく、みんな小梅ちゃんから見えないところでグッジョブと親指を立てる。
「シフト操作は一度のレースで何回も繰り返すものだ。余裕のある時ならいざ知らず、疲れて判断力が鈍ってくると、本来は体力を温存するためのシフト操作もストレスになってくるのだ。あんなストローク量の小さいレバーを押し込むだけでも、それが何百回にもなれば結構な負担になる。だから電動シフターが開発されたのだが、もう一歩踏み込んで機械側で選手の調子を読み取って変速出来れば、そのストレスは限りなくゼロに近づけられるだろう? そのためのサイコシフターなのだ」
「なるほどね。それにしても、よくこれだけの物を一週間で作れたもんだ。カーボンの成型技術なんてかなり大きな工場でないと難しいと思うんだけど?」
ルカ先輩の疑問はここに居る芽衣以外のみんなの総意だろう。同室の私だって彼女がこんな物をせっせと作っていたなんて知らなかったのだから。しかも、その完成度は試作品にもかかわらず、既製品以上の出来栄えなのだ。
「自転車のパーツは総じて小さい。パーツだけならな。自作のオートクレーブ窯はあっちでガラクタに埋もれているけど、一メートル四方のサイズで事足りる。基本的に私は授業には出ないから、空いた時間でカーボンを成型するなんて造作もない事だったよ」
もはや驚きすぎて言葉も出ない。普通、こういった最先端素材の試作品は、大企業の研究室が大掛かりな設備を利用して作るものだ。
博士号をいくつも持っているのだから、色々な面で相当凄いのだろうとは思っていたのだが、私達の想像の斜め上を行く超人っぷりだった。
ただ、やはりそういう天才にはネガの部分も存在するわけで、芽衣の場合は生活能力の欠如と他人の心情を酌めない事だ。生活面では料理はもとより、掃除や洗濯も一切できない。掃除をするなら掃除機を、洗濯するなら洗濯機を一から自力で組み立てて、その結果部屋がさらに散らかるという悪循環を生み出すのだ。どうせなら高性能な物をという気持ちはわからないでもないが、掃除や洗濯に業務用以上の高性能機を持ってこられても使いこなせなければガラクタと大差ない。周りのみんなには実害が及ばないから鷹揚でいられるが、同室の私にしてみれば、同じく生活能力の低いメグとの相乗効果でたまったものではない。初日からそんな様子だったので、それ以来掃除と洗濯は三人分まとめて私がやることにしたのだ。
それと、自分の欲望に忠実な部分も悪い方向でメグと同じだ。自分がこうだと思ったら、たとえそれが他人の迷惑になるとわかっていても迷いなく実行する。能力が高い分メグよりも質が悪い。おかげで私は、以前社会的な問題を巻き起こした宗教団体が、その信者に付けさせていたヘッドギアに似たような物を被らされている。テレビで見たそれよりもずっと出来が良い事は、この際なんの救いにもならない。
「まあ、市子にはいつも迷惑をかけているからな。少しくらいは私も役に立つところを見せないと格好がつかないだろう? そいつの開発には結構金がかかったが市子のためなら安いもんだ」
今まで色々と迷惑をかけられてきて、芽衣のことは血の通わない機械と思っていたけれど、彼女もやっぱり人並みに優しい心を持っていたのだ。これからはもう少し優しくしてあげよう。
だが、私のほんわかとした気分をぶち壊す輩がすぐそばに居た。ビアンカ先輩だ。
「で、本音は?」
「私の人体実……もとい、実地研究にも付き合ってくれているのだからな。しかもタダでだ! しかも被験者の都合は一切顧みなくてもよいのだからな。多少の出費など気にも留めんよ!」
「今、人体実験て言おうとしたよね? ね? なんか言えぇっ!」
脳内の寛容を司る配線が切れた私は、頭を覆っていたヘッドギアをむしり取ろうとしたが、芽衣とビアンカ先輩に取り押さえられる。
「落ち着け! 感情の起伏が激しいと正確なデータが取れないだろうが!」
「こんな面白い、いや有意義な実験を今更止めるなんてありえねぇダロ!」
頼むから誰か私の体を案じてくれ。
そんな私のまっとうな願いも空しく、室内の全員が何事も無かったかのように朝の練習の準備に取りかかる。
「今日は綾乃と小梅のポジションの見直しと市子の機材の動作確認があるから、練習強度は六割で行く」
ルカ先輩のその一声で私への人体実験は容認されることになった。
外を見やると重く暗い雲が立ち込め、私の先行きを暗示しているようだった。
突然だが、クラブハウスでの一日の流れは次の通りだ。
午前
四時半、起床
五時、朝の練習
七時、朝食
八時、登校
午後
三時半、下校~午後の練習
六時、夕食
七時、勉強
八時、入浴および自由時間
九時、就寝
学校の無い土日は、その分も練習に充てられる。
勉強時間が少ないのは、この学校の性質を如実に表している。
寸分の狂いもなく、毎日がこのように過ぎていく。
そう思っていたのだが、月曜日だけは例外で完全休養日として一切の練習が無い。その日だけは自分の家に帰っても良いことになっている。
話が逸れたが、今は朝の練習から戻ってきて朝食の時間。
結論から言うと私の頭を覆っていたヘッドギアは外されていた。
それどころか私は、みんなが朝食を食べているであろう食堂にすら居ない。
では、今どこに居て何をしているかというと、学校の保健室のベッドの上で腕と脚に包帯をまかれて横になっている。理由は突然降ってきた土砂降りの雨のおかげでヘッドギアの電極部分が漏電して、そのショックで体が硬直して落車したという、至って馬鹿馬鹿しいものだった。学校の保健室なのは、こちらの方が近所の病院よりも距離が近かったからで、決して後ろめたい人体実験を隠蔽するためではない。そう思いたい。
「安心しろ。骨が折れている様子は無いし、頭皮の電極が刺さっていた部分も焼けた形跡はない。傷口に入り込んだ泥や砂は一応ブラッシングで取り除いておいた。私が開発した人口皮膚を貼っておいたから傷跡がケロイド状になって残ることも無い」
「そうじゃないでしょ! 大体、あそこまで作り込んでおいて何で防水じゃないのよ?」
私は、私のけがを治療した、そしてその原因を作った芽衣に当たっていた。決して八つ当たりなんかでは無い。間違いなく私が被害者で、芽衣は加害者なのだから。
「無理を言うな。一週間では防水加工を施す時間が無かったのだ。まあ、見切り発車は低予算の実験では良くあることだ。気にするな」
「気にするわっ! っていうか、見切り発車で人体実験するなっ!」
私の怒声は早朝の人気の少ない、殺伐とした校舎の廊下の奥に吸い込まれていった。
その日、私は初めて学校の授業をサボった。