あるパイロットの独り言-5-
マダガスカル島を攻略することに成功した後、僕らは訓練に明け暮れていた。稀に輸送機の護衛任務などに借り出されることが合ったが、比較的平穏に過ぎていった。インド洋での戦いは移転前にも経験してはいたが、今回は少なくとも船の上だけではなく、マダガスカル島に上陸することも可能だったから、多くの将兵は喜んでいたと思う。
攻略したばかりで娯楽など何もなかったが、それでも陸の上にいるというのはうれしいものである。以前だったら、占領したことでやりたい放題のことをしていたかもしれない。しかし、今の僕らは理性ある行動を求められており、誰も島民に手を出すことはしなかった。ある程度開発されれば別であろうが、今はあまり長くいたいとは思わない状態であった。
僕らの誰もがこの先どうなるのかということに興味があった。このまま欧州、つまり地中海に派遣されるのだといわれていたが、僕としては命令があれば行く、そう考えていた。なぜなら、僕らはあくまでも兵であり、命令には従わなければならないからである。とはいえ、僕自身は移転してから手にいれたシミュレーションゲームの影響もあって、戦略を考えるのが好きだった。だから自分なりに考えていた答えは、一度中津島に帰るのではないだろうか、ということだった。それは当っていた。
移転暦八年二月一〇日、僕らは本拠地ともいえる中津島に帰還した。上の人間、司令官や将官はともかく、僕らには一週間の休暇が与えられた。むろん、僕には家族がいない、それは多くの将兵がそうであるが、中にはテレビのお見合い番組で結婚したものもいた、彼らにとってはうれしいことであろう。僕は本を読むか音楽を聴くくらいしか過ごし方がなかったはずだった。僕だけではなく、多くの将兵がそうであろうと思われた。
しかし、僕が軍港の埠頭に降り立ったとき、あの二人が出迎えてくれたのである。そう、沿海州からの移民で、島で農業をしていたあの二人であった。娘はまだ五歳だったが、母親の歳は僕の二つ上だった。娘、名前をマリアという、が多くの兵たちの中から僕を見つけて僕の元に駆け寄ってきたのである。僕は彼女を抱き上げながら、母親、名をタチアナといった、にただいま、と声をかけた。むろん、生粋のロシア人というわけではなく、日本人の血も少ないが混じっている。
僕がタチアナ親子と知り合ったのは、二年ほど前だった。商港にほど近いショッピングモールで迷子になっていたマリアを助けたのがきっかけだった。それ以来の付き合いで、マリアは僕を父親のように慕ってくれていた。結婚を考えなかったわけではないが、タチアナの夫が統一戦争で戦死したと聞いていたから、また軍人とは結婚したくないだろうと迷っていた。
その夜、僕はタチアナの家に、先月、彼女は実家を出て軍港近くのアパートに引っ越したという、に呼ばれることとなった。日本料理ともロシア料理ともつかない夕食の後、僕はタチアナが実家を出た理由を問うた。それは、父親が同じ沿海州からの移民で、商港近くで商店を営んでいる男性との結婚を勧めてきたからだという。タチアナ自身もあまり乗り気ではなく、マリアが泣いて嫌がったため、家を出てこの近くのレストランで働いているというのである。それを聞いて僕の中で何かが音を立てたように思う。
そうして、僕は自分の気持ちをタチアナに告白した。そして、軍人だけどそれでもよければ結婚しよう、そう結んだ。タチアナは私は未亡人よ、といって躊躇したが、僕はそれでもかまわない、そういうとOKしてくれた。結局、翌日は彼女の実家に挨拶に行き、了承してもらうと、すぐに籍を入れて海軍本部に届けを出した。このとき、理由はわからないが、僕ら移転組の場合、結婚を含めた多くの事例には届け義務が課されていたのである。結婚式は一ヵ月後に行われることとなった。
多くの仲間たちからは冷やかされたり、手荒い祝福を受けて僕は守るべき家族を得たのである。マリアはことのほか喜んでくれたし、彼女にお父さん、そういわれることに喜びを感じる僕がいた。そうして、僕は改めて彼女たちを守るために戦おう、と決意した。同時に、必ず生きて帰る、とも誓った。
