ステージ13
恵さん(一条さん)が倶楽部に入って三日が経った。
連日この狭い生活指導室で面接を行っているのだが、未だに恵さん以外の部員は入って来ていない。
どうも共同生活の部分が引っ掛かっていて尻込みしているようだ。顔が良いとはいえ、男子が二人も居るのだから無理もない話ではある。
「先輩、調理師とかって本当に必要なんですか? 普通の部活動でそこまでする所って滅多に無いと思うんですけど?」
思いきって琉珈先輩に聞いてみた。
「僕らが来るまでは、かなり乱れた食生活だったんじゃないかな? 部室でお菓子を食べていたのもそうだけど、三人とも朝食をまともに摂っていなかったよね。今も三食きちんと食べるように念を押しているだけで、君達がちゃんと朝御飯を食べて来ているか怪しいもんだと思っている。正しく管理された食生活はアスリートの体調管理の第一歩だからね」
残念ながら私も琉珈先輩も朝食を食べない派だ。私の場合は下手をすると夕食も作るのが面倒なので食べなかったりすることもある。朋ちゃん先輩はお家のご両親が忙しいので外食が多いらしい。
「自転車は極端にカロリーを消費する競技だ。二十キロ程度の距離ならカロリー消費も大したことはない。でも、一日で百キロ以上走ると、それだけで成人男性が一日に必要とするエネルギーでは足りない計算になるんだ。その日一日だけなら蓄えられているエネルギーを使い果たして誤魔化す事も出来るが、そんな状況が二日も続けば力が出なくなって倒れてしまう。そうならないようにするためにも三食きちんとした食事を摂る事は重要なんだ」
自分の足でも一日に十キロ以上歩いた事が無いのに、百キロなんて自転車でも無理な距離なんじゃないだろうか。
「それに、毎日厳しい練習を繰り返していれば、いくら普段の生活に気を使っていても、そのうち体を壊してしまうだろうね。朋子が陸上競技を続けられなくなったのもアキレス腱の断裂が原因だって聞いている」
私が綾乃先輩から聞かされた話では、朋ちゃん先輩は陸上の特待生として入学してきたのだが、故障のせいで続けられなくなったので綾乃先輩と二人で自転車倶楽部を立ち上げたとのことだった。朋ちゃん先輩いわく、自転車は足首への負担が軽いのだとか。
「練習の強度にもよるが、マッサージをすることで疲労からの回復が早くなるし、ある程度の故障も未然に防げるようになるんだ。幸いこの学校には面白そうな人材も結構居そうだし、運営資金も君達が心配する事は一切無い。だから、やるからには徹底的にやってやろうじゃないか!」
だが,どうせ旧校舎の改装が終わるまでは共同生活もへったくれも無いのだが。そう思っていたのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
「ゴールデンウィーク明けからは僕らも登校するから、それに合わせてお祖母様の家を仮のクラブハウスとして使う。今すぐシンジケートを立ち上げないと、今期内の初勝利も危ういからね」
シンジケートとはまた犯罪組織みたいだなと思っていると、ビアンカ先輩が私を見てニヤッと笑う。
「今、犯罪っぽいって思っタロ? 欧米では組織なら何でもシンジケートって言うのサ。でもなぁ、年頃の女の子を集めてひとつ屋根の下で暮らそうってんだから、ある意味犯罪だナ」
「あのね、僕は一言も僕が一緒に住むなんて言って無いんだけど?」
「でもさルカ、アンタとバアさんが面接してる時点で誰もそんな事思っちゃいねぇヨ! それにアタイはそんな事ゼンゼン気にしないし、アヤとメグも別に良いって言ってんダロ?」
いつの間にそんな話をしたのだろうか。少なくとも私の意見は聞かれてませんが。でも私は別にどちらでも構わないと思っている。取り敢えずあの寒々としたアパートの一室から出られるのなら、それでも一向に構わないのだ。
だが、琉珈先輩は違うらしい。
「嫁入り前の娘と一緒に住めるわけないだろうが!」
