2 スコールの悪戯 (1)
予告通りに振り出した雨。日本の降雨とは勢いがまるで違う。
渡り歩いたどの国の降り方とも異なる。実際、亜熱帯気候の国に出向いた経験が、紫月にはほとんどなかった。
静かな空から、突然、激しく落ちてきた。楽園ののどかさのツケを払うように、大きな雨粒が幅広の葉を打ち据える。絶え間なく聞こえた潮騒も、かき消されていった。
海岸へ降りるスロープも、雨の染みに覆われてゆく。
傘を持たなかったことを後悔した。編み込みの緩いサマーセーターが、雨を素通しする。体感気温が下がってゆく。
スロープが切れると、椰子や南洋植物の間を縫う、細く踏み固められた小道に変わった。泥水が傾斜した山肌から流れ込み細い川になる。遮る草を掻き分け進むと、海が見えてくる。雨に乱されながら、泥水を含んだ波頭がゆったりと打ち付けていた。点在する椰子の木。完全に浜辺へ出る前に、彼の足は止まった。
彼女が居た。肩を覆う長い黒髪をもつ少女。
傍らにもう一人。長身が幅広の背中を向けている。
最も、見たくなかった光景。
思考が停止する。呆然と立ち尽くした。
革のサンダルをはいた足元が、跳ね上がる砂混じりの泥と詰めたい雨粒に打たれ重くぬかるんでゆく。
そのまま南国の大地に掴み取られたように、動けなかった。
これがスコールの悪戯のせいだと、すり替えたくはない。
太い幹をもつ高さ三メートルに届かない低い椰子の葉影。雨を避けるつもりで駆け込んだだろう二人。
……否。そうじゃない。
駆け込んだのは一人。続いて一人。
突然の雨に止む無くと、偶然を装った邂逅。そう信じたい。
見た限りの年齢は三十代前半。少女の倍は生きているだろう、世事に長けた男の罠だ。この男なら、やりかねない。
今まで何度となく裏をかかれた。風のようにたやすく妹を連れ出して……手なづけた。人の善意を信じ続ける、無防備な少女の隙が、こんな場面を作ったのだ。
先に木陰に走りこんだのは少女の方だろう。長い黒髪や白い木綿のワンピースの肩口が少し濡れ、肌に張り付いている。
その細い肩を軽く掴む大きな手。長い指先は職業的歪みもなくきれいなものだった。あらゆる兵器、銃器類を苦もなく、同じ手で扱ってみせる、血の通った凶器のような男だというのに。
……離れろ……。舞……?
祈りが通じたかのように、少女の肩がすくむ。だがそこまでだった。背後には堅い椰子の幹。彼女の背中を抱き留めるように、わずかに湾曲したがっしりとした椰子。
雨が、髪から襟足を伝って紫月の胸を滑り落ちてゆく。スコールは止まない。彼女は、濡れることはない。
百九十センチはある長身が、彼女の傘になっている。上体を屈め、左手で少女の肩を、右手は必要以上に彼女の触れない為にか、椰子の幹に腕を付いて。
近すぎる距離は、十分に必要以上だ。
紫月の胸が焼けてゆく。少女は戸惑うように瞼を伏せる。
『……寒いのか? じきに止む』
男の低い呟き。雨を含んだ肩までの銀髪が、頭の動きに合わせ振り上げられる。常に他人を憎むように鋭い光を滲ませる紫色の瞳が露になり、今は雨を厭いものうげに細く閃く。
うなだれて少女を見下ろす横顔を、再び落ちた髪が隠す。
『いいえ……。濡れるわ。あなたが……』
彼女の声は震えているらしく、ひどく遠い。
『……そうだな』
スコールは、銀髪の男の濃いマリンブルーのシャツを藍色に変えていた。止みかけてはいる。鮮やかなシャツの色とそぐわない、カーキ色の折り目のついたズボン。黒光りする半長靴。
……今度は何に変装して、ここに潜り込んだ?!
紫月は額を伝い鼻先からしたたる雨を、振り払うことも忘れた。理性を掻き集める。まず泥水に埋もれかける両足を抜き出さなければならない。サンダルなど脱ぎ捨てても構わない。
……離れろ。僕の妹から……!
