4 特務任命将校 (1)
リビングに佇む長身と横顔だけで、舞は男の嘘を悟った。
「兄さんと狩野さんに、飲み物を出してもらえますか?」
下手な人払いする舞に、何も尋ねずハウス・マザーは立ち去った。心許無く、ゆっくりと遠のく背中を見送って、舞は素早く男を振り返った。驚きの方が勝っていて、言葉はすぐには出ない。
「紫月に用がある。案内しろ」
厳しく投げ出すような口調。彼の最も強い意思表示だ。
「どうして……。……困ります。明日なら……」
「今すぐにだ。私が来たと教えてやれ。すぐに飛んでくる」
舞は頭を振った。男が言う通り。兄の耳に入ったら、誰が止めても間違いなくここに来る。高熱に晒され弱った身体でも。
「今日は帰って下さい。お話しなら改めて……」
「時間が無い」
男が向き直った。鋭いアメジスト・ブルーの瞳が舞を射抜く。
真っ直ぐに歩み寄ってくる。凍て付いた視線に動けない舞。腕を掴まれる。顔色を変え駆け寄るボーイを、舞は制した。
「この人に抵抗してはだめ……! 私は大丈夫です」
肩をすくませながら、舞は男を見上げ続ける。彼女は、男の戦闘能力の高さをよく知っている。ボーイの手には負えないと。
「……来たようだな。安心しろ。私にも殴り合う余裕はない」
無感動に、舞の腕を放す男を、彼女は不安な目で見守るしかなかった。不規則な足音が、先を急ぎ近付いていた。
「銀髪長身の態度のデカイ客なら、あいつしか居ないだろう?!」
毛布を撥ね退ける。狩野は制止しても無駄と悟ったのだろう、引き止めもしない。渋々に、肩を貸してくれる。たった一晩寝込んだだけなのに、立ち上がっただけでも吐き気が込み上げた。
「どうしてお前がここに……!!」
大声を出したら、肺の中の空気がゼロになった。息が詰まり咳き込む。舞が狩野の反対側から支え、背中をさする。
「この別荘の主人の要請だ」
「本当ですか?」
「……いいえ、私はサリム様からは何も聞いておりません」
毅然とした態度で、ハウス・マザーは告げた。
「こういうことだ。おとなしく出て行ってもらおうか?
今はあんたと仲良くしたい気分じゃないんだ」
「……。こちらも、喜んで出向いたつもりはない。
あなたも、主人の代理と思って従ってほしい。緊急事態だ」
向けられた青紫の瞳に、メギナは戸惑い紫月を伺った。少なくとも、男の瞳に嘘は無いと見たのだろう。
「舞。部屋に戻っていろ」
「その必要はない」
キッと振り返り、紫月は男に人差し指を突き付けた。
「いいか! お前には指一本触れさせないからな!」
「兄さん、落ち着いて……」
胸にしがみつく舞。狩野は黙って紫月を見ている。狩野の冷静さが、紫月の理性を引き戻してくれる。逆に庇い合う兄妹へ、辟易とした顔をする銀髪長身の男の態度が、怒りを再燃させる。奴はこちらも見ずに、ソファを指差した。
「今日の目的はお前だ。舞。兄貴が大事なら、そこに座らせてやれ。今、倒れられるのは困る」
「僕が……?」
頬が、熱くなる。……連想したのは、昨日の悪夢。
「兄さんは今、体調が悪いんです。今日はよして下さい」
舞の声に、紫月は我に返った。冷えた頭で男を見返す。
……なぜ正規軍の将校服を着ているんだ? メギナは特務任命将校だと言ったが、こいつが?
この男は『Z』だ。奴の、もう一つの偽りの姿か?
「時間が無いと言っている。口をはさむな」
「いいえ。帰って下さい。お願いですから」
「口うるさい子供だ。黙っていろ。
でないと俺がつまみ出すぞ……?」
声を荒げたわけでもないのに、全身から発せられる気迫に、向けられた舞も、紫月でさえも怯んだ。
舞は唇を噛み締め、紫月の腕に頬を押し当てうつむく。紫月は舞の肩に腕を回してやった。
……なぜだ? これが好きな女に対する態度か?
紫月は、強い疑問と違和感を感じた。
『Z』には思いやりの欠片もなく、苛立ちを隠しもしない。
多少気のある女に、こんな言い方をするような男なのか?
僕の元から勝手に連れ出すほど、何度も命を救うほど執心している理由はなんだ? 愛情ではなかったということか?
自分の仕事に関しては、どんな女にも干渉されたくないタイプというだけか? ……こんなに舞を怯えさせて、この子の痛みに無関心な顔をして。この男に人間らしい感情は無いのか?