「何言ってやがル? 若い男女の同棲なんてフランスじゃ良くある話ダロ? 結婚前の味見なんて当たり前にするじゃねぇカ! 大体アンタ、日本にゃ嫁を探しに来たんじゃねぇのカ?」
「女の子が味見言うな! それに僕にはそんな下心なんて無い! 大体僕がこっちに来たのだって、お祖母様に頼まれたからだよ」
ビアンカ先輩の明け透け過ぎる告白にムキになって言い返す琉珈先輩だが、どうにも旗色が悪い。
「そのバアさんがアンタの嫁探しに一番乗り気なんだろうガ! 今回の助っ人の件だって建前に過ぎないって事ぐらいアンタもわかってんダロ! アンタのママンにそう聞いたからアタイも付いてきたんだヨ」
「ビアン、お前もう帰れよ!」
「ヤダ! アタイだってアンタの童貞狙ってんだからネ!」
「童貞言うな! 大体僕と付き合うつもりなら、その下品な言葉遣いをどうにかしろ。少しは伯爵家のお姫様らしく上品に喋ってみたらどうなんだ? まあ、無理だと思うけどね」
顔を真っ赤にして叫んだ琉珈先輩が「フン」と鼻を鳴らしてやり返す。
だが、私達はビアンカ先輩のスペックを甘く見積もっていた。
「ルカ様、実際のところルカ様は未成年ですから独りで暮らそうにも、アパートを借りるにせよ何にせよ保護者の許可が必要になります。この場合の保護者とはルカ様のお祖母様にあたる翠様になりますが、万が一にも、あの方が首を縦に振るようなことは御座いませんし、わたくしの方でもそのように全力を以てして手を尽くしますので、いい加減にお諦め下さいませ」
私も琉珈先輩も、ビアンカ先輩の豹変振りに目が点になっていて、声すらも失っていた。
『やれば出来るんじゃないか!』
それが私達の共通認識だったのだが、それだけで終わらなかったのがビアンカ先輩の凄いところでもあり悪い部分でもある。
「ですが、わたくしも先程は少々言葉が過ぎたと反省致して居りますが、ルカ様の言動を鑑みますと、やはりわたくしが心配致しました通り、童貞であらせられましたのですね。でも、ご心配には及びませんわ。わたくし供が誠心誠意調教して差し上げて、そんじょそこらのAV男優なぞ歯牙にも掛けない立派な竿師に育ててご覧にいれますわ。です。から安心して同棲なさって下さいませ」
琉珈先輩の要求通りの丁寧な言葉遣いだったが、内容の下品さには更に磨きがかかっていた。
周りには綾乃先輩と恵さんも居合わせたのだが、彼女らは頬を赤らめて両手で口を塞ぎ俯いていたが、決して恥ずかしがっているわけではなく笑いを堪えていたのだ。
ようやく、からかわれたと解った琉珈先輩は「付き合ってられない」とドアを乱暴に閉めて立ち去ってしまう。
「男ってのは馬鹿で単純でからかい甲斐があっておもしろいネ」
「でも、そう言うビアンカ先輩も処女ですよね」
あんまりな言われ様が可哀想だったので、琉珈先輩の代わりに言い返す。
「当たり前ダロ。伯爵家の姫たるアタイが、そんな簡単にどこの馬の骨ともわからんヤツとセックス出来るわけねえダロ。それにさ、アタイはこれでも乙女チックなんダ。始めての相手ホントに好きになった王子様とするって決めてんだヨ」
その言葉遣いで乙女チックとか言われても信憑性に欠けるのだが。私達三人がジト目で睨んでみてもどこ吹く風と余裕の表情だ。
「まあ、どうせレオの奴も童貞に決まってんだから、アイツら二人とでひと部屋に放り込んで、ドアの外側から鍵かけときゃアタイらの貞操も守れるってもんさネ」
「では、最低でも二つは外側から鍵のかかる部屋が必要ですね」
今まで黙っていた綾乃先輩が口を開く。
「アイツらの部屋を別けるってこと?」
「いいえ、男子二人とビアンカさんのお部屋の分です。ビアンカさんの言い分ですと琉珈さんにも貞操の危機が迫ってると言えますからね」
「じゃあアヤの部屋も外鍵にしとかないとネ」
肉食系の笑みを湛えて睨み合う二人の先輩。
ガールズトークってこんなギスギスしたものだったかしらとオロオロしていると、恵さんが更に爆弾を落とす。
「まあっ、お二人も琉珈先輩狙いなんですね!」