取り返す。彼女を庇う傘は、自分が一番相応しい。唯一の肉親で、彼女の兄。素性も名前もわからない、どんなに調査をしても洗えない謎に満ちた男は、無垢な彼女には危険すぎる。
少女が男を見上げる。黒い眼差しに何が映ったのか、紫月が目を凝らす前に。男の濡れた髪が、彼女の白い頬を隠した。
「………!」
冷たい滴が胸の上で沸騰した……錯覚。
ようやく、雨雲に切れ間が生まれた。
永遠のように停止した瞬間に、薄い光が天空から差し込む。
少女の手が軽く握られたまま、男の胸に押し当てられる。彼女の肩を押さえた男の右手が離れ、少女の頬に触れる。顎の先を指先で支える。
自由になった肩を、彼女は小さくすくませた。拒絶を忘れ、ゆっくりと肩を沈ませ椰子に委ねる。
「舞……」
垣間見えたのは軽く塞がれた少女の唇。
拳を開き、彼女は男のシャツを握った。
頭を起こしてゆく長身。少女の顎を支えた左手は離れない。
瞼を上げた黒い瞳は、男の視線の中に理由を探すように見上げ続ける。
右腕で、椰子の幹を突き放すようにして男が身を引く。弾かれた椰子の葉が、晴れた空に最後のスコールを弾き上げる。
振り落ちてくる滴に、少女は頭をすくませ目を閉じた。肌に落ちた冷たさに、小さく声を上げる。笑い声に変わった。
同じ雨の名残を浴びながら、男は濡れた髪を掲げた両手で絞る。少女の無邪気な笑みを見下ろし、目を細くした。
『船に戻る。出発の時間だ』
海へと歩き出す。低く告げて、二度と振り返らない。砂浜を下る長身は、何も起きなかったかのように無表情だった。
紫月に背を見せる少女は、その場で男の背中を見守った。
低いモーター音が響き、グリーンが基調の迷彩色を施された小船が沖へと走り出す。片手で操りながら、船上の青年は金の記章がついた軍帽を深く被る。肩に国軍の階級章がきらめくカーキ色の軍服を羽織っていた。
……正規軍がグルだと?! それとも奴の方が遥かに上手ということか? しかし、何のために?
スコールの中、東洋の少女に逢うためだけに……?
理解不能。このひと時にどんな意味がある? そうまでして、逢いたい女なのか? それとも、妹に関してなら完全に我を忘れる紫月を鼻先で笑うため? 奴が故意に残す、現れたという痕跡には、常に嘲るような気配を紫月だけが感じてきた。強烈な自己顕示。絶対の自信。いつでも紫月の宝石を奪うことは可能だと言いたげに、せせら嗤って。まるで駆け引きのスリルを楽しむような。
紫月には、大切な妹が、ただの駒のように扱われているようで、不快さは頂点に達する。それも『Z』の狙い通りか。
事実、口に砂を突っ込まれたような、苦々しさが残った。
他人の家に、裏口から踏み込むような真似。
それも土足で。家長である彼は、完全に無力だった。
少女は、髪に降った滴を丁寧に指先で払う。微かに潤んだ瞳が、踏み込まれた熱さのやり場を探すように、揺れ続けている。
紫月は息を詰めた。ぬかるみから勢い良く、足を引き上げる。
だが砂地はすでに、泥水を地下深くに吸い取っていた。
「! う、あ……!」
バランスを崩したのは、足元のせいだけではなかったが。
紫月には、自身の動揺など認めるつもりはない。
手近な椰子に手をついて体を支えた瞬間。頭上から盛大に、本当に最後の雨が降ってきた。だが構わず、前に踏み出した。
「……兄さん……」
目を見張った舞。紫月の視線、異様な眼光に、瞬時にその意味を悟ったようだった。指先で、自分に唇を押さえる。
紅い唇。十五歳の少女らしからぬ、しっとりと濡れた唇。
「舞」
突進するように歩み寄る紫月。目を逸らし少女は足を踏み出す。兄を避けるように、彼との間に立つ椰子を迂回して、先にコテージへと続く、庭を縫う木造りの空中回廊へと駆け込む。
「待ちなさい。舞?!」
髪をなびかせた横顔に、紫月の動悸が高くなる。
頬が、みるみる赤く染まってゆく。熱さに自分でも気付き、それを手で隠すようにして、彼女は先を急ぐ。
「舞? どうして逃げるんだ?
ちゃんと説明をしないか?! 何んであいつがここに居る?
何を話した?! 僕に言えないようなことなのか」
大股で追いかける。走る必要などない。少女は我を無くして、道を間違えた。母屋の方ではなく、東屋風のテラスへと続く廊下であったことに気付き、足を止めた背中が迷っている。
「舞っ?! 僕の話が聞けないのか?」