2 スコールの悪戯 (2)
……こんなつもりじゃない。これじゃ、追い詰めるだけだ。
だがどうしてだ……? なんで、あんな男のために。兄貴だぞ、僕は。その僕を避け、あんなに頬を赤くして……!
道を引き返すことも、そのまま袋小路のテラスに向かうことも、舞はどちらも選べなかった。背を向けたまま、立ち尽くす。
痛々しかった。これ以上、追い詰めてはいけないと、紫月は内心で繰り返す。だがもう一人の自分は、ひどく憤っていた。
……彼女はもう十五歳だ。平均的に見ても年頃だ。恋の一つや二つ、するのは当然だ。それくらい女性らしくあってほしい、普通の少女としてなら。だが相手にもよる。ああ、僕だって承知しているさ。普通の少女たちと違って、彼女は今、学校に通っているわけではない。同じ年頃の友人たち、先輩後輩。学校生活でならありがちな、上級生へのときめきなどとは無縁だ。それもあまり歓迎したくはないな。僕の目の届かない『学校』という密室で、どんなきっかけがあるのかと思うと……。
彼女の周りは年上ばかりだ。大半は『FIS』の社員。一癖も二癖もある。若くて僕ぐらい。ほとんどが男ざかりの三十代。
そのくらいが、この職種としては一般的だ。だからって三十男に慣れていいというわけじゃない。気を許せとは。第一、FISのメンバーは誰一人として、あんな真似はしない。は……、ボスである僕の目が怖いんだろう。それはわかってる。奴のような真似をしたら、僕は理性を失う。……この通りに。
だがいつまでも彼女は子供じゃないんだ。それは覚悟しなければならないと思ってきた。年々、彼女は変化して、亡くなった母親に似てきた。あんなふうに誰かを選んで、幸せな家庭を造るのだろう。短い間だったが、彼女の母親は幸せそうだった。
……先妻の息子は、やや反抗的ではあったが……。
彼女が選ぶ男は、僕以外の誰かだ。……誰であっても、僕はそいつを憎むんだろう。父が生きていたら、聞いてみたいものだ。
あの人も、心底、娘を愛してきた。世の父親たちは、娘を嫁がせる時、強い葛藤を感じるのだと聞いた。長生きをしてくれて、あの頑固な親父のそんな姿を見てみたかった気がする。そうしたら、この苦しみも半減したかもしれない。
もう一度恨む。勝手に先に逝き、僕に全てを背負わせた男。
彼女を僕の妹として導いてくれた、もっとも憎むべき父親。
……何を考えてる? 僕は不謹慎だ。舞は妹だ。半分、同じ血が流れて。僕以外、彼女を庇い守れる人間は居ないのに。
ああ、そうだ……。彼女に相応しい男のことだ。
いや。まだ早過ぎる。恋だの愛だの、早過ぎるんだ……!
それに。奴はダメだ。絶対に。それ以外なら許せる余地は探せばあるだろう。あの男だけは。……得体が知れない。
舞自身、あの男の前ではわずかに身構え、すべてを許してはいないのに。どうして僕に隠れて逢ったりするんだ!?
こんな時にまで。……あんな……。
「舞? 誰かと付き合うなとは言ってないよ。わかってくれるだろう? だがあいつだけはよせ」
声を和らげ、紫月はゆっくりと近付いた。
「……わかっているわ……」
ようやく向いた横顔は、頬を堅くし、小さく呟いた。
だが紫月には、耳を傾けてくれたというだけで満足だった。
「そうか。僕の気持ちをわかってくれるんだね。
次にあんな真似をされたら、足を踏むんだ。それでも諦めなければ……、うん、ああいう相手は力ずくでも、というタイプだからな。諦めも悪い。一番いいのは、近付かないことだ」
「お兄さん?」
くるりと紫月に向き直った舞は、丁寧に呼びかけてくる。
「兄さんは誤解しているわ。あの人は悪い人じゃないわ。忘れたの? 私は何度も命を助けてもらっているのよ?」
一転した強い口調に、紫月は虚を突かれて怯んだ。
「それとこれとは、話しが違う。
あいつはお前に近付くために、恩人面しているんだぞ」
「そんなことありません」
きっぱりと言い切る。紫月は畳み掛ける。
「第一、いまだに本名も知らない。何者なのかもだ」
「名前なんて関係ないわ」
本心から、彼女はそっけなく返す。
……ま、舞……。あんな奴に、本気なのか……。
紫月は激しく、内心で動揺した。眩暈さえ覚える。ありとあらゆる状況の、目にもしたくない奴と二人きりの光景が、ドッと押し寄せてくる。
「名前は、第三者に伝えるために必要な記号のようなものよ。
一対一なら、あなたと私で足りるわ。今がそうよ。兄さんと私。あなたと私で、済んでしまうじゃない」
数字の簡単な計算式を説明するような、舞の口調。それが紫月の勘に触った。
「あなたと私ではなく、兄と妹だ。雪村という家の」
「……兄さんは、誤解しているのよ。あの人のことを悪く言うのは……。悪く言う兄さんを見ているのは、悲しいわ」
足元を見つめ、肩を落とす姿は、紫月がよく知っている、頼りなく優しい妹に戻っていた。彼女は、この優しさに付け込まれているだけなのだ。
「僕は心配なんだよ。
君が悪い男に騙されて、傷付いてしまわないように」
「あの人は違うわ。兄さんが思うようなひどい人じゃない。
今だって、私が少し……抵抗したら、すぐに放してくれたわ」
薄く頬を赤らめる舞。それが紫月に思い起させる。衝動的な光景を。胸を抉られ、理性を失いそうだった。
「そんなことは問題じゃない!? どうしてわかってくれない……!」
……あの野郎。あんな真似をして、一体どういうつもりだ……!? 僕の妹にこんな想いをさせて、何が目的なんだ……!!