『おい!、「も」って何だ「も」って!』
頼むからこれ以上話をこじらせるなとの願いもむなしく、敏感に反応した上級生が矛先を新たな標的に向ける。
「あら、鍵をもうひとつ増やさないといけないようですね?」
「それは綾乃先輩の分で御座いますね」
「イッチーの分も入れると、あとふたつだネ」
成り行きを見守っていたら、いつの間にか私も不毛な争いの一部に組み込まれていた。
三者三様の黒いオーラが渦巻く中、全員のドアに鍵を付けたとき、誰が最後の鍵を掛けるのだろうと、無意味なことを考えながら「誰か面接に来ないかな?」と意識を未だ言い争い続ける三人から切り離した。
そして世間がゴールデンウィークに入って浮かれ出した最初の休日。
私と綾乃先輩の自転車が組上がった。
綾乃先輩の自転車は全体的に黒いカーボン製のフレームで所々にピンクの差し色が入ったお洒落な感じに仕上がっている。
一方、私の自転車は赤白青のトリコロールカラーの細い金属製(クロモリと言うらしい)のフレームで、繋ぎ目の部分をラグと呼ばれる銀色の金具で装飾されていた。
「払った金額はアーヤの方が上だけど、実際の価値でいったらイッチーの方が倍はするんじゃね?」
一週間経って私がレオ先輩と呼ぶようになった彼の評価は私の想像を遥かに越えていた。それを裏付けるようにビアンカ先輩が続く。
「付いてるコンポはグレードが低いけど、フレームはイタリアの職人の一品物で履歴もしっかりしてるから、わかってる人が見れば結構な値段が付くだろうネ」
コンポとは駆動系一式の事で、大概はメーカの名前で呼ぶのが通例になっているらしい。
見るからに使い込まれた感が漂うフレームは、そこかしこに小さな傷ついていて、あのスコット君を彷彿とさせる物がある。
ちなみに、そのスコット君もパーツの交換で生き永らえる事が決定していた。
「大丈夫だ。見てくれは少々悪いが性能的には何ら問題は無い。だから、そろそろ初めようか。時間が勿体無いからな」
私達は、私と綾乃先輩の出来上がった自転車を品評するために学校のグラウンドに集まった訳ではなく、これから自分達の自転車を使って、自転車に乗る練習をするのだ。何だか混乱するような表現だが、実のところ、私も綾乃先輩も非常に戸惑っているのだ。その理由は私達が着ているピチピチのサイクルジャージのせいでもなければ、被った時にキノコのように見えるヘルメットのせいでもない。
その困惑の原因はひとえに組上がったばかりの私達二人の自転車にあった。
「ごめんなさい、わたくし達の自転車、サドルが付いて無いんですけど、本当にこれで練習するんですか?」
「そうだよ、間違いじゃないから安心してくれ」
綾乃先輩のもっともな疑問に、あっさり返すレオ先輩。
「自転車の部品で無くても乗れるのが実はサドルなんだ。よく勘違いする人がいるけど、自転車に乗ってる時は手と足の四点でバランスをとっている訳で、決してハンドルだけでコントロールしている訳じゃないんだ」
「じゃあ今から僕が手本を見せるけど、その前に何をするかだけ説明するから、良く聞いていて欲しい」
そう言ってハンドルを掴み、片脚を後ろに大きく振り上げて自分の自転車に跨がる琉珈先輩。両足は地面に着いた状態だ。
「この様に両足を地面に着けて立っている状態を待機姿勢って言うんだけど、一番基本になる姿勢だから覚えておいて欲しい。それから止まっている時は必ずブレーキればーに指を掛けておくように。そうしないと坂では自転車が勝手に動いてコントロール出来ないからね。じゃあ、ここまでやってみて! レオ、ビアン、二人をサポートしてくれ」
跨がるときに脚が上手く上がらなかったが、前に回り込んで一緒にハンドルを支えているレオ先輩の「恥ずかしいと思わないで、カッコ良く脚を蹴りあげるんだ」のアドバイスで何とか待機姿勢をとれた。その後、ひとりで出来るようになるまで数回繰り返す。
「うん、上手く出来るようになったね。じゃあ、次は右足だけペダルに乗せてみて。ちなみにペダルは一番下にしておいて」