そういう私事はあったものの、一週間の休暇後はまた厳しい訓練が続けられた。なぜなら、僕らには徹底的に欠けている点があったからである。それが電子戦に弱いということである。いくら家庭用家電製品や家庭用ゲームが不自由なく使えるとはいえ、根本的な問題として、電装関係の操作はどうしても遅れてしまうのである。これは具体的にデータで示されていることであった。
僕自身は再び欧州に派遣される時期は近いと感じていた。一般兵である僕が入手できる情報からでもそれは明確であったからである。そして、おそらくはこの派遣で戦争が終わるだろう、ことをなんとなく感じてもいた。だからこそ、家族といられる時間を大切にしたいと思っている。時間の許す限りは家族と過ごすことが多くなったのはそのためかもしれない。とにかく、一刻も早い戦争終結を望んでいたのは僕だけではないはずである。
この期間を通じて艦艇の多くも改装されており、それは僕の関知するところではない。が、艦載機乗りである僕らにとっては重要なことが二つあった。今回の改装により新たに装備された蒸気カタパルトとデータリンク機能である。前者はより強力になり、機体に対する負担が大きいという情報があったからであり、後者は戦術情報を瞬時に機体側で把握することができるというからである。どちらにしても、僕らにとっては重要なことであった。
改装は何も艦艇だけではなかった。僕らの乗る機体にまでおよんでいたのである。メカニカル的なことは判らないが、僕らの乗る<流星>はこれまでは一一型といわれるタイプだったが、今回すべての機体がFCSが交換されており、一部の機能は後席のレーダー要員がいなくても使用できるようになっていたのである。これは後席のレーダー要員が負傷した場合に備えてのものだという。これまでの訓練と実戦において、体調を壊したり、負傷した場合の備えだということであった。
実際、訓練で後席のレーダー要員が失神して攻撃訓練が不可能になったこともあったという。結果として、対地攻撃や対艦攻撃ができなかったというケースがあったという。格闘戦訓練や高機動飛行でレーダー要員が失神するというのはよく聞いていた。これはいかに僕らの身体が現在の戦闘機のジェット機に絶えられないかという証明であろう。僕らの時代、ジェットコースターなどという乗り物などなかったし、乗用車すらなかったのである。それが影響しているのではないか、そう説明されたことがある。
つまり、僕らの時代の乗り物といえば、自転車、バス、鉄道、船であり、オートバイ、乗用車、旅客機といったものはなかった。あるにはあったが、庶民が気軽に乗れるものではなかった。そういった乗り物によるスピード感というものがまったくないこと、それが高機動に弱い、という原因ではないだろうかとする学者もいるらしい。とはいえ、僕らは誰もが訓練で乗り越えることができると考えている。
つまり、僕が言いたいのは、今回の訓練では単独戦闘訓練が加わった、ということである。これがことのほか難しいのである。機銃のみの有視界格闘戦はともかく、単独での誘導弾攻撃訓練は僕自身非常に困難だと考えている。情報量が多く、一人で処理するのには時間がかかってしまうのである。
僕自身、これまであまり気にはならなかったのだが、単独では操縦席のメインディスプレイに表示される情報を読むことが非常に遅いということに気づいた。これまでは後席要員に頼っていたことのツケが返ってきたのだと思うことしきりである。
とにもかくにも、四月になって僕らは再び中津島から出撃することとなった。出発前の訓示では地中海に向かうということだった。こうして、僕は得たばかりの家族を残していくこととなった。マリアは泣いていたが、タチアナは内心はともかくとして、笑って送り出してくれた。家族のために僕は必ず生きて帰ると決意しての出撃であった。