「舞? 心配しなくていい。僕はまだ大丈夫だ」
「嫌よ……! 兄さん、昨日から様子がおかしいわ。
疲れているのよ。そうでなかったら……」
「ボス? まず、座って下さい」
狩野の意見に抵抗することは出来ない。実際、紫月の体力は限界に近かった。ソファに身体を預けた紫月の額に手を押し当て、狩野は舞に大丈夫だとうなずいた。
「覚えてはいないのでしょうが、熱に浮かされた中で、あなたは彼女を遠ざけた。傷付いているんですよ」
「……そうじゃありません。狩野さん、言わないで」
「すまない、舞。覚えているよ。だが、強く傷つけていたことには気付かなかった。……君のせいじゃないんだ」
「家族の時間は、もうそこまででよかろう?」
口を挟んだのは『Z』。紫月は背を伸ばし見返した。
「その前に答えろ。今のお前の身分は何だ? どんな偽名を使っている。国防相とは、どういう関係だ? 彼に何をした?!」
「エミル・サリムは、今のところ無事だ」
「今のところ?」
『Z』は丸テーブルを挟んだ、一人掛けのソファにかけた。カーキ色の国軍の制服。磨き上げられた半長靴。似合いすぎだ。
「この国には、軍事コーディネーターとして招かれた。五日前だ。正規軍の一部隊への教育訓練が目的。期間は二週間」
「……そんな短期間で。何を教えているんですか?」
尋ねる狩野に薄く笑った。
「それは極秘だ。だが状況が変わった。
お前の部下たちは、この島に何人来ている?」
「は?」
再び、アメジストの注視を受けて、紫月は目を見張った。
「元少佐殿まで居たとは心強いな。
FISの中枢機能を維持するため、ボス代行として離れているものと考えていた。少佐一人で、一個小隊分の能力がある。他の人間は遠ざけても、離れなれないわけか」
「FISに就職なさりたいのでしたら、二、三日、お待ちいただければ、人事の担当者を呼びますが?」
『Z』は低く笑った。紫月は、狩野の冗談だと分かっていても、表情を険しくした。土下座されても、それだけは断る。
「その逆だ。俺がお前たちを雇う。支払いはインドネシア政府」
告げられた衝撃に、紫月は耳を疑った。狩野も同じく、呆然と『Z』を見ている。
「依頼したのは国防相か? なぜ彼はお前を通す? 直接、依頼すればいい。極秘でなら丁度いい、僕はここに居るんだ」
「奴にはできないからだ。お前たちがここに滞在していることも、政府高官の誰も知らない。その上、私に任せなければならない理由がある」
「それは?」
「……腕があるからに決まっている」
そっけなく答える『Z』に、紫月は拳を握り締めた。
「! お前はここに自慢に来たのかっ!!」
顎を引き『Z』は両手を組み合わせ小首を傾げる。
「協力できないと?」
「何をさせるつもりだ。僕は部下に人殺しの手伝いをさせるつもりは……!」
「動かなければ、もっと多く死ぬ」
冷淡に、天気のことでも話すように『Z』は言った。
紫月は息を詰めた。彼の膝に手を置いて、足元で寄り添う舞も、悲劇の予感に顔を上げた。
「……本気で戦争を始める気か?」
「ゲリラ戦だ。一番厄介で、最も効果的な」
「お前の本性はそれか? 戦争屋?」
奴のプライドには何の痛みもなかったらしい。相変わらず自信に満ちた、人を食うような薄い笑み。
「使える傭兵を集めている時間はない。訓練無しで動けるといったら、お前の部下以外この国にはない」
正規軍の一部への教育訓練。たぶん特殊部隊だろう。軍の精鋭部隊を相手にしていて、使えないと判断した。
「そんなにマズイのか? ここの兵隊は……?」
「問題外だ。国軍の正規軍でさえザル同然だ。私でなくとも、この別荘など簡単に侵入できる。三分で占拠可能だな。
……安全だと思っていたのか?」
紫月は口を噤んだ。嫌味ではなく、事実を述べているだけの口調だというのに、何も返せない。
「あぶなっかしいので、お前の秘書は朝早く、駆けつけてきたんじゃないのか?」
上目遣いで、狩野を見上げる。狩野は表情一つ変えない。
「言っておくが、今の私はサンスワン・ダムの警備責任者でもある」
サンスワン・ダム。聞いた覚えがある。極最近に。
「どうして……」
「決まっている。カモフラージュだ」
「そこが、狙われていると……?」
「直接依頼できない理由は、お前が日本人だからだ。敵は恐らく反日勢力の振りをする。奴等を叩く相手に政府高官が日本人を選んだとあっては、後々、インドネシアの国内世論が黙っていない。
第一、サンスワン・ダムは日本の悪名高いODA、政府開発援助によって造られた。それも唯一にして最後の成功例だ。
他のダムや計画は環境破壊や住民移転問題、資金不足からの建設中止。どれもがインドネシア国土を混乱させ、内乱の火薬庫になっている。……お前たち日本人には、初耳だろうがな」
これにも返す言葉はない。日本とは無縁な生活が二年間続いたとはいえ、それ以前からも語られてきた国際問題であった。莫大な金額の無策な援助が、この国を腐らせてきた。数年前の政変も、きっかけは行政中枢の腐敗だった。