レオ先輩がペダルを逆転させて右側を下にしたところに右足を乗せる。隣を見ると綾乃先輩がビアンカ先輩の補助で同じようにペダルに足をかけていた。
「それじゃあ今度は、その状態から左足で地面を蹴って真っ直ぐ前へ移動してみよう。それで蹴り出す前にブレーキレバーから指を離すのを忘れないように。そして惰性で行けるところまで行ったらゆっくり左足を着いて止まるんだ。余裕があればブレーキも使ってみて。じゃあ、先ずは僕がやってみるね」
琉珈先輩は左足を勢い良く蹴って前に進み、十メートルほど行った所で左足を引き摺るように着いて止まった。一連の動きがスムーズでとても優雅に見える。
そして私達の番になるのだが、琉珈先輩と違うのは、前方のちょっと離れた所にレオ先輩とビアンカ先輩が待ち構えていて、そこを目掛けて進むのだ。最初は三メートル位の距離から始めて数回距離を伸ばしながらやると、いつの間にか私達の我流の練習では、どうやっても届かなかった十五メートルを越えていた。しかも今のところ一度も転んでいない。
「次は、スタートしたら左足もペダルに乗せるんだ。そう、今度はペダルの上に立ち上がってバランスをとってもらう。そのためにはペダルを水平にしないと上手く立てないし、バランスもとり辛い。それから止まる時は今までと同じように左足を地面に着けるように」
琉珈先輩のデモンストレーションは相変わらず流れるような動きで、惚れ惚れするほど美しい。私のぎくしゃくした乗り方とは大違いだ。
「コツは、なるべく遠くを見る事とスピードを出す事だ。遠くを見ていればハンドルはふらつかないし、スピードが出ていれば自転車は安定する。頑張ろう! これが出来るようになれば、自転車に乗れるようになったも同然なんだからな!」
本当か? そう思うのだが、上手くいく度に先輩達に誉められると「私はやればできる子なんだ」と根拠の無い自信が湧いてくるのだった。
三時間後。
それぞれのサドルを自分達の自転車に戻した私と綾乃先輩は、学校の敷地の周辺を琉珈先輩の先導で走っていた。私の後ろはレオ先輩が、綾乃先輩の後ろにはビアンカ先輩がそれぞれ連なっていて、琉珈先輩の手信号を伝言ゲームよろしく後ろに伝えながら走っていく。右を指せば右へ、左を指せば左へ。掌を背中で見せれば止まれといった具合だ。ついでに「右」や「左」の掛け声も同時に行う。
「バイクコントロールはすべて体重移動で行うんだ。加速も減速もそうだし、左右へ曲がるのもハンドルで曲がるんじゃなくて体ごと自転車を傾けて曲がるんだ。それと行きたい方向を見るんだ。そうすれば君達のバイクはそっちの方向に自然に曲がってくれる」
不思議な事に自転車は視線を向けた方向に曲がって行こうとするのだ。コツは力を入れずにハンドルを握ることなんだとか。
すでに三十分ほど走っているだろうか。
私も綾乃先輩も上から下まで「極めた格好」で車列に混ざっていれば、私達が乗り始めて数時間の初心者だとは誰も思わないだろう。
それくらい自然に乗りこなせるようになっていた。
風を斬って走る感覚や押し寄せる空気の壁とその匂い。そして生まれて初めて経験する圧倒的なスピードは、これから始まる新たな冒険を予感させて私の胸を激しく高鳴らせる。
だがそれは決して錯覚なんかではなかったようで、日頃からの運動不足が祟った私の心臓が悲鳴を上げただけの話だったようだ。
「おい、イッチー、何か様子がおかしいけど大丈夫か?」
レオ先輩が心配してくれるのはありがたいのだが勿論大丈夫な訳もなく、息苦しくなって隊列を離れてしまった私は、そのまま学校の保健室に引き摺られて行ったのだった。
間が開いてしまい申し訳ございませんでした。
前半部の執筆で三日も掛かってしまったのが敗因です。
キャラが勝手に暴れだしてR15どころかノクターンレベルに突入しそうな勢いだったので、抑えるのが大変でした。
今後とも頑張って投稿して参りますので、お見捨て無きようお願い申し上げます。