あいつなら、なびく女は浴びるほど居るだろうに。実際、奴が女連れの場合は、間違いなく掛け値無しの美女だ。それでどうして、舞にまとわりつく……!? 狙いはなんだ……!!
「私は平気よ。傷ついたりしない……。
兄さんは本当に、私のことをわかっていないわ」
平気と呟いた頬は、一転して静かな表情に変わった。
「? 何を言っているんだ、舞?」
思い詰めたように彼女は唇を引き締める。
紫月は目を見張った。冷水を浴びたように、急激に頭が冷える。スコールを浴びた身体も震えはじめた。
「舞? 僕は……」
この上なく優しい目で、彼女が振り返ってくる。
「わかっているわ。兄さんが、誰よりも気にかけてくれていること。
でも仕方ないわ。兄妹だけど、性が違うんですもの。
分かり合うなんて、とても難しいわ……」
ふいっと背を向けて、舞はテラスへと歩き出す。
「そんなことはない。いつも側に居たじゃないか?」
「私だって、お兄さんのこと、知らない部分が沢山あるわ」
一人決めして、紫月の言葉を聞こうとしない舞に困惑した。
「……哲学的だね」
舞の後に続き東屋の中に入る。テーブルには、氷が溶けきった彼のコーヒー・グラス。グラスの底に沈んだコーヒー色と、上澄みのように透明な水の色。手を延ばし乱してしまいたくなる。ほんの小さな振動だけで、焦げ茶色に染まるだろうに。
「私はもう大人なんだもの、お互いに知らない部分を埋めていってもいいと思うの。いつまでも、子供じゃいられないから」
何のことかわからず、紫月は向かい合う舞を見返すしかない。
舞は、少し思案してから寝椅子を示した。
「ここに座って。そうしたら丁度いいわ」
いつもとは違う妹の様子に及び腰であった紫月は、言われるまま腰を下ろした。傍らの舞を見上げようとした紫月の動きへ、計ったように素早く、少女の細い指が彼の頬を包んだ。
「な……?」
覆い被さった少女の影。接近する紅い唇は、視界から消えた。
……柔らかい感触が彼の唇に触れた。すぐに遠のく。
「! 舞っ??」
……な……、何が……。何で……。キ……。
「私がそうしたいって、思ったの」
一歩身を引いた少女は、後ろ手に両手を握り合わせ、悪戯っぽく口元で笑った。
「……そ、そんな言葉を君から聞くなんて……」
後の言葉は続かない。全身が腑抜けになったようで、紫月は椅子の背に持たれた。
「あの人にも、そうよ。それでもいいって思ったから、抵抗しなかったの。同じだわ」
……それでもイイだと……? 何が、バカな……。
「これで一緒よ。もう、焼きもちを焼かないでね?」
軽い足取りで、あとずさり遠のいてゆく妹。長い黒髪を揺らし小首を傾げる仕種は、……その一瞬だけ、残酷な悪戯好きの可愛らしい魔物に見えた。
魅惑を振りまき、理性を吹き飛ばす、天女か……。
「……。ハ……」
自分を笑ってみる。十以上も年の離れた、妹に翻弄される自分。
……嫉妬だ。僕のあの銀髪野郎に嫉妬していた……。
雨の中での、激しい胸の焼け付きの正体。
両目を手で覆う。なぜか指先が震えている。寒気のせいだと決め付ける。胸の奥は熱いのに。その熱さの理由も同じ。
「バカな男だ。僕は……。妹相手に何を考えている」
だけど。……今は、この一瞬だけは認めよう。
「……僕は、世界一幸せな兄貴だ。間違いなく……」
目を閉じて、一人幸福に浸り切ろうと、プライドを投げ出した。ここには誰も居ないから。邪魔をする、誰も。
最愛の妹からのキス。これ以上の幸福はない。
『これで一緒よ』
思い起こした一言が、ひやりと水を刺した。
……どういう意味だ……? 一緒……?
「……あいつ、か?」
妹から奪った男。軽い一瞬。無抵抗な少女。紅い唇。
同じ紅い唇が、紫月と重なった。……重なった?
「! ……嘘だろ……、偶然だろ……?」
……まさか……。
全身が総毛立つ。悪寒が激しくなる。頬の筋肉までが震えて、笑いたくもないのに、笑い出してしまいそうになる。
「わざとじゃないよな……。……そこまで……考えた……?」
……舞? 今のキスは、わざとじゃないだろ……?!
眩暈が激しい渦を巻き、彼は奈落の闇へと吸い込まれていった。
罪深い者に相応しい、凍った暗闇へ。